2006年12月25日

のだめ終わっちゃった

早めにいそいそ帰ってきてドラマ「のだめカンタービレ」の最終回を生鑑賞。フィナーレのベートーベン第7は予定調和とは言えやはりよいですな。音を大きくして楽しむ。

クラシックには涙腺やら記憶の鍵やらを刺激する旋律がいっぱいある。知らず知らずのうちに出会ってきた音が番組の中に織り込まれていて、はっと耳をそばだてる瞬間がたびたびあった。疎遠だった友達が何かの折に音信を寄せてくれたような、というと褒めすぎかもしれないが、そんなドラマだった。

でもあの終わり方だったら「第一部完」であって、必ず続編展開があるはず。毎週パリでロケは厳しいだろうから特番か映画か。もうどこかでアナウンスされているのかな?

公式サイトによると年明けからは深夜枠のアニメが始まるということで、これでしばらく繋いで次のステージへ、という流れでしょう。
何はともあれ、和製ドラマもなかなか捨てたもんじゃないと再認識させた「のだめカンタービレ」はえらい。引き続き要注目。

追記:
芸能界の話題には疎いので、もともとTBSが先に手をつけていたという経緯があったとは知らなかった。出典はウルトラサイゾー。
芸能−『のだめカンタービレ』ドラマ化白紙撤回の裏にまたもやジャニーズの影!?
TBSじゃなくてフジでドラマ化されて本当によかったと思う。もしTBSで今年ドラマになっていたら、ジャニーズの下手な演技が中心で演奏シーンはどこかに行ってしまい、バレーボールや亀田の応援に利用されるのがオチだったろう。ああやだやだ。
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2006年12月17日

石原慎太郎の弁明

フジテレビのスタ☆メンという番組に石原慎太郎東京都知事が生出演していたので見た。箇条書きで感想。

・石原慎太郎は未だにことの深刻さを十分理解していないらしい。自己中心的な弁明をいきなり始めては、進行役らしき池上彰に制止されるというボケツッコミを数回。
・息子が「ただ働き」だったと繰り返していたが、現に報酬をもらっている件もあるわけだから事実に反するのでは。
・不惑になっても画家としてうだつの上がらない息子を世に出す手助けをしてしまった、と認めた方が傷は浅かったかも。
・養老孟司は馬脚を現した。金の問題としてしか捉えていない状況認識の甘さ。どうしてこんな人物が論客として重用されているのだろうか。
・橋下弁護士が出番が少ないながらもグッジョブ。毒舌を封印されていたらしい太田光の代わりを務めて余りある活躍。
・池上彰もいい味出していた。押切もえちゃんも一言だけですがよく頑張りました。太田は次(があれば)頑張れ。
・慎太郎シンパは番組を見てがっかりしただろう。目をしばしばさせて理の通らない弁明を繰り返す都知事の姿は見たくなかったに違いない。
・フジサンケイグループとしては産経新聞一面コラム筆者に弁明の機会を与えるつもりだったのだろうか。四男を擁護しようとする映像コメントの作り方などにその辺の意図はありあり。でもスタジオで本人がその効果をぶち壊しており、番組全体としては明らかに逆効果だった。編成は始末書ものか。
・民主党は都知事選に海江田万里を擁立するとか。新味はないけど、樋口恵子推薦で事実上パスした前回よりはましな候補だと思った。
・でも本当に屑なのは都庁の上層部なんだろうな。

追記:
評論家の勢古浩爾氏が産経紙上で書いていたコラムがよかった。ちょっと産経を見直す。ということで魚拓リンク⇒【コラム・断】リーダーは身内に厳しくあれ
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2006年12月12日

「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」

週末、時間があったので両方一気に見てしまった。

両方一気に見るような映画ではなかった。特に日本サイドの物語である「硫黄島からの手紙」は、戦闘開始以降はほぼ終始砲音の重低音が響き渡る中、彩度を落とした画面の中で延々と繰り返される死の光景にひたすら耐えなければならない。そして島の守備軍が玉砕することは歴史的事実だ。
生存者らの物語である「父親たちの星条旗」にしても憂鬱であることに変わりはなく、兵隊とは所詮国に利用されたあげく死ぬか、生きてなお利用されるかだけの存在であるということを否応なしに見るものに突きつける。世界に救いはない。重い事実を受け止めかね、見終わってどっと疲れた。

だがこの二作品、とりわけ「硫黄島」は素晴らしかった。日本人俳優が日本軍を舞台にした話を日本語で演じていながら過去の和製戦記映画とは比較にならないほど乾いた映像で、当たり前だがまさしくハリウッド映画に仕上がっていた。この映画が普遍的な説得力を持ち得たのは、ひとえにクリント・イーストウッドのディレクションの巧みさによるものだろう。

イーストウッドは「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本軍人特有のメンタリティをこの映画で説明しようとはしなかった。理解不能なものとしてそのまま提示した。塹壕の中でパニック状態で次々自決していく日本兵の姿は、並のホラー映画より遥かに理不尽で恐ろしい。そして四散した肉体はちっとも崇高ではなくて醜く汚らしい。
死んだ兵士への冒涜との非難を恐れてか、比べるのも馬鹿馬鹿しいが男たちの大和のような日本映画が超えられなかった一線を、イーストウッドはリアリズムに徹することで簡単にクリアして見せた。名作である。

追記:
やはりこの二作は対比することでよりいろいろなものが見えてくる。
硫黄島戦が終結したところから始まる「星条旗」では、硫黄島から生還した三人の兵士は、全米を国債公募キャンペーンであわただしく引き回される日々の中で何度も記憶が硫黄島での激戦へとフラッシュバックする。悲惨な戦いの記憶から逃げられない。彼らの意識は分裂している。
一方の「硫黄島」の回想の構図が逆向きになるのは何しろ玉砕しているのだから当然といえば当然だが、碌に身動きの取れない塹壕の中での切ない夢想がそれぞれの士官や兵士に束の間の安息を齎したことは間違いない。回想は彼らの唯一の逃げ場なのだ。

それにしても洋上をみっしり埋め尽くした米軍の艦船の圧倒的だったこと。開戦のきっかけはどうであれ、太平洋戦争が圧倒的な国力差がある二国間で戦われた戦争(のはじまり)であることをあれほどわかりやすく示した映像はなかった。米国の観客はあのシーンに何を感じただろう。
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2006年12月01日

トヨタbBに乗ってみた

出張先レンタカー道楽シリーズは続く。今度はトヨタbBを借りてみた。
角ばったフォルムが似ているからといって1500ccの車を1300ccの日産キューブと比べてはいけないのだろうが、乗りやすさとしては圧倒的にbBの勝ち。外からは結構かさのある印象の車体も取り回しはよく、狭小な駐車場でも楽にパーキングできた。見た目ガンダマイズされたいかつい印象のマスクは威圧的だが、中に入ればあら結構ふつうに優等生なのね、という感じだ。
だからかどうか、エンジンも思ったよりおとなしめで、踏み込んでもさほどの加速感はない。狼の皮を被った犬というか(ガンダム犬か!)。でも決して悪くはない。構成要素のかなりの部分をカローラなどと共有しているのだろうか、基本性能は実にしっかりしている。さすがトヨタ。

若者向けのモデルかと思ったが、家族を乗せて移動する機会が多いけどどこかにワルっぽいところが残っている車がほしいお父さんが買ってもおかしくない、のかもしれない。いい歳こいてモビルスーツのプラモ集めていても恥ずかしくない世の中になったことだし。
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2006年11月27日

ムーンライダーズ東京公演

24日、渋谷公会堂改め今年10月からC.C.Lemonホール(なぜサントリーホールと名乗らんのだ)と改名した所で行われた「OVER THE MOON / 晩秋のジャパンツアー2006」というなんか気合の入らないタイトルのライブにいそいそと馳せ参じる。
春の日比谷野外に行けなかったので、バンド活動30周年を締めるこのライブにはぜひ行かねばの娘。

もっとも30周年を記念した祝祭的内容は春にゲストをいっぱい呼んでやりつくしたらしく(その模様は近々映画にもなる)、今回のライブはまず新作「MOON OVER the ROSEBUD」のプロモーションを前半でやり、後半に旧作を持ってくる構成だった。隠れた名曲「シナ海」や「トンピクレンッ子」を思いがけず聴けたのは大収穫。新作の「馬の背に乗れ」はライダーズを知らない若い連中にぜひ聴かせたい快作であるなあ、と思いを新たにする。
無理やり誘った連れの女子の体調が悪かった(ごめんね)のが残念だったが、スタンディングの少ない二階席でひとりで飛び跳ね絶叫しハイCで勝手にハモる迷惑な中年客と成り果てた。いやはや楽しい2時間半でした。

耳がじんじん鳴り続けの帰り道で女の子に「一番好きなバンドなんですか?」と尋ねられ、少し返答に詰まる。いいバンド、うまいバンドはほかにもたくさんあるし、音楽すべてひっくるめて言えば私の永遠のアイドルはバルトーク・ベーラただひとりだ。
出たばかりの新作はまだ馴染めない曲の方が多い。もともと外に向けてメッセージを発信するタイプの音楽ではないけど、何で古くからのファンにしかわからない仕掛けをあちこちに施すのか、と少しいらいらしたりもする。彼らの音楽性を云々する資格が私にあるはずもないけど、これから先ライダーズがどんな新曲を書いても、おそらく過去の曲ほどは愛せないだろう。

でも、聴いていて一番和めるバンドは間違いなくライダーズだ。ディスクもライブも。五十過ぎのおじさんたちが老成とは程遠いステージアクトを繰り広げる(鈴木慶一は客席に乱入して女の子たちをさらってフォークダンスしてた。まったく)様子を見ていてつくづくそう思った。
ライダーズの音楽は一言で語れない。名作も駄作も含めて、30年かかって積み上げられた色々なカラーの曲が、その日その日の気分に応じて寄り添ってくれる。離れられない。
トロツキーではないが別々に進んで共に同じ敵を撃つ仲間であり、よい歳の取り方を示す先輩(ときどき反面教師)でもある。そんな感じだ。

驚いたことに今朝の日経の1面コラム「春秋」(11/27)がこのコンサートのことを書いていたのでうれしくなってしまった。我ながら単純なものだ。
 日経ビジネス誌が「会社の寿命30年説」を唱えたのは1983年だった。明治以来の企業の盛衰を調べ上げた経験則に例外はない。組織が元気を失わず、新しい価値を世間に送り続けようと努めても「30年の壁」は非情なまでに厚い。
▼日本のロック界の草分け「ムーンライダーズ」をご存じだろうか。結成30周年を迎えた今年、その熟年の6人の活動が一段と輝いている。出発はアグネス・チャンさんの伴奏だった。テレビで知名度を高めヒットを狙うより、自分たち自身が音楽を楽しんでいるのだろう。無邪気に音と戯れる姿は子供のようだ。
▼「工場からのサイレン、川を渡る僕たち、パンをかじりながら、ほほ笑みあう」。高度成長期には明るさの中にも孤独が宿る工業都市・東京の心象風景を歌った。人が土地と株に狂った時代は活動を休んだ。不況が訪れると「幸せな家庭は、優しさの答えは、会社までの距離や食事の中にある」と哀(かな)しい声を上げた。
▼その神髄は、時代を読む呼吸と変わり身の早さだろう。新技術の電子楽器を誰よりも先に買って得意になるかと思えば、あっさり手放して素朴な音響に戻る。バラバラにも見えるメンバーが付かず離れず、必要な局面で個性を発揮する。30周年公演は全国で超満員となった。長寿の秘訣は企業経営にも通じよう。
日経の中の人にも相当なマニアさんがいたのだな。ディテールがひどく正確なあたりがとても怪しい。「30年」を無理やりキーワードにした一段落目と経済紙らしい教訓めいたオチをつけた四段落目は、まあ世間の目もあることだし仕方なかろうて。

riders.jpg次は35周年の前後でまたぱーっと活動するのだろうか。そしたら今度はCDの次世代メディアで再発ラッシュになるのかな。ともあれ私は、きっとまた彼らの愉快なライブに、同じだけ歳を重ねて行くことになるだろう。少し先を行く彼らの姿を追って。
ムーンライダーズがこの世にあって本当によかったと思う。
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2006年11月12日

日産キューブに乗ってみた

出張先レンタカー道楽シリーズで、今度は日産キューブを借りてみた。「車内の居住性のよさならこれでしょう」とレンタカー店員の勧めに乗ったのだが、結論から言うとあまり居心地良くはなかった。

名前の通り真四角な箱なのだが、右のドア側が切り立っているというのは思いのほか不安感をそそる。台形フォルムに慣れているということもあろうが、極端に表現すれば支えがないまま運転している感じなのだ。コラムシフトも一人乗りの場合メリットはない。若者がみんなで楽しく乗る車なのだな、と納得。もっとも重心が高そうに見えた割に、横風が吹き荒れる中しっかり道路をグリップして走ってくれたのは好印象だった。

ハンドルは低速域で妙に軽い。エンジンは抵抗なくひゅんひゅん回るが、モーターのようで爽快さはなかった。日産車全般に通じる特徴なのかどうかわからないが、「いつかはスカイライン」(またですか)程度には日産技術の信者だったのでちょっとがっかりした。
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2006年11月11日

日本人のための日本語講座

出張先で酔っ払ってホテルに投宿し、テレビをつけたら妙な番組をやっていた。
語学番組形式なのだが、教えている内容が日本語なのだ。日本人らしい女子タレントがたどたどしく「美術館まではいくらですか?」など延々とバス料金の尋ね方を繰り返している。
最初はギャグ番組かバラエティの一コーナーかとさえ思った。

出先なのでチャンネル番号と系列の対応がわからなかったのも戸惑いの一因だった。
端末を引っ張り出してYahoo!テレビで検索し、ようやくNHK教育のエリンが挑戦!「にほんごできます。」であると知る。

もっとも、真面目な教育番組であるかどうかは若干怪しい。世界の日本語学習者を紹介するコーナーでブラジルの美人双子(グラマラスな15歳、日本の漫画好きで趣味はコスプレ)を出してみたり、スキットでの日本人女優の写し方もどこか胸元強調ぎみだったり、と正体がわかってみればいろいろと不自然なところが気になってくる。
語学番組へタレントを起用する教育テレビの軟派路線は今に始まったことではないが、科目が日本語となると肝心の語学習得要素がネイティブの視聴者にはまったくないため、いきおい演出の不自然な部分が目に付くのかもしれない。

という目でこの番組を見ている大きいお兄さんがどれだけいるのかは知らないが、ともあれラーメンズの「日本語学校」連作やモンティ・パイソン第1シリーズ「イタリア人のための初級イタリア語クラス」をはじめ、語学講座はとかくコントの題材になりやすい。わかりきった内容を執拗に繰り返すという行為自体が既にギャグなのだろう。

だが、語学講座が宿命的に内包する滑稽さとは別に、きょうのこの体験は日常がねじれたような感覚が味わえて楽しかった。どこかの深夜枠で日本語学習者向けなのか不条理演劇なのかわからない番組をこっそり流してくれたりすると、私みたいに日常の裂け目に不意打ちされる人が出てきて面白いかもしれない。ネタをネタとわかって鑑賞するのとは違う感動(というか)がそこにはあるだろう。

話が広がるが、人がテレビを見る動機の中で「不意打ちされたい」欲求が占める部分は決して少なくないのではないか。そしてこの欲求はオンデマンド映像では満たすことができない。ザッピングで思いがけないものと出会うテレビ体験は、たとえばYouTubeで人気の高いビデオを選んで見たり「Panda」などのキーワードで映像を探す行為とは微妙に異なる。
ドラマなど定番番組へのアクセスはネットでも代替し得るだろうが、「あの局はこの時間帯には何かしら変な番組をやっている」という漠然とした不意打ちへの期待は、実はネット映像ではなかなか担いにくい部分ではなかろうか、とふと思ったりした。
今後のテレビの活路は、理詰めの編成とは外れたこういった不定形の期待に応えるところにあるのかもしれない。とても狭い小径ではあるけれど。

追記:
フジテレビ深夜で時たま放送する「放送禁止」という番組がまさにこのテイストのようだ。テレビはやはり何が出てくるかわからない玉手箱であってほしいと思う。
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2006年11月10日

王道すぎる「スネーク・フライト」

有楽座で「スネーク・フライト」を観る。

これはあれだ、テレビの「日曜洋画劇場」で観るべき映画だ、と気づく。別にビデオ録画を予約するでなし、日曜の夜に何となくテレビをつけたらそこでやっていて、居間に何となく揃っていた家族が何となく見てしまって、序盤のお色気シーンの露骨さに一同気まずい思いをする、という、まあそういう位置づけの映画なわけだ。
で、別にこう書いたからといってこの映画の場合貶したことにはならないと思う。

オリジナル脚本のタイトルは、ヘビの毒液を意味する「Venom」だったという。おそらく悪役のギャングについてもっと書き込まれていて、映画の後の方にも少しは出番が振られていたのではなかろうか。しかし公開タイトル「Snakes on a plane」(飛行機1機にヘビの群れ)が示すように、完成した映画はすがすがしいまでに飛行機で毒ヘビがどう暴れるかというだけのストーリーになっていた。飛行中にこの映画を上映するエアラインがあったらすごいと思う(あるわけがない)。

ヘビが人を噛むんだったらこうあってほしいよね、という期待はまったく裏切られない。とぐろを巻いて椅子の下を這い回り隙間から飛び出し上から垂れ下がり、果ては丸呑みまでの大サービス。
そして飛行中のトラブルときたらこうでなくっちゃね、という定番アクシデントもことごとく実行される。「誰か飛行機の操縦をできる方は?」云々。典型的なパニック映画ではあるが、安心して恐怖と混乱に身を委ねることができるのだ(もちろん残酷な描写もないわけではないので、そういうものに弱い人にはお勧めしない)。面白くて何の教訓も残さない、娯楽映画のまさに王道と言っていい。イントロとアウトロに置かれたビーチののんきな光景は、制作者の姿勢をよく示している。

ひとつだけ違和感があるとしたら「完璧なB級映画」というものを狙って作っていいものか、というその点だけだ。それはもはやB級ではないような気もするのだが。
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2006年10月24日

インプレッサスポーツワゴンに乗った


レンタカーに供される車種をもって「乗った」と称してはいけないのかもしれないが、ともあれ借りて乗ってみたわけです。というか関東地方の出張先でカローラ借りるつもりが、営業所で「インプレッサ空いてますよ」と言われたんで、いい加減カローラ飽きたし試してみたという次第。1.5リッターカローラと同クラス扱いというのも意外だったけど。ちなみに走行キロ数は5000そこそこだった。

当たり前だけどカローラとぜんぜん違う。まっすぐ走る分には、よく言えば乗っていて楽しい。ついアクセルを踏み込み過ぎて床までぺったり、という瞬間が何度もあった。単に加速が悪いだけなのかもしれないが、アクセル開度に対するエンジン音・速度のレスポンスにはそう思わせない演出があった。

しかし日常的に常用する車ではないとも思った。気苦労が耐えない。行楽渋滞に巻き込まれた影響もあったが、降りるときには普段カローラに乗っているときには使わない神経を酷使したためか異常に疲れていた。ハッチバックの剛性を確保したトレードオフかもしれないが、後方のピラーが太いため視界の悪さも如何ともしがたい。

生まれて初めて運転席に乗ったスバル車は、だがそれなりに魅力的だった。いつかはレガシー、かなあ。
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2006年09月20日

映画「夕凪の街 桜の国」がクランクアップ

映画化の話が出てからずいぶん経ったけど、とうとう撮影終了とのこと。ORICON STYLEから。
 何気ない日常の生活や愛を描くことで原爆の悲劇を痛感させる人気マンガ『夕凪の街 桜の国』。すでに発行部数は25万部を突破し、平成16年度文化庁メディア芸術賞 マンガ部門大賞、第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。2007年夏に全国公開が予定されている同作の映画化には熱い関心が集まるなか、9月19日に都内ホテルにてクランクアップ記者会見が行われた。 (中略)
 また、今作の中心人物のひとりであり、被爆家族の2世となる現代っ子を演じる田中麗奈は、その役を演じることを望みながらも大きなプレッシャーがあったことを語った。そして、俳優としてではなく、ひとりの人の子として原爆や命、この作品の重みを知るために、両親と一緒に広島平和記念資料館などを訪れ、自分にできることを考えに考え抜いたという。
名作漫画が必ずしも名作映画になる保証はなく、また誠実に作られた映画が映画として面白いかどうかもまた別の問題だと思うが、美しい桜の映像を思いながら公開の日を楽しみに待ちたい。大傑作がスクリーンいっぱいに広がりますように。

来年の夏には何が起きているのだろう。イラクやパレスチナで戦闘はまだ続いているのだろうか。ZAKZAKによると
来年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門への出品を目指すことも発表
されたとの由。少しでも多くの人の目にこの物語が触れることを願ってやまない。

■関連エントリ
Not Available: 宝探しは終わらない
Not Available: 夕凪の街 桜の国(こうの史代)
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2006年08月24日

川崎洋を英語で読む

続・川崎洋詩集
続・川崎洋詩集
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川崎 洋
思潮社 (1995/12)
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世界的な現代詩のサイトPoetry International Webの日本ページで、一昨年亡くなった川崎洋が特集されていた。大ファンだったので非常にうれしい。
#メタタグとか使って、たとえばキーワード「川崎洋」で検索してもヒットするようなサイトのつくりにした方がいいと思うのですがどうでしょうか>日本版制作者の人

前回の特集だった田口犬男のときにも思ったのだが、日本語で見知っていた詩がひとたび英訳されると、様々な解釈を許容していた原詩の言葉の意味ががっちり単一に固定されて妙に自信満々の主張に変わって見えたりする。もちろんこの錯視はもっぱら俺のボキャブラリー不足によるところが大きいのであって、翻訳者も元の詩で使われている言葉の多義性を十分理解した上でイマジネーションを極力阻害しない正確な訳語を選び出してはいるのだろうけれど。

川崎洋の詩というと、恥じらうようなひらがな表記でしかも単語ごとに改行があるような作品が印象に残っている。たとえば初期の代表作「はくちょう」は全編がひらがなだけだ。
例によって印象に頼って物を言うと、谷川俊太郎の書くひらがなは読む対象を広げ意味をシンプルにするのに対して、川崎洋のそれは単語の消費速度を落として読者をより選ぶ方向に作用しているように思える。言い換えれば、谷川さんのひらがなは発声が原点にあるのに対し、川崎さんのひらがなは書かれた言葉をゆっくり解体する趣があるように感じる。<言い換えてかえって意味がわかりにくくなってるな。
川崎さんの詩に出てくるひらがなは油断できないので、私たちはそこを通るとき速度を落とさねばならない。同音異義語や単語の切れ目の見落とし、助詞ひとつで改行されて千切れそうなテキストに注意しながら用心深く慎重に歩かなければならないのだ。意味の周りでおずおずとしり込みする言葉たち。

という勝手な思い込みがあったので、たとえば「鳥」(本当に鳥についてうたうのが好きな詩人だった、と改めて思う)の和英対訳を見ると、英語版の速さと迷いのなさがまぶしい。ネイティブな英語使いがこの詩を読んだらどう感じるのかはわからないが、表情記号で言えばrisolutoとでも書いてあるかのような明快さの中に、幾万言を費やしても鳥の本質に届かないことへの絶望、鳥がゆるぎなく鳥であることへの憧憬は転写されているのだろうか。
#あとこれは重箱だけど、この詩において「足」は「legs」ではないだろう、とか。

さほど英語に詳しくもないのにずいぶん出すぎたことを書いてしまった。大いに反省。極めて日本的な詩人であった川崎洋の詩が英訳されて公開されていること自体の意義の大きさに比べれば、上記はまったく大した問題ではない。
日本の現代詩が世界の文学シーンにおいてどれほどユニークなものなのかはわからない。というか日本において現代詩は「文学」から仲間はずれにされている感が強い(「文学」にしたってたいしたことないのにね)。今回掲載されている「日曜日」「鉛の塀」のような独特の味をもった作品が世界中のいろいろな所で読まれ、彼の早すぎた死を悼む人が少しでも増えてくれればいいな、と思う。
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2006年08月03日

目を疑う

いやーびっくりした。全国中継でここまで公然と八百長が行われるとは思わなかった。ボクシングには素人が知り得ない採点項目があるのだろうか。クリンチ姿に対する芸術点とか、年齢・経験の差による加算点とか。

もともと亀田一家に好感は持っていなかった。ビッグマウスとビッグマウスの真似は違う。スターは作られるものではあるけれど、煽るならもっとうまく煽れ。底の浅いストーリーで仕掛けがあまりにも見えすぎ。などなど。
だから、今回の亀田興毅のタイトル挑戦にしても「負けた方が面白い」ぐらいにしか思っていなかった。
ホームタウンデシジョンはボクシングの場合付き物なので、たとえKOにできなくてもそこそこ互角に打ち合っていればチャンピオン間違いなしだろうな。協栄ジムと言えば、会長の親父って毒入りオレンジ事件の人だよね。今度はスイカでも差し入れしてないかねえ。ぶつぶつ。
と、まあ野次馬として公平性などには何も期待せずにテレビを見ていたわけですわ。それでも度肝を抜かれた。あれで勝ちなら、死人をリングポストに立てかけて好勝負を演出するのも夢ではない。

自社イベントに甘いのはどこのメディアも同じだろうが、その中でも今回のTBSの姿勢は一頭地を抜いている。ニュース番組でさんざん宣伝しまくった結果がこれかよ。こりゃあ次の戦争では率先して大本営発表をするね、TBS。
TBS「亀田三兄弟」公式サイトでどんな言い訳をするのかしないのか、今後に要注目だ。

試合の感想については、コラムニスト小田嶋隆さんのブログ「偉愚庵亭憮録」のエントリ国辱に尽きる。
国際社会のみんな。ごめんよ。
オレたちは、今夜、卑怯な国の卑怯な国民だった。
戦争で負けてからこっち、卑怯なことだけはしないようにと、一生懸命がんばってきたけど、今夜のあれでぶちこわしだ。
日本人は卑怯。
これが、ここから先少なくとも10年のスタンダードになった。
残念だけどね。
そして、普段になくストレートな表現を用いてわかりやすく書いている切込隊長の19歳の亀田興毅さんが、その人生を賭けて、私たちに教えてくれたことは必読だ。闇社会と訣別できない私たちの社会への嘆きが、この一戦をきっかけに堰を切ったように流れ出している。いつもの諧謔と韜晦をかなぐり捨てた、射程の長い感動的な文章だ。
 これでは何のためにライブドアや村上ファンドを摘発したのでしょう。なぜフジテレビやTBSを守る動きを取ってきたのか、捜査当局や情報機関が身体を張って取り組んできたのは何だったのか、市場のみならず証券会社や監査法人、さらには投資ファンド法を改正してまで実施しようと考えている市場の透明性確保に関する議論は何の意味を持つのでしょうか。アメリカのポチと一部から酷評されながらも、日本人の総意として公正な社会を実現するための試みが無駄に終わりつつあることを、たかがボクシングの試合ひとつで証明されたというのは、怒りを通り越して嘆きの境地に辿り着くものであります。
 正直、ことここに及んで日本人は中国人や韓国人の非法ぶりを批難する前に、私らの目の前に、それも手の届くところに深い闇が公共の電波に乗ってやってきていることを深く自問するべきかもしれません。この国の形を維持するために、必死になって守るはずだった肝心の放送業界が、その内側から崩壊したままだったことを。
速水健朗さんのブログ犬にかぶらせろ!によると、相当胡散臭い人間が客席で目立っていたそうだが、これはおそらく切込隊長の指摘と重なるのだろう。

ご家庭向きの視聴率の取れるコンテンツを育ててきたつもりだったTBSにしてみれば予想外のバックラッシュだろうが、これを契機に放送業界や興行業界に自浄作用がはたらくことを期待したいと思う。難しいだろうけど。

追記:
ベネズエラの有力紙「El Universal」のランダエタ、誤審で敗れるというニュース(亀田ダウンの写真つき)。スペイン語はよくわからんが
Hasta los mismos espectadores japoneses en la Arena de Yokohama reaccionaron aturdidos por el fallo de los jueces.
横浜アリーナの日本人観客も誤審にショックを受けていた、などと淡々と報じているようだ。

再追記:
リングサイド特等席に暴力団組長らが大勢映っていた、との情報もあった。
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2006年07月28日

嫌われ松子の一生

5月から続いていた映画「嫌われ松子の一生」の上映もそろそろ終わり。ということに気づき、TOHOシネマズ六本木ヒルズに見に行った。いい映画だった。きょうで終わりの所が多いと思うので、今晩の予定が空いている方は大画面でぜひどうぞ。

絶賛から疑問までネット上のレビューは読みきれないぐらいほどあり、論点はだいたい出尽くしていると思う。なかでも宮台真司さんの投げた変化球は面白かった。

クレージーキャッツ映画のファンである自分としては、ミュージカル仕立てが何ともうれしい。並外れてゴージャスなデパート屋上遊園地など、様々にデフォルメされた記憶の中の風景も「そうそう、こんな感じ」と共感を持って見た(旧称トルコ風呂についてはどうなのかは知らない)。意図的に安っぽく見せるCG合成やチープな色彩、時に白トビしたりする画面づくりもそれほど違和感は感じなかった。花や鳥、雨、星や月といった映像的記号の使いまわしもいいセンスだ。花鳥風月は大事だよね。
ただミュージカル場面については、できれば本格的に奥行きのあるセットでもっとモブモブした歌舞を見たかったな、とも思ったが、これは予算や人材に制約のある日本映画ゆえ仕方があるまい。Every Sperm Is Sacred.

中谷美紀の演技は必ずや各賞の主演女優賞ものだと思うが、予告編で期待したほど体当たり(笑)ではなかった。まあこれは「予告編というのはそういうものだ」といい大人になってまだわかってない俺が悪い。でも前半の物語のキモである「変な顔」は、美人女優なのによくぞやってくれました、という感じ。あれもSFXなんだろうか?

川をもう少し見たかったな、という思いが残る。筑後川と荒川それぞれの流域に住んだことがあるからなおさらそう思うのかもしれないが、広々とした河川敷の中の孤独だけはロングで奥行きある綺麗な絵を撮っておいてほしかった。その方が非業の最期を迎える場面の寂寞感もより募っただろうから。
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2006年06月26日

舞台|阪神淡路大震災

「舞台|阪神淡路大震災」を池袋の東京芸術劇場で見た。感想は後で詳しく書くけど、一見の価値はある舞台だと思った。
生の舞台で涙が出たのは久しぶりだった。

今夕と明日の昼夕にまだ公演があるので、池袋に行ける人はぜひご検討を。
制作者のブログ「脚本家は、肉が好き。」へ

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ということで感想。

私はそんなに演劇をよく見に行く観客ではない。この舞台の水準について他と比べて客観的に評価できるだけの識見はない。そういう素人の感想として読んでほしいのだが、完成度という点では、おそらくこの舞台にはいろいろと不足な点があると思う。
まず役者がみな青年だ。親子を演じている役者同士がセリフの説明抜きでは友人同士にしか見えない。年配の役者や子役を起用できなかったのか、意図的にしなかったのかはわからないが、個人的には大いに惜しまれる点だ。絶叫型の演技が総じて支配的であったとも思う。
焼死、圧死など震災による種々の死を網羅的にとらえていたとも言い難い。孤独氏や自殺についてはナレーションで紹介するしかなかったのか、若干残念ではある。
セットは瓦礫の一場面のみで展開する。潤沢な予算があれば、客入れの段階だけ一般家庭の茶の間を見せておいて……というあざとい演出も可能だったかもしれない。
役者が同質のグループであることの影響か、前の場面から続いているエピソードと単発のエピソードの切り替えが明確ではない。衣装やメイクによる切り替えを瞬時に行うのは難しかろうが、「役」のあるキャラクターと匿名の被災者の群れが同じに見えかねないのは、群像劇としては一考の余地はあるだろう。これは役者の演技力にもかかわる問題かもしれない。

だが、そんなことはすべて些細な欠点でしかない、と思わせる強さがこの舞台にはある。恐らく見る人によって感想は違うだろうが、震災当時も今も関東で暮らしている私に、この舞台は見るべきなのに目を背けてきた事実を突きつけた。関東大震災のときも太平洋戦争のときも、そして規模の大小を問わずあらゆる災害現場で起きてきたであろう生と死の交差が日常生活の延長にあるという、単純で明白な事実を。
無関心は罪だ。報道に接するだけで(それも新聞ならば斜め読み、テレビならばながら見だ)知ったつもりになって、被災の真の姿を想像することを怠った私は、今になって死者6434人に及ぶ惨劇の入り口に立って茫然とするほかない。月並みだが、不幸とはこういうことだと覚えた。それは突然やってきて日常を根こそぎ奪うのだ。

先に書いたようなことは、いわば蹴ったシュートがすべてゴールネットを揺らすことを求めるにも等しいもので、人生において大事なことを知らせるには1得点でも十分だ。そしてこの舞台は4、5点のゴールに相当するメッセージを叩き込み圧勝することに成功している。
最無知な私の感想を基点扱いしてはいけないが、生死のドラマを体験したことのない人は問答無用でまず見るべき舞台だ。その上で考えていなかったことを考えることを始めなくてはいけない。

そして終幕近く、前半のドラマの凡庸な繰り返しに見える場面での演劇的な仕掛け(一昨年の初演ではあり得なかった)に驚いてほしい。このエピソードによって、この舞台はさらに普遍的な意味を持ち得たのだと思う。

ひとつだけ不満を言えば、ロビーで防災グッズの販売をしていたのはどうかと思った。営業上仕方がないところもあったのだろう(劇作りにはお金がかかるし)が、舞台のインパクトを個人の防災対策PRというレベルに矮小化しかねない危惧を覚えた。他人の振り見て我が振り直せ、が最大の教訓として受け止められては、志の高い舞台を作った側にとってもきっと本意ではないだろう。
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2006年06月03日

東山魁夷館で想う

スギ画伯のサイトの声明をいっちょ翻訳するかね、と思っているうちにテレビや新聞社などのインタビューがあちこちで出まくり、早くも内容が色褪せてしまった。
asahi.comの和田氏の盗作疑惑、スギ氏「完全に私の作品だ」は落涙ものである。泣いているのは和田先生だけど。
 スギ氏によると、和田氏は5月13日、通訳と共にローマ市内のスギ氏のアトリエを訪問。泣きながら謝罪して「訴訟を起こさないで欲しい」と頼んだという。スギ氏は「盗作した作品をすべて送ってくれ」と求めた。
 スギ氏は「和田氏から5月18日に受けた」と説明しながら2枚のイタリア語ファクスも示した。この中では、和田氏とみられる人物が「自宅に保管している作品はすべてそちらへ送った」と述べるとともに「今回の事件について、深くおわびします。私はもう、美術界で生きていくことはできないでしょう。私の短い余生を、今回の事件から離れて送りたい」「私にとって必要なのは、あなたからの『法的に訴えない』と保証する一筆だけ。訴えないという手紙を送っていただければ、心が落ち着きます」などとしていた。
これが本当なら、最近になって疑惑を全面否定している和田氏は、まるで絵に描いたような卑怯者ではないか。実は絵を描いた卑怯者なんですけどね。←誰がうまいことを言えと言ったのか

ともあれ和田先生の話題を追いかけるのにちょっと疲れた私は、仕事の都合でなぜか長野市にいるのだった。牛に引かれて善光寺参りのついでに訪れたのが、長野県信濃美術館併設の東山魁夷館だった。
信濃美術館の常設展内容はほとんど見るに値しないお絵描きばかりで入館料返せものだったが、共通入館料であるのをいいことに期待せずに見た東山魁夷の絵には、激しい不意打ちを食らった。東山魁夷?ああ、小学校の教科書に載っていた絵でしょ、政治家が好きなやつ。などと思っていたら、見事に裏切られた。

木々を彩る青と緑の深みにまず目を奪われた。この質感は印刷ではなかなか再現できまい。何という青さだ、としか私の乏しい語彙では表現できない。
そして構図の妙。水に映る枝ばかりの風景がなぜあれほどダイナミックに躍動して見えるのか。同じ景色を前にしても画家の目は違うものを見ているのだ、と月並みだがそう思わずにはいられなかった。

もちろんのべつまくなし感動していたわけではない。ハイデルベルクなどのなじみのある風景には大いに感じ入ったが、中国などを舞台にしたデッサンは少なくとも掲示されていた作品については凡庸さしか覚えなかった。シンボルマークである白馬のアイコンはちょいとサービスのしすぎのようにも思える。
だが、ろくに日本画に親しんでこなかった私のような門外漢にも一発で「東山ブランド」を識別させるような色と象の個性は格別である。いや、本当に参りました。スタンダード中のスタンダードだからといって無視するのはよくないな、と大いに反省させられた。

で、やっぱり和田先生のことを考えてしまったのだった。
洋画の技法を習得し尽したものの、その技術をもって描くべきテーマが自分の中になかったとしたら、それは悲劇以外の何物でもない。ピアニストであればとにもかくにも既製の音楽をなぞればピアニストたりえるかもしれないが、画家は作画して初めて画家だ。コメント欄安積桂さんやばかぼんさんが言及されているように、魅力的な造形を具体化する能力に乏しいまま画家になってしまった人間の悲劇として、一連の騒動はとらえられるべきなのかもしれない。実際には和田先生の土俵際の必死の抵抗(見苦しいともいう)が、壮大な破滅を期待するギャラリーを増やしまくっているという現実があるわけだが。

でも、東山先生は大丈夫なんでしょうかね、と若干不安になる。もう死んでるから、オリジナリティーに疑義が浮かんでも今更意見するわけにもいかんのだが。
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2006年04月18日

「千と千尋」再考

今更だけど「千と千尋の神隠し」は宮崎映画の総決算だったのかな、と通勤電車の中でふと思った。 宮崎駿監督自身、「これで最後」みたいなことを制作中に言っていなかったっけ。

・「カリオストロの城」のクラリスの部屋と坊の部屋のデザインの類似性には公開当時にもいろいろな人が言及していたが、侵入者による閉ざされた世界(天井の絵は小宇宙の象徴だろう)からの解放というモチーフも共通している。
・「もののけ姫」終幕の石舞台から「千尋」のドラマは始まる。
・人が豚になるのは「紅の豚」。
・「となりのトトロ」のススワタリの再登場もさることながら、蒸気機関を自在に操る釜爺は「天空の城ラピュタ」のキャラクターの延長上ではないか。
・空飛ぶ少女による少年の救済という主題はまんま「魔女の宅急便」だ。

などなど。DVDを見直して真面目に調べたらいろいろ語れそうだけど、とりあえず思いつきを並べておいた。でもたぶん、誰かがもっときちんとまとめていそうだなあ。

追記:
そういえば「ナウシカ」的要素はなんだろうか、親世代抜きの隔世関係かねえ、と職場で話していたら同僚のひとり曰く「狂った世界への適応じゃない?」。うむむ、そう読んだか。
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2006年04月10日

THE 有頂天ホテル

もう1ヶ月前の話になるけど、未だ大ヒットでロングランを続けているTHE 有頂天ホテルを見に行ったときの感想。なぜか書こうとするとサーバーがエラーを出すんだけど、今日は大丈夫だろうな。

三谷幸喜の映画第1作の「ラヂオの時間」の時にも思ったことだけど、演劇の生理をそのまま映画に持ち込んでいるという印象はいよいよ強まった。つまり「冒頭で客席を温める」舞台のやり方を踏襲しているのだ。
この作品をこのキャストで舞台に乗せられたら、舞台装置担当は相当苦労するだろうがさぞかし楽しい喜劇に仕上がったことだろう。だが、映画というかたちで実体化することによって、残念ながらその魅力は半減してしまった(それでも十分面白くはあったのだが)。

生身の人間が見ている前で演じるというのは大変なことだ。客のノリがよければ役者もそれに力づけられて能力を存分に発揮できるだろう。逆に、物語の入り口で客席の関心を掴み損ねたら、その後の舞台は相当悲惨なものになるに違いない。それが演技者と観客が同じ空気を共有する劇場ならではの魅力でもあり危なさでもある。

映画の最初で繰り出される人物紹介を兼ねたギャグの過剰さは、三谷幸喜のサービス精神によるものであることはもちろんだが、同時に「掴み」損なうことへの恐れもそこにはあったのではないか。舞台ならばそれで勢いづいた役者らがリラックスして演技に打ち込める効果もあるだろうが、この映画では結果として「笑い」全体のバランスが前のめりになってしまったことは否めない。後半に行くほど笑いは散発的になり、ラスト前でにわかに比重を増したYou演じるところの歌手が中心の「いい話」への移行は必ずしもスムーズとは言えなかったと思う。盛り上げすぎた前半の感興がどんどん冷めていくもどかしさを感じた。

登場人物個々(あまりにも多い)の行動をうまく整理できていないのも「舞台」の構成術をスクリーンに持ち込んだがための蹉跌ではなかろうか。同じステージの別の場所で複数のストーリーが進行するスリルは、場面展開が自在にできすぎる映画ではなかなか得られない。俳優ひとりの顔が大写しになった瞬間、様々なキャラクターの交錯によるポリフォニーを奏でていた物語は失速し、「なんか切り替えの多い映画だな」という印象ばかりが残った。役所広司の馬鹿スピーチやオダギリジョー(見ている最中は彼だと気づかなかった)のむちゃくちゃ地味な筆耕係、大物歌手を演じさせたらこの人しかいない西田敏行の演技など、本来なら爆笑必至のエピソードには事欠かないのに、それぞれ不完全燃焼のまま早足で次の場面へと進んでしまうのは残念としか言いようがない。

ホテル自体の位置づけが曖昧なのも気になった。設定では「1.5流」らしいが、見ていても高級なのか勤めていることを明かすのが恥になるような程度のクラスなのかがわからない。現実感のない記者会見場面、ラグジャリー感のないスイートルームの描写など、「ホテル」そのものの存在がリアルに感じられなかったのも今ひとつのめり込めなかった理由のひとつだ。

とネガティブなことばかり書いたのが、この映画が「惜しい」素材だからだ。もう少しどうにかすれば、客席の下に崩れ落ちて腹を抱えて苦しがるぐらい笑える予感があったのに、それが最後まで実現しなかったことが見ているこちらにとっても悔しくてならないのだ。
月並みだが、ハリウッドでリメークの話が持ち上がりでもしないものか、と期待している。舞台演出家が脚本を書き監督をするのとは違う可能性をこの設定から引き出してくれる誰かが、きっといるはずだ。
posted by NA at 23:36| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月03日

男たちの大和

こないだ君を誘って行こうとした映画の話、覚えてる? 無視されちゃったよね。何で今頃戦争映画、しかも和製を見なければいかんのじゃ、と思ったんだろうけど。
で、そろそろチケットの期限も終わりそうだったので、そこそこヒットもしたらしいし話の種にと思って会社帰りに行ってみたんだけどさ。
うん、ここまでの語尾の濁し方から大体察しがつくだろうけど、俺的には結構微妙だったな。この映画を見て「戦争イクナイ!平和を守れ!」と反戦の誓いを新たにした素直な観客もたくさんいたらしいんであまりけなしたくはないんだけど、「監修・瀬島龍三」というあたりを見過ごすわけにはいかんよな、やっぱり。でもそれとは別に、娯楽映画としても疑問符が結構ついた感じ。

物語の入り方が「タイタニック」踏襲かよ、とか、ソリマチ髪が長いぞ、とか、えーカズシゲがあの臼淵大尉なのー、とか、獅童がどうして生き延びたのかわからんぞ、とかとかツッコミどころや不満や謎は多々あれど、それ以上に悪い意味で「ああ、日本映画なんだなあ」と強く感じたんだ。
ウォーターラインシリーズを子供部屋の床いっぱいに並べて遊んでいた元軍国少年の俺としては、やっぱこう世界最大(全長は米国のミズーリ型の方が7mだけ長かったけど)の戦艦のマッシブな威容を、でかいスクリーンで見て圧倒されたかったわけですよ。あんた普段言ってることと全然違うじゃんって? 平和主義者とミリタリーキット好きはあやうくも両立し得るのだ、たぶん。

原因のひとつはこれだと思う。「映画『男たちの大和』原寸大ロケセット・公式WEBサイト」を見てわかったんだけど、この映画で使われた戦艦大和のセットって、全体の3分の2ぐらいにあたるのかな。見ている最中も「主人公らの対空機銃座のある左舷のシーンばっかだな」と頭のどこかで胡乱に感じていたんだけど、やっぱそういうことだったんだよね。
見えないところに金をかける必要はないと思うけど、全体のセットを作るのを放棄して制作費を抑えていたんだろう、きっと。いかにCGで補おうとも、そういう嘘っぽさがキャメラワークに不自然さを強いているのが画面にどこかにじみ出て、結果として映画から迫力を削いでいたんじゃないかな。悔しいけどこのへんのセンスは金持ちハリウッドには全然かなわないよ。

でも大和全体のセットがたとえ実現したとしてもだめだったかもな。どうしてあんなに菊の紋章を前から撮るアングルばかりこだわっていたんだろう? 我々の子供時代に想像した大和のイメージは、決してあのアングルではなかったはずだ。46センチ三連砲塔や12.7ミリ連装高角砲の回転とか、戦記ファンには垂涎もののカットがほとんど見当たらなかったのはどういうことなんだろう。そして、巨大な殺人兵器が内に秘めている力感や危険さは、やはり動きの中で表現すべきテーマだったと思うんだよ。でも、基本的に全景(もどき)はほとんど静止画像で、戦闘シーンになると細部のクローズアップばかり。そこで日本兵たちが欽ちゃんジャンプみたいな変な格好で吹き飛んで、品よくもげた手足とかがちらちらっと映るという按配さ。米兵の存在をまったく感じさせないというのもどういう演出の意図なんだろう。血糊はずいぶんサービスしていたけど「プライベート・ライアン」以降の映像表現としては、さてどんなものだろうね。戦闘シーンのカメラ揺らしすぎじゃない?
グロテスクなものをはっきり見せてはいけない、という教育的配慮があったのかもしれないけど、兵隊が血や煤煙やその他もろもろで汚れまくるともう誰が誰やらわからない状態で、「何かよくわからんけどやられまくってるらしい」という、情報としては希薄な場面が5分ぐらい続いていたような気がする。やっぱりそこをしっかり見せなくては、ねえ。安全な場所から悲惨の極みを見るのが戦争映画鑑賞の基本だな、と思ったよ。

「そういう映画じゃないんでしょ」って? そう、そういう興味を持って見てはいけない映画だったんだろうね。だから船の上で仲代達矢が心臓の発作で倒れて、海の中からDr.コトーがにゅうと出てきて手術しちゃったりする場面があるんだよ。あ、ちょっと違ったかも。でもその一幕は本当に必要だったのかいな、仲代の見せ場を作るというだけでさ。
「単なるドンパチ」「人間が描けてない」と言われるのがそんなに怖かったのかなあ。大勢の登場人物にそれぞれ深みを与えようとして、結果としてどれもみな尺が足らずに説明不足消化不足になって描ききれていないケースばかりだった。主役級の反町・獅童ですらそうだったんだから。人物描写を急ぐ様も、この映画のあわただしさビンボくささに寄与していたと思う。
うん、たぶん菊一号作戦(沖縄特攻)だけの短い期間に絞ったストーリーにまとめるべきだったと思う。それぞれの兵隊の過去は、艦内のエピソードで観客が十分想像できるようなものにして。それだけの演技力がある俳優が揃うかどうかはともかく。
ドンパチがしっかり描けていない戦争映画で、人間ドラマもくそもないと思うんだが。

1個所だけ勝手に泣けた場面があったんだ。最後の出撃のためにはしけ舟に乗って大和に向かう乗組員たちを見送る人の中から、やっとの思いで遠方から駆けつけた妻が、幼子を片手に大声で夫に呼びかけるシーンがあってさ、でその子供に泣けたんだ。なんでかというと、おそらく1歳になるかならないかぐらいの男の子なんだけど、大声で泣いていて、その大きく開いた口の中に、下の前歯が2本ぐらい生えているのが見えるんだ。それだけ。でもそれがいいんだな。
子供に歯が生えるって、家族の歴史の中では結構な事件なんだよ。食べるものもおっぱいから離乳食に変わるしさ。親は生えた歯を見たり噛まれた手の痛さに喜んだりするわけ。こういうシーンが画面外の想像を結構そそるものなんだよ。わからない? まあいいや。
だけど日本映画としては結構な手間隙にお金をかけた映画で、子供の歯のシーンだけよかったと言われては制作者も立つ瀬がないよね。

キャストで唯一光っていたのは蒼井優。公式サイトを見るともう20歳らしいんだけど、つるぺたぶりにそうは見えませんでした。いやはや。
久石譲の音楽は世評が高かったので少し期待したけど、まあよく言えば画面と一体化していたというのか、よくも悪くも戦争映画の常道という感じで特に目新しさは感じず。最後の長渕の歌は聴くに堪えなかったけど、「ひょっとしたら最後に獅童奇跡の生還について説明があるのかな?」と我慢して聴いてひどく損をしました、という感じ。

ということで、ともあれ君と行かなくてよかったよ。うん。だから次はもう少しましな映画誘うから、一緒に行こうよ、ね? この「オペレッタ狸御殿」って面白そうだろ? やっぱだめか。
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2006年01月24日

狸御殿ふたたび

おなじみ目黒シネマにて、2/4から「オペレッタ狸御殿」が再映されるようだ。一週間限りだけど。
別に「SHINOBI――忍 」は見なくてもいいような気がするが、「狸御殿」はDVDも出ているものの、やっぱり大画面で見たいしねえ。

目黒シネマつながりで先日見たティム・バートン二本立てを思い出した。
allcinema ONLINEでオダギリジョーの出演作一覧を眺めて、彼は和製ジョニー・デップを狙っているのかな、とふと思ったり。
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2006年01月12日

「いやいやえん」の実写映画化希望

やや旧聞になるが、昨年見た中ではもっとも面白かった映画「チャーリーとチョコレート工場」が、年末に目黒シネマで「コープス・ブライド」と二本立て上映されていたのでもう一度見に行ったのだった。「コープス・ブライド」は面白かったけど、グロテスクなセンスがいかにも洋物風で、日本の観客にはちと厳しかったかも。デートムービーのつもりで見た人はお気の毒様である。いないかそんな奴。

そこで私は「チャーリー」のすばらしい大工場などを再見して次のように思ったのだった。CG技術の進歩による制作コストの低減は、ハリウッドの映画産業に於ける優位性をかなり縮小したのではないか。これまでわが国の映像的表現を目指す有為な人材は、可能性を追求するとどうしても漫画やアニメに流れざるを得なかったが、これからは映画でもいけるんでないか、と。すでに自主制作CG映画「惑星大怪獣ネガドン」という好例も出てきているが、民生用ハイビジョンビデオカメラを当たり前に使って育ちコンピュータでの動画処理も当然のようにこなす若い世代から未来の巨匠が輩出するのではないか。コンテンツ大国日本万歳。

……と映画館の暗い座席でそこまで考えたわけではないが、とにかく「チャーリー」をみて大いに興奮した私は、これぐらい馬鹿馬鹿しくて大袈裟な映画を国産でも誰か作ってくれないかな、と思ったわけですよ。昔に比べてそんなに金をかけなくても、野放図なイマジネーションさえあればすごいものは作れる!そうだ、作れ! 誰に命令しているんだかわかりませんが。

で、ようやく話は標題へと収束する。子供から大人まで楽しめる原作が日本代表で何かないか、と15秒ほど考えて思いついたのが、かの名作「いやいやえん」であったという次第。アイデア貧困ですみません。でも「ぐりとぐら」では10分で終わりそうだし。
今調べたら、どうやらこの原作でスタジオジブリが「くじらとり」で短編アニメを作っているらしいけど、だったらこっちは(って誰)保育園児の俳優をいっぱい使って実写でやろうではないか。労働基準法がなんだ。
どのエピソードでもいいけど、やっぱり「くじらとり」がダイナミックでよさそうですな。表題作も捨てがたいがやや小粒か。でも子供のわがままさが出ている話がいいよな、って要するに「チャーリー」の二番煎じか!

真面目な話、作品の世界観についての予備知識が必要な種類のアニメでなく、子供も大人も問答無用で楽しめる馬鹿映画ってほとんどないような気がする。「チャーリー」が新鮮に映った原因のひとつもそれだろう。
今、子供が置かれている状況は悲惨極まりない。数が減っていることに加えて、田舎でも都会でも屋外で遊ぶのは危険という風潮が強まりつつあり、街から子供の姿が消えて久しい。わが国の映画人よ、そんな子供たちが親と一緒に映画館に集って楽しめる痛快な映画を、どうか作ってはいただけませんでしょうか。と最後は下手にお願いする私なのだった。
posted by NA at 23:11| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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