2006年06月10日

給料泥棒という言葉

子育て中の知人(女性)が「このままじゃ給料泥棒」とネットで書いていた。次々に風邪を引いたりする子供らのためにふだんから会社を休みがちだったのに加えて、共働きのご主人が事故で怪我をしたという。夫は入院が必要で、看病のため自分も仕事を休まねばならない。
「昨年よりボーナスが増えているのに申し訳ない」と、彼女は仕事を慮りひたすら自分を責める。決算期には未明の残業も厭わない彼女が。

「給料泥棒」という言葉を使うべきでない人が使っているのは痛々しい。彼女は決して泥棒ではないのに。
地方公務員の優雅な仕事ぶりを見ているとこの言葉をつい使いたくなるし、何よりも私自身が該当者であることは言うまでもないのだが、できれば封印したい四文字だ。給料泥棒であるかどうか、課せられた仕事に比して報酬を多過ぎるかどうかは本人と雇用主の問題であって、(公務員についてはともかく)周りがとやかく言うことではない。この言葉が他人に向けて発せられるとき、そこに妬みの感情が潜んではいないだろうか。

話が広がりすぎた。子育て中の女性が要らぬ引け目を感じない世の中であってほしい、自分を給料泥棒呼ばわりしなくてもいい社会であってほしい、というのが書こうと思った発端だったのに。本当に今の日本はそのへんをどうにかしないと、このままでは裕福な家庭以外では子供を満足に育てられなくなってしまうだろう。母親たちが疲れ切る前に何とかしなくては。
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2006年06月08日

エレベーターという機械

シンドラーエレベータの事故は衝撃的だった。エレベーターに乗るたび、会社名を確認しているのに気づいて乗り合わせた他の乗客(というのだろうか)と顔を見合わせ苦笑い、ということをここ数日何度か体験している。乗るエレベーターの会社を選ぶわけにはいかないし(当然だ)、もともと日頃から極力階段を使うようにはしているが、5階以上の高低差があると乗らないのはしんどい。
ところでサイトでこんなに強気のコメント出してて大丈夫なんでしょうか。>シンドラー社

だが、はさまれるまで至らなくとも似たような事例は、自分の会社のエレベーターの箱でも二度ほど出遭ったことがある。到着階のフロアより箱の床がわずかに低い状態、10センチほどの段差つきで止まったのだ。下を見ずに歩いていたら蹴躓いていたかもしれない。
そのときは「危ないな」ぐらいにしか思わなかったが、考えたら10センチずれるものであれば1メートルずれても不思議ではないわけで、港区と同じような事件はわが社でも起こり得たかもしれない。

エレベーターやエスカレーターというのは結構デリケートな機械なのかもしれない。メンテナンスで利用できない時間帯に遭遇すると、自分の権利を侵害されたような気がして無性に悔しかったりするのだが(馬鹿だ)、日頃の安全運行は案外と職人の調整による微細なコントロールで実現されているのかも、と事件をきっかけに思った。そして職人仕事は軽んじられるようになって久しい。
外資系で起きた事件ではあるが、日本社会の精度劣化はこれに限らずいろいろなところでその徴候を見せているのではなかろうか。
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2006年06月06日

人生の意味について(エリオット・ローズウォーター化計画)

たいそうな標題をつけてしまったけど、羊頭狗肉ですので予めお詫びしておきます。

これまで出世したいとか金儲けしたいという感情は薄かった。勤め先にも別に幹部候補生として採用されたわけでもないし、とりあえず生活に困らない程度の収入があれば十分。車と家が手に入ればいいや、ぐらいの思いしかなかった。未だに家はないけど、まあこんなものでしょ、という日々をこれまで幸運にも送ることができた。

それが最近、このままではいかん、との思いが急速に強まっている。今すぐ人並み外れた大金持ちになりたい。
原因は子供をめぐる問題だ。出生率の減少、そして結婚する人々の相当割合がいわゆる「できちゃった結婚」(嫌な言葉だ。shotgun marriageぐらい迫力のある表現はないものか)であること。→結婚期間が妊娠期間より短い出生の傾向(厚労省サイト)
すべてがそうであると決め付けるつもりはないが、意に沿わぬ妊娠の結果としての結婚・出産が少なからぬ割合で「でき婚」には含まれているはずだ。そして、これまたすべてがそうであるとは思わないが、そのような境遇の子供たちはより不幸である可能性が高いのではなかろうか。

自分がこんなに子供が好きだとは気づかなかった。今や路上で出会う機会の少なくなった、小さな子供の笑顔を見ると心が本当に和む。そして、犯罪の犠牲になった子供の生前のビデオなど(最近見る機会が多い)を見るとまったく居たたまれなくなるぐらい動転する。なんてことだ。
女性が今の社会でどれほど人生選択に苦労しているかはわきまえているつもりだが、それでも専業主婦になって子育てに専念できるうらやましい生活を顧みない女性がどうしてこんなに多くなってしまったのかについては心底納得はできていない。母性はすばらしいと思う。

と右翼的伝統主義的女は家に入って家事をしてればいい主義的側面が自分の中で最近になって急台頭してきたことに、我ながら驚いている。でも、女性に子育てを押し付け直せばすべてが解決するはずもないことも承知だ。もはやそんな時代ではない。ではどうすべきか。

そうだ。俺がものすごい金持ちになって子供を救うのだ。

そんな使命感が自分のどこに潜んでいたのかわからないが、私の正常な判断能力を失いつつある脳髄が出した結論はそれだった。
統計的に「不幸になりそうな子供」を抽出し起こり得るアクシデントから未然に防ぐために親元から取り上げる法律は作れないものか。前科前歴や多額の借金があり定職を持たず親や地域との関係も疎遠で娯楽はパチンコなカップルの間に生まれた子供がどこにいるかは、行政も既に把握しているはずだ。その子を俺(ものすごい金持ち)が買い取ってやる。縁切りに金ならやるから二度と顔を出すな。この子の人生から立ち去れ。云々。

非常な暴論であることはわかっているが、今の行政は電車道の悲劇が待ち構えている子供らに対して余りにも無策に過ぎないか。何も怪我したり死んだりだけが悲劇ではない。愚か者に育てられて愚かな人生を送ることも立派な悲劇だ。
「どんな不幸な境遇でも、実の親子が一緒に暮らすのが一番」というグッドオールド良識を信じていてはもはや手遅れではないか。いや、親や本人がそう思っているのならまだいい。とりあえず「邪魔な子供は金で売り飛ばしたい」と思っている親からはどんどん子供を買い取ろうではないか。
里親ネットワークでも新型養護施設でもいい、その後の展開は追って考えよう。まず救え。

血の繋がりは大事かもしれないが、それがすべてではないはずだ。誰か俺に金をくれ。今すぐ子供を救いたいのだ。馬鹿げた考えであることは百も万も億千万も承知だ。ことはそれぐらい急を要している。

追記:
説明が足りなかったが、ローズウォーターって何よ、という方はこちら参照。
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2006年06月01日

アルベルト・スギ氏の声明

一応リンク。あとでコメントします。Alberto Sughi 30 May 2006
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2006年05月30日

不安促進剤

最近風邪を引いて医者に行くとよく処方される「PL顆粒」(リンク先はシオノギ製薬の医療関係者向けサイトにあるPDFなので踏むときは注意)との相性が、どうやら非常に悪いようだ。
風邪の治りがいまいちなのもさることながら、私には副作用が強く現れる。不安感だ。
症状を緩和させたい一心で飲むのだが、そのたびに後悔する。

前述のPDFでも「その他の副作用」という欄に十把一絡げでちらっと「不安感」と書いてあるが、私の場合、服用した次の日は普段よりもおどおどして視線が定まらず挙動不審になっているらしい。風邪薬を飲んだことによるだるさとは明らかに別の作用が働いている。不安が心を占めているため失敗も多く、それがさらに周囲の視線を気にさせるという絵に描いたような悪循環に陥りがちだ。ろくなことがない。
だが医者にとってはずいぶん使いやすい薬らしく、罹りつけの医院で「これ苦手なんです」というとその回は出さないものの、次のときにはまたさくっと復活しているから始末に負えない。何とかして下さいよセンセー。

効きすぎるのか見当違いの効果が出るのか、もともと薬というものが合わない体質らしい。米国滞在中に交通事故に遭ったことがあった。医者で「精神的にもショックを受けた」と言っただけでさらっとSSRIが処方されたのには戸惑ったが、好奇心もあって試しに数回飲んでみたら、その都度何だか妙に怒りっぽくなってしまってさらに驚いた。ちょっとしたトラブルで感情が暴発し、些細なミスや手違いで相手をごりごり難詰しまくった。このままではオフィスに居場所がなくなる、と我に返ったときに肌寒く思うほどの憤怒の大波だった。鬱の反対の感情は怒りなのだろうか。

若い頃は睡眠薬代わりに適当な風邪薬を飲んだり、頭痛ばかりでなく何かあったら即バファリンを倍量投与するなど、自分の体にめちゃくちゃなことばかりをしていた。その反動が今になって出ているのかもしれない。いまPL顆粒を数包一気飲みしたらどんなことが起きるか、考えるだけでも恐ろしい。
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2006年05月26日

The Best Weather of the Year

というものがあるとしたら今日だ、と思った。きのう、5月25日の朝のことだ。

仕事の段取りはどうでもいいから、必ず外、しかも露天で昼ごはんを食べよう、と固く心に決める。会社で誰彼構わず「表に飯を食いに行こう」と誘ったが、「うーん、忙しいんだよねえ」と笑って取り合わない奴らばかりだ。
最近ご無沙汰の女友達に「きょうはいい天気だ」という無内容なメールを送る。返事は来なかった。

こんないい天気なのになあ。人生はこういう日のためにあるのに。

結局、いつものようにシティセンターのデリで弁当を買って中庭で食べる。旧新橋停車場から「グランカフェ 新橋 ミクニ」が撤退した後に、近く銀座ライオンがビヤホールを開くらしい。これはこれで楽しみではある。しかし何とささやかな。

今日みたいな日にどこにも行けないなんて、大人になるのは本当につまらんことだ。いまどき10代のガキでも考えないような陳腐な大人批判を胸に、涼しい風に吹かれて弁当を食べた。うまかった。

来年の5月、またこんな日が巡ってくるのを楽しみにしよう。
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2006年05月24日

寝る男

Sleeping.jpg大江戸線できょう出会った風景。福岡や大阪では何度か見たことがあるが、ついに東京にも来たか、という感じだ。
走行中の地下鉄車内でシートに寝ている男に、プライバシーなどあるのだろうか。とは言え肖像権を主張されたら面倒なので、一応目にモザイクぐらいはかけておくことにしよう。

藤原新也さんがブログ「Shinya talk」で「日本をあきらめない」と題して紹介していた写真を思い出した。
 私は世界の国々をおおかた見ているが、写真のように乙女年齢の子が自身をゴミ化するような状況は逆立ちしてもお目にかかることがないし、これはきわめて日本固有の一光景だ。おそらく他の国の人がこの写真を見ると驚愕するだろう。(2005/9/19付)
と藤原さんは書いている。女子高生がこうならば、多少なりとも身なりに気を配っているらしい若い男も自らをゴミ化しても不思議ではない、ということか。逆かな。

こういう景色が当たり前になってほしくない。シートの野放図な占拠から目を背けていると、やがて車内での様々な出来事が目に入らなくなるような気がするから。
もっとも本当は、寝ている男に「他の人に迷惑だから起きろ。具合が悪ければ病院に行け」と話しかけるべきなのだけど、その勇気と余裕がなかった。我ながら情けない。
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盛岡初夏景

kaiunbashi.jpg初夏景という言葉があるのかどうかは知らない。Googleでは中国語らしきサイトが2件ヒットしたけど、果たして「初夏の景色」の意味なのかは定かでない。
曇天の下、北上川のほとりでW-Zero3を取り出し画像を数枚撮影。誰もいない河川敷のベンチで、黒ずくめのゴスロリ少女がひとりiPodを聴いていた。いろいろな人生があるものだ。

kitakamigawa.jpgW-Zero3のおまけ機能である内蔵カメラは、「写真」のつもりで撮ると大変なことになるけど(とりわけ暗所での撮影は絶望的だ)、イメージをメモする道具としては、彩度の妙な強調などそれなりに味があって面白い。
本体にめり込んだシャッターボタンを押し込むとどうしても手ぶれが発生していかんともしがたいので、静止している被写体相手にはタイマーを用いるに限るようだ。シャッターが落ちるタイミングも未だによくわからんので、そもそも静止していないものを思ったとおりに撮影することは、事実上不可能と思った方がいいのかもしれない。

W-Zero3については既にあちこちで言われていることだが、欠点を含めて愛せる人でなければおすすめできない道具だと思う。でも欠点ゆえにこれがまた結構愛嬌があって、そしてW-Zero3に惚れ込んだフリーウェア作家らが欠点を補うユーティリティをいろいろ作ってくれているところも実にいい。DOS/Vやパームのはしりのときにも同じようなブームがあったのだろうが、ユーザーが育てていく道具、というサイクルにうまく乗った(仕掛け人がいるとしたらすごい)ように思う。とはいえ、次世代機種が出るときに修正・機能追加すべき点が多々あることも事実だけど。
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2006年05月18日

腹から老いる

会社を訪ねてきた知人と昼飯後、話がてら近くのタリーズでカフェラテのあてにシナモンロール(こてこてのシュガーコートしてるやつ)をつまんだら、夜中まで全然空腹にならなくて困った。

そういえば最近、大好物だった豚の角煮が食べられなくなった。少しでも酒が過ぎるとすぐ消化器が機能停止する。
嗚呼わが放埓な食生活よさらば。ウェルカム老人食。
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筋肉少女帯をもう一度

週刊アスキーに、大槻ケンヂの連載小説「筋肉少女帯物語」が載っている。4回目の今週は「猫のテブクロ」あたりの話で、恥ずかしさと悔恨とわずかながらの懐かしさが入り混じった複雑な思いで読んだ。
当時は大槻ケンヂは一種の天才で思うまま奔放に表現した結果があの姿なのだろう、と思っていたが、この小説では結構戦略的にサブカル路線を狙って自己とバンドを演出していた様子が描かれており(100%真実かはわからないが)、業界事情に疎い自分にとってはなかなかの驚きではあった。

まあ、たとえそうだったとしても、過剰な自意識を持て余していた20代の私に、筋肉少女帯の歌と演奏が何がしかの影響と自省の機会を与えたことは事実だ。今でもカラオケで「踊るダメ人間」をほとんど死ぬ覚悟で歌ったりするのだが、その時常に我が脳裏に過ぎ去りし青春の悔恨の苦さが一瞬蘇ることを誰ぞ知る(知るわけがない)。
長すぎるので続きはこちら
posted by NA at 23:10| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月10日

大江戸線はうるさい

iPodを常用するようになってから気づいたことだが、地下鉄というのは結構騒音のレベルに違いがあるらしい。
その中でも特にうるさいのは都営大江戸線だ。

イヤフォンからそれまで普通に聞こえていた音楽が、大江戸線に乗り換えた途端に聞き取れなくなってしまう。改めて外の音に耳を澄ますと、確かにこの路線のうるささは度を越しているように思える。円周コースでカーブが多いためか、レールのきしみが常に響き、会話が困難な騒音レベルが延々続く。一度dBメーターを持ち込んで測定してみたいものだ。

大江戸線は小さい車両でトンネルも狭いようなので、それだけ壁に跳ね返った騒音が列車内に侵入しやすいのかもしれない。原因はともかく、これだけの騒音を毎日聞き続けている利用者は、長い歳月の間に聴力に影響が出てくる恐れがあるように思うのだがどうだろう。
公共交通機関というものは気に入らなければ使わないというわけにはいかない。光が丘から門前仲町あたりまで毎日1時間を往復で乗っている人の耳は、かなりやばいことになっているのではないか。この状態に慣れてしまってはゆで蛙の運命が待っている。
米国ならば絶対集団訴訟のネタになっているだろう。

追記:同じことを思っている人は多いようだ。
大江戸線 うるさい 騒音 - Google 検索
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2006年05月09日

追記式墓碑銘

先日mixi日記が発掘されて話題になった5人変死事件(ソースはYomiuri Online。なんとも扇情的な見出しだ)で、またまた新しいログがネットから見つかったらしい。

多分現代の警察捜査では、被疑者不明の殺人・失踪事件が起きたらまずケータイとPCを押収して交友関係を探るのだろう。隣近所や職場・学校でのリアルな人間関係は希薄になる一方、電脳世界の中には自己主張や日々の記録、果ては日ごろの悩みやうらみつらみが溢れている。
誰かのサイトでついうっかりコメントしたりmixiでなら足あとをつけたばっかりに、二人組みの刑事が突然事情聴取に訪れて大いにうろたえたというネットワーカーも、結構いるのではなかろうか。

ひとごとだと思ってはいけない。今のところ予定も心当たりはないけど、こんなことを書いている自分だっていつ不慮の死を遂げるかわかったものではない。
私のブログは私という人間を知る手がかりになり得るだろうか?と思って読み返してみたものの、その場の思いつきでしかない愚かな書き散らししか見当たらなかった。まあ社会に何の貢献をすることもなく世を去った男の墓碑銘としては相応かもしれない。日々の下らない思いつきの集積こそ私の相似形にはふさわしい。

しかし自分の本体が消えた後も、言葉や映像がこんなにたやすく人目に触れるかたちで後に残っていいものだろうか。死の時には自分の言葉やファイルも道連れに空しくしたい、という人も多いのではないか。
いや、別に秘蔵のエロ動画コレクションの処分だけじゃなくてですね。

ディスクを暗号化するやり方をネット上のブログのファイルにも適用し、一定期間ごとのアップデート作業が途絶えたら解読・利用不可能なものにする、という付加サービスはどうだろうか。で、民法30条を援用して7年音信不通の場合は削除してしまう、と。Internet Archiveなどに捕捉されないためにも、動的なページ生成は必須だろう。オプションで、ログをまとめてアーカイブして指定したメールアドレスに送付する遺言機能をつけるのもありかも。

……という余計なことを考えている暇があったら、世人の役に立ち後世に残しても恥ずかしくない立派な文章を仕立てることにより意を注ぐべきなのだろう。やれやれ。
posted by NA at 02:24| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月07日

世田谷について

お前はいきなり何を言い出すのかと言われそうだけど、「世田谷」とは「世田ヶ谷」なんだ、と先ほど突然気づいた。Wikipediaの世田谷でも確認。
横っ面を張られたような結構なショックだった。「谷」は「がや」と読むものだ、と世田谷方面に住んでいた小さい頃からずっと漠然と思い込んでいたからだ。

谷の訓読み(音読みは「コク」)は「たに」か「や」であって、「がや」であるはずがない。市ヶ谷や幡ヶ谷などの類例を見ればすぐわかりそうなものだが、他の地名と出会う前に「世田谷」の字と発音を鵜呑みにして覚えていたため、「せ+た+(が)+や」という連なりであることをはっきりと認識していなかったのだろう。人名や地名でほかにも「世田」はいくらでもあったのに、今日になるまで気づかなかった。何たる愚かさ。

別に具体的な損害などが発生したわけではないのに、なぜか激しく動揺している。アイデンティティーの危機というものはこんなことでも訪れるものなのだろうか。よくわからんが。
長年の勝手な思い込みがほかにもないか、にわかに気になってきた。

関係ないが「谷」を「や」と読むのは東日本が多いらしい。有限会社UNOラボさんのサイト怪しい地名研究の精緻な集計・分析は興味深いので、よろしければご一読を。
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2006年05月06日

ピチカート・ファイブ・ソングブック(小西康陽)

1998年12月刊の楽譜。amazonではユーズドで購入するしかなく、今日の時点で12,000円という高値がつけられている。版元のサイトでも購入不可能になっていたが、先日問い合わせたら奇跡的に1冊だけ在庫があった。人間あきらめないのが肝心である。

小西さんのmaj7(m9)やW/Xの偏愛ぶり、野宮さんが意外に低い声で歌っていること(線が細い声だからアルトっぽく聞こえなかったが、バックに埋もれないようにアレンジ・録音するのは大変だったろう)などがわかって面白かった。個人的には、「キャットウォーク」のAメロ(≒「野いちご」のサビ)と解散1周年に出たトリビュート盤「戦争に反対する唯一の手段は」での「悲しい歌」(和田アキ子熱唱。必聴もの)Aメロの、オリジナルとは差し替えられたコード進行の共通性(G#m - F#m - E - A)に気づいたのが収穫だった。窪田晴男の批評的アレンジというか、小西節への手の込んだオマージュというか。

話がずれるが、トリビュート盤の同じく窪田編曲によるデュークエイセス「新しい歌」は、ともに埋もれていた原曲の良さと男声四重唱の魅力を引き出したという意味で出色の作品だと思う。ブラスの快速リフにシャープなハーモニーが絡む緊張感はひたすらかっこいい。このアレンジ譜、どこかにないかなあ。歌える友達を3人呼んできて実際にやってみたい。

この楽譜はメロディライン+コードのみのシンプルなものだ。小西さん自筆ではなく採譜された関係でか、メロディが怪しいところやコードの誤りも散見される。もともと高めの定価がついており、彼らのヒット曲しか知らないような人には勧めにくい。
だが個々の曲に付された小西さんのコメントは、いろいろな意味で興味深い。自作を野宮さん以外の人、別の編成で歌ってもらうことを空想する文章など、解散まで2年余りを残した当時、彼がもうPizzicato Fiveでの活動に飽きていたのではないかと推測できる言葉が端々に覗いている。私は野宮さんの歌は嫌いではないが、小西さんの願いが一部実現している先のトリビュート盤の方が、彼の音楽世界をより豊かに表現できていることは否定できないと思う。
Pizzicato Fiveのやり直しにも見える小西+野本かりあのプロジェクトが今後どのような方向に進むのか、楽しみに見守りたい。
posted by NA at 08:38| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

またエントリ失敗だよ

あーっ。なんでだー。
また性懲りもなく長文をオンラインで気合入れて書いていて、バックアップせずにサブミットしてしまった。例によってエラー(日付の変わり目はサーバー負荷が高いのか?)し、どういうわけかブラウザ上でも戻れず、書いた内容は1ビットたりとも回収不能。
学習能力低すぎ>俺

打ちひしがれたのでもう寝よう。
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2006年05月04日

憲法についてちょっと考えた

日付変わっちゃったけど一応記念日だったので、最近気になっていたことをまとめてみよう。いや、たぶんまとまらないけど。

史的唯幻論の岸田秀の受け売りになるが、対米戦争の敗戦は日本人のアイデンティティーを粉々にしたであろうことは想像に難くない。敗北という受け入れ難い現実を咀嚼しやすくするため(あるいは見て見ぬふりをするため)の道具のひとつが新憲法であり、そして靖国神社だったのではないか。
無数の死に意味を持たせる方法として、前者は大風呂敷を広げた恒久平和の理念をうたい、後者は退行的に霊魂の不滅をうたった。ベクトルは異なるものの、これらは相矛盾しない存在だったのだろう。
それらの本質はともかく、実際に国民の心に起きたことは結局は現実逃避でしかなかったのではなかろうか。平和主義の描いた夢は美しく、実際に日本人はそのおかげでここまで戦争に行かずに済んだのだが、それを自らの血肉とするまでには至らなかった。

精神分裂状態が半世紀以上続いてきて、今から病室の外に出ろ、そこで生きろ、と言われてぼうっとしているのが憲法を巡る国民意識の現状なのではなかろうか。病室にいること自体がおかしいのだ、「普通の人」はちゃんとしているぞ。云々。
だが、原因となったトラウマはもう癒えたのだろうか。

他がすべて正気の世界で唯一の狂人、ということなら話はまだ簡単だが、他のメンバーも多かれ少なかれ己の中に狂気を抱えているのが今の世界だろう。というか、ある種のきちがいじみた共有概念こそが国家の統一を支えているのかもしれない。
曲りなりにも60年以上にわたって日本という国を規定してきた平和主義から離れたとき、私たちは何をユニティの根拠に置くのだろう。

為政者の戦争責任を問うにはいかんせん時が経ち過ぎた(それでも一度きちんと整理して歴史的な定説をつくる努力を怠ってはいけないと思うが)。時の波にさらされているのは憲法だけでない。直接戦死者を知る遺族がいずれいなくなるであろう靖国神社もまた空洞化していくに違いない。

前任者がタコな仕様書を書いて発注した後で後任に押し付けた仕事と似た感じだ。
どちらかといえば自分は護憲寄りだと思うが、何をし出すかわからないきちがい国家がすぐ側にいる状況で自衛隊を廃止しろだのなんだのという世迷言を言う気はさらさらない。現状は明らかに矛盾が生じている。すぐ解消すべきなのか。一応機能はしているからいじらない方がいいんじゃないか。でも……。

逆接の多い文章はまどろっこしくていけない。自分でも何を言いたいのかわからないからだが。
ひとつだけ言えるのは、憲法改正案が国会で議決にかけられ、たとえば杉村太蔵の1票で採否が決まるような事態にはなってほしくない。それだけは絶対に勘弁。
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2006年05月02日

非喫煙家は妄想する

駅からの帰宅時、ごく普通の生活道路を歩いていると思ってほしい。

数メートル前を行く人(大抵は男だ)が突然、歩きながらタバコを取り出して火を点ける。このままでは煙の直撃を食らう。好ましくない。タバコの煙、とりわけ人の吐いた湿り気のある煙を浴びるのは極力避けたい。

私はことさら大きなそぶりはせぬよう、もちろん余計な音を立てぬよう配慮しながら、自分の進路をわずかに右か左に逸らす。紫煙の濃い雲を避けるためだ。それでも拡散した煙の吸引は免れないが、まあ社会生活における受忍範囲というやつだと思う。

ところが、前を行く男はどうしてかそれを素早く察知するのだ。わざわざ私の前方を抑えるコースへと転針する奴もいれば、警戒と敵意の間ぐらいの視線をさっと飛ばす(「嫌煙者発見!」)奴もいる。何らかのリアクションが返ってくる頻度が、偶然とは思えないほど多い。
仕方がないのでスピードを落としても、なお歩調を合わせようとする奴すら、稀ではあるが一度ならずいた。なぜだ。

できるだけ気にしないように心がけてはいる。酒席の付き合いなどでのタバコは、これはもう仕方がないということで横で吸われても表情には出さず、観念して灰や背広で吸い込んでいる。
それでも避けられる路上では、本能的に回避行動を取ってしまうらしい。

人間は視界よりも広い範囲の気配を察することができるらしいので、私のわずかな態度変更が彼らのセンサーに触れた可能性は十分ある。だが、なぜ同じ空気を共有させようとしたり、いきなり剣呑なまなざしを送ったりするのかはわからない。煙から距離を置こうとはしているものの、私は別に歩きタバコ自体をやめさせようとはしていないのだが。
「こんなうまいものを吸わないなんて可哀想だ」と無意識のボランティア活動をしているのか、あるいは喫煙者らは非喫煙者のあずかり知らぬ理由によって深く深く追い詰められているのか。

以前内科開業医のお勉強日記さんのところで毎日新聞の喫煙者擁護記事への批評を読んで、大いに我が意を得た覚えがある。3大紙の記者をして冷静さを書いた署名論文を書かしめるほど、喫煙者は自分たちの現在の日常が脅かされることを恐れているのかもしれない。
後ろめたさを感じると、人はことさら強い態度に出がちだ。路上のさりげない行動にもそういう心理が働いている可能性はゼロではないだろう。

実はもうひとつ考えたことがある。中毒者ならではの超常感覚がニコチンの作用で発生しているのではないか、ということだ。覚醒剤でよく引き合いに出される、天井からの音が異常に大きく聞こえる感覚とか。
いや、これはどう考えても私の妄想だと思いますが。

思い直せば、「喫煙者」とひとかたまりに語るのは乱暴に過ぎる。いい喫煙者も悪い嫌煙者もいるのが世の中だ。気に障った方、ごめんなさい。私自身は単に非喫煙者であって、積極的に愛煙嫌煙どちらのカテゴリにも入りたくはないのですが。
posted by NA at 02:22| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月27日

不調nano

iPod nanoの具合がおかしい。
トップメニューから[Music]を選ぶと、リセットするというのか一瞬暗くなってかじりかけリンゴマークが出て、元のメニューに戻ってしまうのだ。

Reset All Settingsをやっても駄目。というわけで任意の曲を再生できず、今のところはシャッフル専用プレーヤーと成り果てている。ふだんはシャッフル再生で楽しんでいるが、こうなると「ああ、あの曲が聴きたいのに聴きたいのに」との思いが募るのが不思議。できないことに限ってしたくなるものらしい。

AppleStoreに持ち込むべきか迷いつつ、同種の症状の報告がないかブログを漁ったりオフィシャルサイトのFAQを探していて、新しいiPod Updaterが3月23日付で出ていることに気づく。アナウンスを見落としていたのかなあ。

追記:
Updateしてもだめだったが、復元をかけたら元に戻った。どうも釈然としないが、まあそういうものなんでしょうiPodって。
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2006年04月21日

古本ゲットバック

取引先の会議に顔を出すため池袋を訪ねたら、西口公園で古本まつりをやっていた。会議が早く終わったので、先方の「ちょいと一杯」の誘いを断ってテントへと向かった。

古本屋独特の埃っぽい雰囲気は苦手で、金の無かった学生時代を除いてはあまり利用したことはなかった。開けたページからパン屑やら髪やら爪やらが落ちてくると身震いがした。社会人になってからはブックオフに専ら売りに行くばかりだった。
たぶん老化なのだろう。かつて持っていて放出してしまい、今になってもう一度読みたくなった本が増えた。入手しづらくなっているものが多く、最近通りすがりに古本屋があると何となく立ち寄るようになった。

全盛期の筒井康隆の作品群や山下洋輔のエッセイなどをいくつか立ち読みした。かつてのように抱腹絶倒することはないものの、それらは今読んでも十分楽しく、現時点においても商品価値は一向に薄れているように思えなかった。でも新刊書店は圧倒的な発行数を処理すべく棚の入れ替えに腐心し、旧い刊行物は次々と追いやられているのが現状だ。もったいないことこの上ない。
正直なところ、筒井康隆(呼び捨てにするのはとても申し訳なく感じる)の新刊には食指が動かない。多感な少年時代に体験した、(今にして思えば)頂点だった筒井文学の凄さと比べると、「敵」「恐怖」などを読むのはとても辛かった。死ぬまで進化し深化を続ける作家もいれば、そうでない作家もいる。わが少年時代の最大のヒーローだった作家は残念ながら後者だった。

ハードカバー版「エディプスの恋人」があるテントで安売りされていたのを手に取った。この作品を最初に読んだときの衝撃は今も忘れられない。終幕に向けて一気に展開される世界観にしびれた。
これに限らず、70〜80年代の筒井康隆は常に新しかった。駄作などひとつもなかった。かろうじてその黄金時代の終わり頃をリアルタイムで追いかけることができたのは本当に幸せだったと思う。一時期の私にとって、本屋に行くのは常に、いつ出るかしれない筒井康隆の新刊を探すためだった。他の用事はすべてついでだった。
そして、筒井康隆文化圏の中から登場した山下洋輔のエッセイもまた衝撃的だった。伊丹十三の薀蓄本などの影響もあっただろうが、現在に至る読んでひたすら楽しいエッセイ本という文化は山下洋輔から始まったのではないか、とすら思える。

どかどか大人買いしたくなる心を押しとどめ、荷物の重さと部屋の散らかり様を勘案して「ピアニストを笑え!」のぼろぼろの初版本1冊のみを購入した。たぶん実家の押し入れの奥に、筒井康隆の解説付きの文庫版が眠っているはずだ。
帰りの電車で読んだ洋輔節は、やはり類まれな面白さだった。ところどころで既知の内容なのに吹き出しそうになった。
自分が永遠に17歳のままならよかったのにな、と生まれて初めて思った。
posted by NA at 21:36| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月17日

ゆりかもめ復旧

yurikamome.jpg汐留の日テレ前を歩いていたら頭上からモノレールの音が響いてきたのでW-Zero3内蔵カメラで撮影。

W-Zero3のカメラは光に恵まれた条件下ではまあまあの絵が撮れるけど、近接戦の弱さレスポンスの悪さはどうにもならない。メモ代わりに使うのであればマクロはほしいところだ。
posted by NA at 17:35| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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