2005年11月25日

チャーリーとチョコレート工場

かなりロングランだったけど、さすがに今週末で歳末映画に差し替えられるところだったのであわてて見に行く。「マーズ・アタック!」をこよなく愛するひとりとしてはやはり見ておかなくては、と思った次第。「コープス・ブライド」は終わっちゃったかなあ。

冒頭、町を支配するかのように巨大な煙突が威圧的な大チョコレート工場の登場でもう大喜び。ロシアはモスクワのど真ん中に工場があるチョコレート「クラースヌイ・アクチャーヴリ」(赤い十月)のことを思い出してしまった(⇒КРАСНЫЙ ОКТЯБРЬ)が、あれより遥かに悪そうで圧倒的な工場なのだ。
そして工場につきもののオートメーションというものの描写には常に心躍る。ベルトで生産ラインが流れていればもうどんな工場でもいい。先日たまたま自分で工場見学する機会に恵まれたときは随喜の涙を心の中で流したものだった。この映画はそんな工場マニアの期待を裏切らない。リズミカルに効率よく、その実非効率きわまりない工程でかたどられプレスされ紙に包まれて発送される無数のチョコレートたちよ!

というふうに始まるこのファンタジー映画は、悪趣味と紙一重の刺激的な映像満載で(一重隔てていないかもしれない)趣味の悪い(私のような)観客を大いに喜ばせてくれる。主人公チャーリー一家の生半でない貧乏ぶり、ゴールデンチケットを様々な方法で入手した嫌味なガキどもの嫌味っぷり、などなど。「帰る家がない」ところのベタなギャグには笑った笑った。
世評の高かったジョニー・デップの怪演も期待を裏切らない。

「あー面白かった」以外に何の言葉も出てこないな。明日また頭を整理してレビューらしい文章にしよう。

追記:
と書いたもののやはり改めて書くべきことは思いつかない。ここまで破壊的に馬鹿馬鹿しいものをよく作ったよなあ、と褒めてるんだかなんだかわからない言葉しか出てこない。
ああ、ミュージカル場面のすばらしさは特筆すべきだ。原作者による詩を最新のサウンドに乗せて歌い踊るウンパ・ルンパたちの痛快なパフォーマンスは白眉であった。ハマる子供が4人しかいないのがもう残念で残念で。ヴァージンTOHOシネマズ 六本木ヒルズではまだやってるらしいので、行きそびれている人は急いでGO!
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2005年10月05日

キラーストリート(サザンオールスターズ)

出かけようとしたらサザンのニューアルバムが届いた。発売日だったんだ。予約してたのに忘れてた。

中身を聴く前に、桑田のやたらめったら情報量の多い自作解説に読みふける。いろいろ思うことあり。この人基本的に一人称は「私」なんだなあ、とか。

たぶん桑田にとってはオリジナリティなんてどうでもよくて、若い日に聴き込んだ洋楽(及びその影響を受けた和製ポップス)の感動の数々を自分の手で再現することが彼にとっての音楽活動なのだろう。バンドをバンドとして維持することにも興味はなくなっているに違いない。ライナーノーツを読むと既に「サザンオールスターズ」が解体されてしまっている様子が如実にわかる。

あからさまに「アビー・ロード」を意識させるタイトルとジャケット、曲数の多さなどは、サザンの旅が終わりに近づいていることをファンに伝える桑田のメッセージだろう。日本のポップス史における最大のバンドの終焉に私たちは立ち会おうとしているのだ。
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2005年08月09日

映画「宇宙戦争」

どこまで行くんだスピルバーグ。ほぼ全編殺戮の嵐の2時間は正直きつかった。幼い日に初めて特撮ドラマを見て味わったであろう怖さを思い出した。もし私がボストンやニューヨークに住んだことがあったら(旅行したときに見た風景はちらりと出てきた)、きっと恐ろしさは幾層倍だったに違いない。

スターウォーズシリーズのよい観客でない私は多分あっちは見に行かないだろうが、所詮はキャラクター同士の葛藤のドラマだろう、と勝手に思っている。で「宇宙戦争」はと言えば、無力な個人がひたすら非対称的な暴力から逃げ回るだけでドラマもへったくれもない、お化け屋敷のような見世物だ。
だが、その問答無用さが逆に現代におけるリアルさを感じさせてくれる。なるほど作品中でトム・クルーズ扮する主人公はトライポッド1台を破壊しはするが、それは局地的な勝利でしかなく、ほとんどの場面では圧倒的な破壊力を無造作に振るう敵を恐れて命からがら逃げ惑う群集の一人として描かれる。終幕にもカタルシスはない。攻撃は勝手に始まり勝手に終わる。人間の思惑とは無関係に。

リベラルなスピルバーグのことだから、この作品の構図はイラク情勢などを暗に喩えているという見方もあるらしいが、現代において武力行使というのは須らく一方的かつ圧倒的ではないか、とも思う。アメリカのイラク侵攻がそうならば、ソフトターゲットを狙った自爆テロもまたしかり。ライトセイバーによる一対一の対決などあり得ないのだ。
われわれの命など、圧倒的な敵を前にしたら虫けらのごときものでしかない。この映画が突きつけてくるリアリズムはつまりはそういうことだ。トライポッドは60年前から活動を開始しているのだ。
群集の肉体が殺人光線で蒸散してなぜか抜け殻の服だけが大量に宙に舞う景色、テイトギャラリーの「オフィーリア」のように死体が川を流れる風景が、未だに瞼の裏に焼きついている。
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2005年08月07日

「ハウルの動く城」の読み解き方

評論というのはこうでなくっちゃいけない。気鋭の映画史研究者、鷲谷花さんの「(オヤジによる)乙女のための冒険活劇」は、個人的に疑問だらけだった映画「ハウルの動く城」の世界をジェンダー論的観点から鮮やかに読み解いた一編だ。

プロの文章を褒めるのもおこがましいが、映像で描写された内容を腑分けする手際のよさ、リズムのよい文体が実に爽快だ。
いかなる因果関係によるものなのかは不明のまま、容赦なく現前し、連鎖する不可解な出来事に対して、ソフィーは状況を正確に把握することもないままに、その時その場においてはとりあえず情理にかなった行為をもって対処を試みます。汚れた床を見れば徹底的に掃除し、行く手をさえぎる長い長い階段を登りまくり、あちこちから妙なカカシや犬や要介護老人(サリマンの罠にはまってボケ老人になってしまったもうひとりの《姑》――かつての荒地の魔女――)を連れ帰っては世話し、ダイヤルがあればとりあえず回し、スイッチがあればとりあえず押し、ドアがあったらとりあえず開け、火事になったらとりあえず水をぶっかける、といった具合に、ソフィーの行きあたりばったりの対処のかずかずが、良きにつけ悪しきにつけ、ただでさえ混沌とした事態を、思わぬ方向へ転がしてゆきます。
こうてきぱき整理されると、筆者があの毀誉褒貶激しい映画を必ずしも擁護する立場から書いているわけではないにもかかわらず、一連のわけのわからない(と今でも思う)ストーリーがよくできたもののように思えてくるから不思議だ。
「大団円にてソフィーが獲得した成果」の箇条書きには大いに笑わされた。

「ハウルの動く城@映画生活」などを見ていると「自分にはわからなかった」「いや、大傑作だ」式の論争が未だに続いているが、やはり見巧者の卓見は不毛なやりとりを一蹴する力がある。映画に限らず作品というものはよい鑑賞者を得て育つものなのだ、と改めて思わされた。
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2005年06月22日

「狸御殿」に行きそこなう

たけくまメモ日常/非日常Blogなどで微妙な絶賛を浴びていた鈴木清順の新作にして怪作「オペレッタ狸御殿」が、どうやら既に打ち切られていたらしい。先週末の段階で既に差し替えになっていた模様だ。
かえずがえすも無念である。客も少なかったようだし、仕方ないといえば仕方ないが。
近場の二番館に落ちてくるのは果たしていつになるやら。多分DVD発売の方が先だろう。しかしこういう映画は、やはり他の客の反応をも楽しみながら観るのが正しい鑑賞の姿勢であると思う。

これが遺作にならないといいなあ。がんばれ清順。最新のデジタル画像処理技術と老人力でさらにとんでもない妄想炸裂の次作を期待。
posted by NA at 17:58| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月19日

映画版「電車男」

先週、仕事の合間にできた2時間半の空白にこっそり見に行く。場所はテアトル池袋。
平日午後なのにほぼ満員である。若いカップルや女の子同士に交じって、仕事をサボったのか(人のことを言えるか)結構オヤジ世代以上も多い。大した人気である。

で、感想。大傑作だった。
「電車男」役に山田孝之を当てたこと、ネット上という「現場」のない部分で過半が進行するシンプルな物語をどうやって表現するか、というテーマをクリアした時点でこの作品の成功はほぼ約束されていたと言っていいだろう。
プラスアルファは、「エルメス」役の中谷美紀がおそらく期待以上にはまっていたことだ。彼女の生活感のなさ、裏表のない演技(奥行きがない、ということではなくて褒めているのです)が、逆に「エルメス」という特殊なキャラクターにリアルさを与えていた。

山田孝之はもともとうまい役者だと思ってはいたが、「百式」Tシャツを纏って秋葉系おたくに見事になりきって見せた役作りには心底感服した。思い入れが激しすぎて自爆するくだりなど、多少なりとも経験のある野郎どもが心で血の涙を流したであろう好演だった。ああ、女子にはわかるまいて。
今更私が書かなくとも彼の演技に対しては絶賛以外見当たらないぐらいで、年末の各種映画関係アワードでの主演男優賞は堅いだろう。贔屓目もあるかもしれないが、2005年の現在に確かに存在し、誰もがすれ違ったことがあると思わせるおたく青年をスクリーンに息づかせた功績は決して小さくない。

第2のポイント。ネットのジャーゴンなどの扱いについてそれなりに配慮はされている(アスキーアートと人体を重ね合わせてみたり)ものの、匿名掲示板とはどのような場かまったく知らない人にとっては、この映画を見ても多分具体的に何がそこで行われているかを想像することは難しいだろう。
だが、そういった門外漢に対する配慮を切り捨てることで、この映画は物語を自立的に加速させる疾走感を、特に前半において獲得した。そして何より、多少なりともネット掲示板に接したことのある人の強い共感をも。電車男の造形で「いるいる」、ネットのやりとりの視覚化で「あるある」と思わされたことで、観客は「こんなに都合のいい恋物語があるはずないじゃん」という懐疑を抱く間もなくストーリーに巻き込まれた。スピードの勝利だ。

そう、速度が必要だったのだ。今秋つくばエクスプレスが開業すれば、おそらく秋葉原は来年にはもう今の秋葉原ではない。ネットの言葉もめまぐるしく変わる。「電車男」は既に歴史的文書で、使われている言葉は今の流行語ではもはやない。
テーマと舞台がこれ以上古びないうちに作品化するため、この映画の場合は2時間の尺で撮影1ヶ月という、ほとんどテレビの連続ドラマに近いスケジュールで制作が行われた。そしてテレビ畑の制作スタッフによるアイデア一発勝負の見切りのつけ方、展開の速さが、この映画の場合はすべてプラスに働いたように思う。

Time is on my site/タイムトラベルの哲学でも言及されている、ラストの余韻(スタッフロール後のテレビドラマ版への引きではなく、あくまでも本編の)も上出来だ。
もちろん、最後に披露されるエピソードの意味は、主人公二人は事件の前から接点があった、と見るのが一般的な正しい解釈なのだろう。だが、この物語は電車男及びネット上のギャラリーの立場からのみ描かれるのではなく、複数の視点からの妄想も交えて展開されるため(終幕近くの秋葉原のネオン群が二人を祝福する名場面は、現実と仮想空間の融合と解釈することも可能だろう)、ストーリーに没入しつつも我々は常にその場面の現実性に一定の留保を抱き続ける。だから、電車の中でエルメスが微笑むラストシーンは、見る側を瞬時、物語の重力から解き放たれた未知の空間に放り出す。ネットと現実をめぐる多重的な物語は、さらに全体を大きな「」でくるんで終幕を迎えるのだ。
もともと「電車男」のテキスト自体、どこまでが真実なのか、自作自演を含んだやりとりではないのかなどなど、真偽をめぐって現在も取り沙汰されている代物だ。あり方そのものが極めて現代文学的とも言える。作者の存在/不在をめぐる不毛な論争に、このラストは一瞬でけりをつけて見せた。この世が誰の妄想かなどわかるものか、と。

単純なデートムービーとしてみても、価値観の多様化した「現代」を実にうまく料理している秀作なのだが、さらに様々な深読みを可能とした懐の深さは、多分速さを強いられたゆえの作りこみの薄さも奏功したのではないか、と思う。タイミングもまた傑作が成立するための必須条件なのだ。

テレビ版の宣伝ははっきり言って余計だったが、久しぶりに劇場を出るのに後ろ髪を引かれる映画だった。
posted by NA at 20:03| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(3) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月09日

見えないものを想う

daiba.jpg会社の花見をパスして、映画「ハサミ男」上映最終日の最終回を見てきた。劇場で日本映画を見るのは久しぶりだ。

最後の20分イラネとか、劇伴のサックスうるせいとか、女子高生の死体も麻生久美子も綺麗に撮れてないぞとか、言いたいことは多々あるのだが、そういう問題では済まない(いや、これはこれで大問題なんだろうけど)、もっと構造的なつまらなさがあるように思った。映像のリズム感の悪さにいらいらし、説明調カットの多さにうんざりした。

そのままでは映像化不可能な原作によくぞ取り組んだ、と意気込みは大いに評価したいのだが、面白い映画にするには意気込みだけではだめなのだと思う。
もっともこれは原作を既に読んでいる人間の言い分であり、未読の人にはまた違ったように映るかもしれない。一見しただけで意味が掴めず「どうして(ピー)と(ピー)が(ピー)なの?なんで?」という罪のない観客のために、あえて冗長な謎解き後の謎解きを付け加えたのだろうか。

帰途、ありきたりだけどお台場で夜景を記念撮影。
湾岸道路を横断する長い歩道橋を歩きながら、完成前にこの景色を想像し得た人がいたかどうかに思いを馳せる。進行方向には未完の副都心の広大な空き地が漆黒の中で広がっていた。

未来都市の想像図を描く際、立体交差はひとつのキーワードだったと思う。しかし都市空間の3次元有効活用の夢がこのようなかたちで実現するとは、誰も思っていなかったのではなかろうか。

別に善悪を論じようとしているわけではない。単に、野放図な規模の開発があまりにもあっけなく成立したことへ驚いたという次第。
ラベル:ハサミ男 お台場
posted by NA at 02:12| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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