2007年09月27日

パティ・オースティン@Billboard Live TOKYO


あの東京ミッドタウンに新しいライブスポットができてスティーリー・ダンが杮(こけら)落としをやる、と聞いたときには当然これは行くしかないと思ったのだが、20,000円前後というチケットの高さについつい二の足を踏んだ。
クラシックだったらこれぐらいの価格は何度でも払ったことはあるのに、なぜロックだと払えないのか俺の馬鹿馬鹿、と思ったものの、また2000年の東京国際フォーラムの時みたいな不出来な演奏(客席と心を通わせる瞬間がなかったという印象が残っている)だったら嫌だな、と感じたのが躊躇の原因だった。
しかし今回はクラブ風の小さい箱でバンドはすぐそば、という環境だったと後になって知った。行った人によると極めて親密な雰囲気の中で和やかな演奏が繰り広げられたとの由(値段の割りに短すぎる、と不満も言っていたが)。
折りしも来日中に「Aja」のジャケットがあまりにも有名な和製スーパーモデル山口小夜子さんの訃報もあって、きっと彼らも何かしらコメントしていたのでは、と思うと悔しさはいよいよ募った。

とまあ前置きが長くなりましたが、そんなわけでBillboard Live TOKYOにはぜひとも行ってみたいもんだと思っていたら、ひょんなことからパティ・オースティンの来日公演チケットが手に入った。東京ミッドタウン自体未見だったこともあり、遅ればせながら物見に出かけた。
以前六本木ヒルズに初めて行ったときには、建物のいたるところから「貧乏人は来るなーっ」という叫びを耳にしたように感じたが、東京ミッドタウンは同じことを10倍ぐらいの勢いで叫んでいるようだ。通行料を取られないのが不思議なぐらい。「うちへ帰ろうよ」と袖を引っ張る貧乏人根性を無理やり押さえつけて、不案内な建物を散々迷ったあげく4階のBillboard Liveへと向かう。
billboardlivetokyo.jpgステージ背後の夜景にまず圧倒された。そして噂どおりのステージと客席の近さに、改めて後悔の念を掻き立てられる。嗚呼行けばよかったスティーリー・ダン。

出演するアーティストにもよるのだろうが、この日の客の半分は中年以上という感じ。業界人らしいTシャツ姿がかなり見受けられる。
パティ・オースティンの歌とバックの演奏は予想通り素晴らしいものだった。近作のガーシュインコレクションのお披露目ツアーなのだろうが、アルバムではビッグバンドで演奏している曲を4リズム向けにいろいろとアレンジしてやってくれた。「I Got Rhythm」のリズムが複雑すぎて取れなかったのは俺だけだろうか。
パティはもう60歳近いはずだが、伸びやかで艶のある歌声はまだまだ現役真っ只中という感じ。ジャズ歌手は寿命が長くてよろしい。付け加えていうと、PAもごくごく真っ当な音量できちんと演奏を再現していた。ダブルベースの細かい遊びもギターの合いの手もすべてバランスよく聞き取れたのは喜ばしい限り。素人耳で断定しても説得力はないが、音響に関してはかなりハイレベルな環境だと思う。

演奏よし景色よし、だが悪かったのは従業員のサービスだ。「シーザーサラダには鶏肉入っている?」と確認したのに対し笑顔で「はい」と答えた女子スタッフは、たぶん生ハムとチキンの区別がつかないのだろう。他の連中もお冷は持ってこないわ、「アメリカン・レモネード」とは何のカクテルかを聞いたらこれまた笑顔で「レモンと何かです」と言うわ、別の人間に聞いたら立ち去って戻ってこないわで、およそ飲食サービスに関してはプライス以外はファミレス以下のレベルだった。シーザーサラダも量が多いだけで雑だったし。

貧乏人ゆえ値段の文句ばかり言っているが、懐メロ洋楽を媒介した大人の社交場という趣に異を唱えるつもりはない。いつの日か万札をぴっぴっと切れるか、勘定書を確認せずにブラックカードを無造作に渡せるような立派な人になれる日を夢見て、でもやっぱりお呼びでない感をひしひしと感じ、しばらく六本木には近づかない方がいいのかなあ、と思ったりした中年の秋だった。
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2007年09月22日

「SiCKO」(マイケル・ムーア監督)を観た


ようやく「SiCKO」を観ることができた。
もうこれは何と言うか、ドキュメンタリーだとかなんだとかの枠を超えたエンターテインメントとして大変な傑作なので、ぜひ皆さん観て下さい。8月末からの公開だけど、まだあちこちの劇場でやっています。急げ急げ。公式サイトはこちら。おしまい。

以下は蛇足。

言うまでもなくこの映画の制作に当たってマイケル・ムーアの主な意図はアメリカ国民の啓蒙にあるわけで、必要以上に英国の医師やフランス国民の生活水準に驚いて見せているのは、一般的な米国民の海外事情に関する無知さを十分斟酌してのことだろう。米国の新聞やテレビの報道番組の国内ニュース偏重ぶりはつとに知られているが、イギリスと言えば二階建てバスだよね、フランスといえばフレンチポップでキスだよね、というあまりにもステレオタイプなつくりは、まさにこの映画を観るべき情報弱者に対する配慮に他ならないと思った。「アカ」社会主義に対する根強い恐怖や反感に対する丁寧な心配りもまた然り。

作中、9/11と第二次大戦のバトル・オブ・ブリテンを併置して示した場面で虚を突かれた。20世紀中はメインランドで戦争らしい戦争を経験していなかった米国にとっての9/11のショックというのはそういうものだったのか、と気づかされた。朝鮮もベトナムも参戦した兵士たちはともかく、一般の米国市民らにとっては所詮写真か映像の中での出来事でしかなかったのだ。マイケル・ムーアはそこを示しつつ、暗に「第二次対戦中のロンドン市民の被った災害の方が遥かに大きかった」と語っていて、改めてこの監督の反骨精神の強靭さに舌を巻いた。

終盤の9/11⇒グアンタナモ海軍基地⇒キューバと場面を繋ぐ演出は余りにもあざとい。米国人らに医療サービスを提供するキューバ側の対応はおそらくプロパガンダ含みだろう。だが、それを承知で観ていてもやはりこの映画は感動的だ。米国の劣悪な医療保険制度ゆえに苦しんでいた人たちが治療される姿はそれ自体に圧倒的な説得力がある。

そして、この映画は健康保険についての映画ではなく、医療というフィルターを通してのアメリカ論だったのだというシンプルな真実に思い至る。
マイケル・ムーアは愚直に事例を積み重ね(しかし膨大な映像のコラージュなどで面白く見せる工夫は忘れない)、米国人に意識変革を訴える。こんな国でいいのか、こんな政府でいいのか、と。そしてラストはきっちりとベタなオチをつける。批判はしつつも、最後のところで彼はアメリカの再生を信じている。
次期大統領選で健康保険制度が争点化するなど、この映画は既に米国社会へ少なからぬ影響を及ぼしている。日本でこういう映画はできないのだろうか。スピードとユーモアと批判精神をバランスよく備えた映像による社会批評を期待してはいけないだろうか。

エンドタイトルでカート・ヴォネガットへの謝辞が出ていた。彼もまたアメリカの痛烈な批判者であり、そして善きアメリカの精神を信じて已まない人だった。日本はどうなんだ。私たちはこの国の進路を少しでもましな方向へと変えることができるのだろうか。
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2007年09月17日

ドラマ「ひまわり」(TBS)

夏目雅子のドラマ、ということで滅多に見ないテレビドラマを見たのだが、残念ながら母親役に三田佳子を起用した時点でこの作品は終わっていた。
なんなんだあの平板でくさい演技は。なんなんだあの一本調子な台詞回しは。息子と正面から抱き合うシーンで、なんで横のカメラに目線が行っているのだ。
21世紀の映像作品とは到底思えない夜の学芸会ぶりに悶絶した。プライベートな話と女優活動を絡めて話したくはないが、やはり次男の一連の事件を機に彼女は潔く芸能界を去るべきだったとさえ思った。

私は悲しい。夏目雅子を仲間由紀恵が演じるという企画自体は決して悪くなかったと思うが、これは三田佳子のためのドラマだったのだ。母の視点から描かれた雅子伝というスタイルゆえ雅子役の出番の大半は母親役とのからみに費やされ、そこで登場した大女優の腐れ演技がすべてを台無しにした。

仲間由紀恵は決して演技の下手な役者ではない。結構夏目雅子に似ているかな、と思えた瞬間もなかったわけではないが、三田の怪演の前にその輝きは消されてしまっていた。もったいないことである。
誰がやっても難しい役ではあったと思うが、やはりオーラの不足は否めない。夏目雅子が同時代に与えたインパクトは大きかった。数多いる美人女優の中で群を抜いて綺麗であり存在感があった。

最近涙腺が緩みがちで、映画や小説などの別離や死を描いたちょっとした揺さぶりにもすぐ反応してしまうのだが、今回はまったく動じなかった。喜ぶべきことなのかどうなのか。

focus.jpgそういえば白血病で入院中の夏目雅子を新潮社が出していた写真週刊誌「フォーカス」のカメラマンが盗撮して掲載し、それを知って彼女の病状がさらに悪化した、という話を以前どこかで読んだ気がするのだが、残念ながら出典がわからない。今回のドラマでも扱われなかったようだ(ドラマ終盤はほとんど正視に堪えなかったのでよそ見がちだったから、見逃している可能性はある)。思い違いだろうか。
フォーカスはその写真をよほど気に入っていたらしく、初出後も特集号で再掲したりしている。彼女への影響はともかく、週刊誌ジャーナリズムがいかに酷いものであるかをあの事件を通じて知ったのは事実だ。閑話休題。

少年の日、夏目雅子がいかに綺麗に映ったかについて書き出すときりがないし、多分そんなことは他人に向けて語っても仕方ない。
月並みだが、夏目雅子の美しさはやはり彼女が登場した映画や写真集で偲ぶのが一番であろう。TBSのテレビドラマなどに期待する方が間違っていたのだ。

追記:
またやった。いわんこっちゃない。
「うつ」か禁断症状か 三田佳子次男覚せい剤で逮捕: スッキリ!!:J-CAST テレビウォッチ

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2007年08月31日

映画「夕凪の街 桜の国」を観た

八月中に観なくては、と思っているうちに最終日になってしまった。木場でやっていることに夕方になって気づき、あわてて仕事を切り上げて観に行く。

良くも悪くも原作に密着したつくり。それゆえに日本漫画の表現の豊かさ自由さと、日本映画の作法の貧しさを必要以上に意識させられることになった。以下内容に触れるので、観る予定のある方はご注意を。オフィシャルサイトはこちら
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2007年08月19日

カリ城雑感

なぜか出先で、幾度となく観た「ルパン三世 カリオストロの城」の一節がフラッシュバックする。
突如想い出すよじゆぴたあ、じゃかじゃん。

脳裏に蘇ったのは、クラリスの部屋に忍び入ったルパンが「女の子(クラリス)が信じてくれたら、空を飛ぶことだって湖を飲み干すことだってできるのに」(記憶で書いているので不正確かも)と切々と語る有名なくだりだ。
この台詞がラストの時計塔での活劇場面と呼応していることに、今の今まで気づかなかった。何たる鈍感さ。

カリオストロ伯爵に蹴落とされた(んだっけ?)クラリスを追って後から身を投げたルパンが空中を泳いで追いつく、アニメならではの反重力的超自然的描写のインパクトが強すぎたこともあろう。でもあの場面でルパンは確かに「空を飛」んでいたわけだ。そして湖の水が流れ去って水没していたローマ時代の壮麗な庭園都市が現れるシーン。いずれもアニメでなければ(きょうびはCGという手もあるが)表現が難しい映像であり、それを主人公の口からきちんと予告させていた宮崎駿の作劇術に改めて舌を巻いた。

約一年前にももう少し前にも別件で宮崎映画のことを考えていたようで、どうやら私の頭の中の無意識空間には常にジブリ映画が上映されているらしい。困ったことだ。

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2007年08月14日

ADMT「昭和の広告展」

yamahapiano.jpg汐留での昼飯ついでに、電通本社地下にある「アド・ミュージアム東京」で開催中の「昭和の広告展」をうっかり見てしまう。なぜうっかりかと言うと、ついついいろいろ見とれてしまって気づいたら1時間近くが経過していたからだ。いくら仕事が暇な時期とはいえこれではいけません。
しかしこれが入場無料というんだからさすが世界の電通、太っ腹。

レトロモダンな広告の数々はまったく見ていて飽きない。物質文明で市民生活が幸せになることを信じて疑わなかった時代のエネルギーがまっすぐ放射されていて、とてもまぶしく感じた。BGMにゲルニカでも流してほしいものです。
toshimaen.jpgてっきり企画展の続きかと思った常設展も充実しており、時代・風俗を代表するガジェットの数々に見とれる。ファミコンやウォークマンの初期モデル、各種雑誌の創刊号などなどに交じってAIBOがいたのには心の中で少し泣いた。
各時代の広告展示のほか、mouretsu.jpgなつかしのCMを再生できるビデオコーナーなどもあり、有名な小川ローザの「OHモーレツ!」や「はっぱふみふみ」などを初めて見られたのは収穫だった。昔の若者はあの程度で興奮していたのだな。今や小学生がインターネットで無修正動画を見ている時代だ。約40年の間に我々はとんでもなく遠くまで来てしまった、と改めて思う。
CMビデオのストレージは膨大で、全部見ようとしたらどれほどかかることかわからない。
以前にも書いたが、30秒ドラマとしてのCM動画は非常な商品価値を持っていると思う。これをオンラインで手軽に見られる方法はないものか。ADMTの有料会員になればアクセス可能にするとか。御一考いただけませんでしょうか>関係各位

ともあれ時間潰しには最適なので、ADMTは今後もちょくちょく覘きに行くことに決定。東京見物に疲れた方は、椅子もいっぱいあるのでカレッタ汐留にぜひお越しを。頼まれたわけでもないけど宣伝しておこう。
CM自体もともと無料なわけだけど、いまどき無料の娯楽としてこれだけの質と量を兼ね備えて提供している施設はそうはないのではないか。
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2007年07月06日

ダイ・ハード4.0

私見では(世評と変わらないと思うけど)「ダイ・ハード」シリーズは一作目が大変な傑作で、残り二作は見たけど忘れた。
いつものように出張先の空き時間で観た「4.0」は、でかすぎる事件をひとりで全部解決してしまうという無理さ強引さ炸裂のいつものダイ・ハードだった。

まあ半年したら忘れて数年後にテレビの洋画劇場(地上波初登場、とか)でやっているのを見かけて「そうそうこういう映画だったよ」と思うような、平均よりは若干上のハリウッド映画かなあ、という感じ。これは褒めているのであって、入場料分しっかり楽しませてくれることは間違いない。
……以下、内容に触れまくってますので未見の方はご注意を。続きを読む
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2007年06月22日

菅原淳打楽器リサイタル

浜離宮朝日ホールで開かれた「菅原淳打楽器リサイタル〜マリンバ、パーカッション、ティンパニ、そして「楽しい木琴」へ〜」を聴きに行く。
目当ては最後のバルトーク「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」だった(共演が吉原すみれ、木村かをり、野平一郎という豪華メンバー)が、その他のステージもそれぞれに楽しく、打楽器の面白さ可能性を存分に味わえた一夜だった。

曲目はバーンスタイン「ウエスト・サイド・ストーリーより4つのシーン」、一柳慧「リズム・グラデーション」、石井眞木「サーティーンドラムス」、インターミッションをはさんで一柳慧「パガニーニ・パーソナル」、そしてバルトークだった。
バーンスタインは菅原氏が主宰する打楽器アンサンブル「パーカッション・ミュージアム」のメンバーと思われる若手9人との共演でひたすら楽しく、アフリカのドラムを連打しまくる石井作品では演奏修了と同時に大きく息をつくほどの熱演。一柳氏が来場しており、もはや古典的名作となった「パガニーニ」のあとで壇上に呼び上げられていた。

バルトークは白熱したインタープレイの予想に反してリラックスした演奏。ピアノ陣が引き気味に聞こえたのは、ティンパニ中心にプレイした当夜の主役に対する配慮だったのかもしれない。吉原さんもちょっと精彩を欠いた部分があったかも。でも決めるべきところはきっちり決めてくるのは、さすが円熟の演奏者たちだけのことはあった。
4者のバランスが拮抗していたため、ピアノ2台が内声で多重和音のオスティナートを繰り広げる中、下でティンパニ、上でシロフォンが鋭くアクセントを打ち込む構図がはっきり聞き取れたのは収穫だった。打楽器が輪郭を定める曲だったのだ。

アンコールではバッハの無伴奏チェロ組曲からサラバンドを演奏し、また女性三連弾のマリンバを伴奏に木琴ソロの曲(知らないが楽しい曲だった)も披露。愉快な雰囲気で終演となった。「剣の舞」もやってくれたらよかったのになあ。

読売日本交響楽団の定年を迎える菅原さんをテーマに第2日本テレビが動画満載の同時進行ドキュメントを制作しているらしい。この日の演奏会もビデオカメラが回っていたので、近々アップされるだろう。

菅原さんのこの日の演奏は名人芸中の名人芸だったが、近寄りがたい高踏さを微塵も感じさせないものだった。いい音を出すのが難しいのは百も承知(ご本人も舞台で「楽器の配置は1センチでもずれたら駄目」と語っていた)だが、いい意味で職人芸的というか、聴衆に不要な緊張を強いない佇まいがあったため気楽に聴けた。頭の薄くなった人のよさそうなおっちゃんが真剣だがそれでいて楽しげに楽器と戯れていて、その中からおそろしいほどの情報量のリズムが産出されるという感じ。説明になっているだろうか。

打楽器の楽しさはそのわかりやすさに由来する。アクションと発音の直接的関係が得も言われず愉快である。
街中にトロンボーンやヴィオラが置いてあっても積極的に触りたがる人はそう多くないだろうが、太鼓があれば誰もがついつい「ぽん」とやりたくなる。いい大人が撥を持ってぽんこらぽんこら楽しそうに叩いていていいのであるか!という自省が一瞬頭をかすめても、次の瞬間には反射的に手が伸びてしまうに違いない。

過去に女性の打楽器奏者のリサイタルを聴いたことがあるが、マレットを構えた姿がなぜか「攻撃」のイメージと結びついていた。武骨なギアに囲まれて緊張した様子から、「これから私は世界と対峙する!キッ!」という空耳を勝手に聞き取ってしまうのだ。菅原さん(さっきからさんづけで書いているな)の風貌からはそのような印象はまったく受けなかった。世界を切り刻む道具ではなく、森羅万象を前に進めるためのダイナモとしての打楽器と言うか。ああ自分でも何言ってるかわかんないな。
要は、小さい頃に誰もが経験したぽんぽこ遊びの延長上に素晴らしい音楽が広がっていたということだ。この日の楽しい演奏ぶりはそれを思い出させてくれた。太鼓たたきたい。
posted by NA at 10:53| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(2) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月20日

クイズモンスター(NHK)

旧態依然のわが職場では仕事中にテレビはNHKだけ点けていてもいいという不文律があって、先日の土曜出勤も人気の少ないオフィスでぼんやりNHKばかり見ていた。
昼の間こっそり教育に切り替えて電脳コイルを観て「何このクォリティ」と呆れていたのは内緒だ。

夜に入って、何度目かのTHEクイズモンスターを見るともなく見る。実にNHKらしい、スピード感も面白さも何もないクイズ番組である。
「モンスター」とはつまりトレーディングカードゲーム形式を意味するらしい。この段階でもう脱力するしかない。「カード集めと言えば、ほれ、あのポケモンだかデジモンだかだろう」とえらい人が会議で言ったのだろう。しかしこの番組のルールと言えば、デッキを組む工夫も戦略を立てて稀少カードを奪う妙味も、それこそなーんもないのだ。
どう考えても盛り上がりそうもない構成に加えて、何の展開力もない局アナが進行を司るのだから、これはもう鉄板のつまらなさである。途中にCMでも入ればまだ目先も変わるだろうに。しかしここはNHK。

先日の対戦者ゲストは西川きよしと立川志の輔だった。NHK人脈ではあるが、ふつうに話させれば豪華トークショーになる顔合わせでこんなつまらない番組を作るのはほとんど犯罪と言ってよい。楽屋落ちスレスレの話術で無理やりショーアップを図っていた大御所ふたりの姿が痛々しかった。
前から不思議に思っていたのだが、NHKはどうして独自のクイズ番組作りにこだわるのだろう。御家族全員で楽しめるクイズ番組が日本には必要なんでしょうか。クイズやめたら次は紅白やめなきゃならないんですか。でも案外そうかもなあ。

というわけで「電脳コイル」は面白いのでみんなで観るといいと思った。
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2007年06月18日

「大日本人」を観てしまった

出張先で早い時間から仕事仲間と酒を飲んだ後、中途半端に時間が余ってしまった。繁華街をふらふら歩いていたらシネコンがレイトショーをやっており、チケット1,000円である。知らない街でおかしな店につかまって万札数枚召し上げられるよりはこの方がよろしかろう、とよろよろ入館し、たまたま時間が合っていた「大日本人」を予備知識抜きで観た、という次第。
正確には予備知識はまったく皆無というわけではなくて、なんか日本人が大きくなるらしい、ぐらいは知っていたが、まあそれだけだった。

私はこの映画について何か書こうとしているわけだが、正直何を言っていいのかよくわからない。じゃ書かなきゃいいじゃん、と思うけど、このもやもやした感じを書き留めておきたかったので、行きつく先のわからない駄文をしたためているのだ。

今ちょっと検索して読んだ範囲では、この映画に対する大絶賛レビューはあまり信用ならないと思った。本来映画は映画単体として評価されるべきだと思う。「天才松本が映画というメディアであれをやったからすごい」という文脈での評価は、まあ好きな人同士で話し合っていればいいんじゃないの、という感じだ。
なぜか終盤で受けている観客が少なからずいたが、この映画で笑いが止まらなかったという人は、たぶん反省すべき何かや治療すべき何かがあるような気がする。ごめんなさいね。

でも、全然面白くなかったかというとそんなことはなくて、ふだんのテレビでの芸とは違う何かがスクリーンの上で確かに展開されていたと思う。壮大な間の悪さとでも言おうか。
それはたとえば四代目(祖父)に対する大佐藤(松本)の介護の様子をいくつかの印象的なショットで見せた後の気まずい決着のつけ方であり、インタビュアーに「正義」「いのち」の定義を求められた自衛官らの誠実で凡庸で泥沼化していく応対であり、何の権威もない神主の存在であり、急速に劣化していく終盤の特撮場面(ワイヤ見せたりセットががくんとへぼくなったり)だったりする。

映画通の人はどう観たかわからないが、私は映画館であのような物をはじめて見せられて途方に暮れた。何というか、映画というのは根底に何かしらの基盤、最低限保証されている構成があるものではなかったのか。映画が映画であるべきDNAが、決定的に欠けている気がした。大昔に「ドレミファ娘の血は騒ぐ」を観たときに感じた「何だこれは」感にも似通っていたが、一見エンターテインメントを装っている分だけこちらの方がたちが悪いと思った。
それを面白がるというのは退嬰かもしれない。だが予定調和に背を向けた居心地の悪さの中に突き落とされるのは、体験としては貴重だったと思う。正直、二度体験したいとは思わないけど。

ところで真ん中分けの金髪にニットキャップをかぶった松本の姿は、坂本龍一のいでたちの劣化コピーのような気がしたのは私だけだろうか。それに何か意味があるのかはわからないが。

というわけで私は未だにこの映画が何なのか整理できていないが、見知らぬ街で酔った夜に1,000円の出資で観るにはいい映画だと思う。意味不明な体験とはそういうふうに出会うべきものなのだろう。
それにしても、カンヌで出会った人はさぞ困ったに違いない。通り魔みたいなものか。いや、ちょっと違うな。うまく位置づけられないが、人生にはそういう一日もあるものだ、ということで納得いただくしかないのではなかろうか。

追記:
最後のアレが国際情勢のパロディなの? 全然気づきませんでした。登場する(じゅう)がそれぞれ何かのメタファーであるとか言うのもまったく想定外。そういうことを読み取るセンスは皆無だね、私は。
それよりも「締めるの獣」(だっけ)の造形が気持ち悪くてよかった。卵を産み付けるという設定に、なぜか「ガメラ対大魔獣ジャイガー」を連想したりした。幼い日に初めてみた特撮(「ジャイガー」は年齢的に封切り時には見ていないが)で感じたであろう、生理的にすごく嫌な感覚をキモ懐かしく思い出したものだった。
もしかしたらそういう映像への憧憬が、この映画を読み解く鍵だったりするのかも。
posted by NA at 00:33| 東京 ☁| Comment(1) | TrackBack(1) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月10日

映画「ラブソングができるまで」

公式サイト⇒ラブソングができるまで
ひねりの効いた、ウェルメイドで楽しい映画だった。中年にさしかかったカップルのデートに最適。

冒頭に登場する、「ワム!」あたりをイメージしたと思われる架空のバンド「POP」のいかにもMTVですね風プロモビデオからして、軽いシーケンス音と安直なコント仕立ての演出で笑わせてくれる。80年代に一世を風靡したアイドルバンドのメンバーで現在はニューヨークのアパートでひとり暮らしをしながら高校同窓会や遊園地でステージを重ねる中年ミュージシャン(長いね)、をヒュー・グラントが好演。腰の動きで大活躍。そしてドリュー・バリモアの愛らしいこと。このキャスティングだけで入場料分の価値はある。大甘評価ですみません。
物語自体は安心して見ていられるラブストーリーの定番だが(どうせ喧嘩した後、ステージから客席の彼女にラブソングを歌うんだろう、と思っていたら案の定)、ありきたりの道を飽きさせない工夫はいろいろと凝らされている。観た後幸せになれること間違いなし。恋愛映画はこうでなくてはいかん。
そして登場する数々の楽曲の充実ぶり。これは絶対サウンドトラック買わなくては!という仕上がりだ。並みのミュージカルより遥かに楽しめること請け合い。

レビューは他のサイトでいっぱい出ているので、詳しい情報をご希望の方は適当にググってほしい(ヒューも映画内でドリューに「君の名をgoogleした」なんて言ってたな)。
ひとつだけどうしても言いたいのは、元バンド少年少女であれば、ふたりが共同でアイドルのために新しい曲を作るプロセスにきっと感じ入らずにはいられないだろう、ということ。デモトラックを作るツールがCubaseらしかったあたりが今風だが、ピアノを前に夜通し励む様子に「そうだよ、曲作りってこうだったよ、懐かしいな」と思った。
そうそう、プロモビデオの中でRoland D-50とYamaha DX7が登場していたっけ。あれも元キーボード奏者としてはたまんなかったですな。とりわけ後者の音は80年代サウンドの象徴として永遠に耳に残るだろう。

また音楽やりたいなあ、ときっと多くの人に思わせたであろうことがこの映画の最大の功績だと思う。公開からだいぶ時間が経ってはいるが、今からでもいいから楽器店は中年カップル対象に映画のチケットをプレゼントするキャンペーンを打って、映画館の出口で楽器の展示即売をやるといいと思った。懐に余裕のあるやつらならばきっと即金で買うぞ買うぞ。
ああ、私も久しぶりにシンセサイザーに触りたくなってしまったよ。
posted by NA at 09:20| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月01日

「それでもボクはやってない」讃

感動の大傑作、というのとは違うが、映画でここまで心を揺さぶられた経験はかつてない。長い沈黙から帰ってきた周防正行はとんでもない映画を作り上げた。今頃言っても遅すぎるけど、まさに必見の一本だ。⇒周防正行監督最新作『それでもボクはやってない』公式サイト

もともと電車内での痴漢冤罪事件に対する恐怖心は人一倍持っていたわけで、それが具現化したらどうなるかを見せてくれただけでもこの作品の意義は大きい。
もっともそれだけだったら単なる事件の再録で終わってしまうが、この映画の射程範囲はそれよりも遥かに遠くまで達している。ひとりの青年の身の上に起きた悲劇(と言っていいだろう)を通じてわが国の司法ひいては権力というものの本質を、声高に訴えることなくして観客がみずから自覚するよう促しているところに凄みがある。その意味でも極めて稀な映画だ。

主演の加瀬亮の堂に入ったフリーター演技は見事だった。特に序盤の要領を得ない喋りっぷりが○。そして久しぶりに見た鈴木蘭々も好印象。少女タレントからまっすぐ綺麗なお姉さんになっていた。加瀬亮の元恋人という微妙なポジションの役割だったが、再現ビデオで痴漢被害者役を務めるところはもう少し演技を見たかったような。あと若手弁護士を演じた瀬戸朝香も及第点。母役のもたいまさこ、フリーター友達の山本耕史もそれぞれいい役作りをしていた。
だが裁判官役の小日向文世ら、体制側の役を演じた俳優陣の好演が、この映画の成功に何よりも大きく寄与していたと思う。警察官や検事や駅員など、人間不在システムの現状を体現したいわば「悪役」の演技が、私たちの国のあまりにも情けない現状を浮き彫りにしていた。本当、演じられている役に本気で腹が立つぐらい皆うまかった。

ちなみに役所広司は、まあいつもの感じ。別に彼でなくてもできた役だろう。常連の竹中直人は、この映画に限っては起用しなくてよかったのでは、と思えるほど浮いていた。ふたりとも好きな俳優なんだけど。

振り返って思うのは、現代的なテーマとは裏腹に映画の骨格自体は古典的な悲劇の定跡をきっちり踏んでいるということだ。
司法体制の欠陥に対する告発というテーマの志の高さも大いに評価すべきだが、それによってドラマ性が損なわれているということはまったくない。突然の事件によって日常から非日常へと突き落とされ、悲哀と希望、暗雲、光明の中で運命に翻弄される主人公の姿は時代や場所にかかわらず普遍的な共感を呼び起こすだろう。その意味では、やはり感動の傑作と言っていいのかもしれない。
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2007年02月28日

映画「さくらん」を観た

空いた時間にあまり期待せずに見に行った(たまたま空いた時間にやってたのがこれだった)のだが、私はこの映画が想定している観客ではなかったらしい。
前の席のカップルが、冒頭の女湯で乳房(ここはぜひニューボーと発音したい)が乱舞する場面でなにやらばつの悪い思いをしていたようで愉快ではあった。

月並みだけど女性監督の描くエロスは男性(少なくとも私)の感じるそれとはずいぶん違う。たとえば禿(かむろ)が襖越しに花魁の情交を覗き、行為の最中の花魁が艶然と微笑む場面の繰り返しなどは、撮りようによってはえげつなくも陰惨にもなるところだが、「大人の世界を垣間見る」という以上でも以下でもない扱いだったように思う。
前評判では画面の独特の色彩と椎名林檎の音楽の人気が高かったが、私には即物的すぎてトゥーマッチでした。じじい客に手ほどきを受けるところでタンゴかよ!みたいな。仕舞いにはそっちに興味が集中しなくなり、「土屋アンナって案外たぬ顔だなあ」とか余計な方向に関心が行ってしまったりしていた。
限定された舞台でメリハリのある物語を紡ぐのは結構大変なんだな、というのが当座の感想。

あとはあれだ、遊郭の若頭を演じた安藤政信。耐える男。グレコローマンかたぎ改め鉤屋のそねさんは観たのだろうか。といっても別に女郎たちにいたぶられたりしていたわけではなかったんですが。
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2007年02月19日

ピンクの象

初期のディズニーアニメで、お子様向けのようでいて実は幻覚トラウマ映画としても名高い「ダンボ」をDVDで観る。大昔にアニメの画像を流用したらしい絵本で読んだ記憶はあったが、実物に接したのは多分初めてだ。
最初から幻想場面を目当てに観る、という姿勢はこの名作アニメへの接し方としてはどんなものかと思ったが、Dumbo - Wikipediaにも
The sequence essentially breaks all of the "rules" that the Disney animators had lived by for creating realistic animation over the previous decade: pink, polka-dot, and plaid elephants dance, sing, and morph into a number of various objects.
とあることだし、とかなり期待して臨み、そして期待は裏切られなかった。

発泡酒(シャンパン?)を誤って飲んでしまったダンボらが体験する、ピンクの象が乱舞する問題の夢の場面はretroCRUSH: 100 Scariest Movie Momentsでもその一部を垣間見ることができる(YouTubeにならいかにもありそうだな、と思って検索したが探し方が悪かったのか見つからなかった)。
で、これはやっぱり怖い。すげえ怖い。ほとんど象には見えない魔物のようなキャラクターが極彩色の画面の中でぶんぶん踊り狂い自在に変形するのだ。世の子供はこういうのを見て楽しいのだろうか、と心底不思議に思った。やつらは酒も薬も知らないから単純に喜んでいられるのかもしれないが。

何分1941年の映画(真珠湾攻撃の少し前に封切られたらしい)なので、現在の視点で評価することは適当でないのだろうが、サーカスの道化役になるのは罰を受けることなのか、とか、労働歌を歌いながらテント設営作業をする労務者の姿かたちが真っ黒で表情も描かれないのはどういうことなのか、とかPC的にツッコミたい所は多々ある。冒頭のコウノトリ(急降下爆撃さながら)とラストの新聞画像(爆撃機の編隊のよう)で出てくる飛行シーンには戦争の直接的な影響も感じる。だいたい「ダンボ」という命名からして、日本でこそ可愛げに響くものの和訳したら「まぬけの介」というニュアンスではないのか。

だが、ピンク象の場面も含めてアニメータが楽しんで(時には悪乗りして)作っている絵はとても面白い。サーカスでのビル火災コントの道化たちのボケの数々(「風雲!たけし城」を彷彿させる)は、かわいそうなダンボをいじめる場面であるにもかかわらず笑えてしまう。
そして名作「Baby Mine」だ。この有名な子守唄の場面には素直に感動した。YouTubeでもなぜかこっちの動画は各国語版で揃っている。檻の隙間から鼻を伸ばしてわが子を愛しむ母ジャンボとあやされて無邪気に喜ぶ幼いダンボの姿には、時代を超えて訴えかけるものがある。本当、もらい泣きしそうになった。
ミュージカルで子守唄の場面が多いのは、ドラマから一転して歌うことへの必然性が問われずにすむからだろう。そういえば日本の劇映画には記憶に残るララバイがないなあ、と何となく思ったりして。
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2007年02月11日

「世界最速のインディアン」を観た

仕事の合間に空いた時間に期待せずにふらっと入った映画館でいい映画に巡りあえたときのラッキー感は何物にも代えがたい。この映画がまさしくそれだった。
近くでやっていた「武士の一分」も知り合いの間ではそこそこ評判はよかったので、どっちに行こうか迷ったが、多分こちらで正解だっただろう。

オフィシャルサイトのやたら重そうなフラッシュを観てからだったら、逆に行かなかったかもしれない。あらすじにしてしまうと実に単純極まりないストーリーだからだ。実話をベースにした物語だと知らないで見てよかった、とも思う。

ニュージーランドの小都市で年金生活を送る60過ぎの男やもめが、二輪車のスピード記録を打ち立てるべく自分で改造を加えたバイク「インディアン」と共にアメリカへ旅立ち――とまとめると、それだけで「ああ、そういう話ね。見なくてもわかるわかる」と思われてしまいそうな気がする。きっとハートウォーミングなロードムービーなんでしょ、てな感じ。
確かにそういう話ではあるのだが、この映画の魅力は上の乱暴なダイジェストからはまったく伝わってこない。緩そうでいて丁寧に作り込まれた細部が実にいい。

映画を褒めるのに「映像が魅力的だ」と言うとこいつは馬鹿かと思われかねないが、まあ馬鹿なんですが、現実離れした親父のにわかには信じがたい言動(隣家のキッチンの包丁を借りてゴムタイヤを削るとか)が描かれているのに十分なリアリティを感じられるのは、アンソニー・ホプキンスの好演もあるがやはり個々の場面作りのうまさと考証の確かさの賜物だろう。

主人公バートは米国に入ってタクシードライバー、女装したホテルのフロント係、中古車ディーラーのメキシカン(かな)、バイクと紛らわしいがインディアン(当時はアメリカ先住民とは言っていなかったろう)の一家、荒地で夫の墓を守って暮らす老未亡人など、様々なマイノリティとの出会いを通じて目的へと近づく。一歩間違えばどうしようもない教訓臭を漂わせるストーリーだが、節度を保った演出はヒリヒリした感触を常に感じさせ、リアルさを決して踏み外さない。偏見と寛容が入り交じった時代を背景に、ニュージーランドとあまりに違う米国の文化に戸惑いつつも傍若無人すれすれの人懐こさで次々起こるトラブルを乗り越えていくバートの姿も、それゆえ決して荒唐無稽には映らない。
映画的小道具の代表とも言えるタバコが、60年代前半の雰囲気を実にうまく醸し出している。非喫煙者である私から見ても、街道脇のバーの紫煙に霞んだ空気がどこか懐かしく思えるほどだ。知らない時代の知らない土地での出来事なのに。

とかなんとか。これを読んでいる方はもう手遅れだけど、ブログの稚拙な感想文など読む前に、どこかで偶然見かけた映画館に出来心で入った方が遥かに楽しめる映画だと思う。こんな駄文のことは5秒で忘れて、アンソニー・ホプキンスの笑顔のポスターにふらふらと引き寄せられて映画的愉楽に浸るのがいいと思います。
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2007年01月25日

都響定期にまた行ってみた

というわけで今度は時間はないけど無理やりサントリーホールへと突入して東京都交響楽団第639回定期を鑑賞。曲目から、バルトークの民謡研究が日本の戦後音楽に及ぼした影響がテーマか、と思ったが、前半の邦人作品ではあまりそれを意識する機会はなかった。

最初の間宮芳生「合唱のためのコンポジション第4番 子供の領分」は児童合唱(指揮者の両側、ステージ上最前列に並んでいた)による懐かしい東京の子供のはやし言葉をオケが後ろから包み込む構成だ。冒頭の「でぶでぶ百貫でぶ」で客席から失笑が漏れる。だが威勢のいいわらべうたの洪水から一転、夕方の公園を彷彿させる優しい響きの中で歌われる2楽章「なつかしいうた その1」に情感を不意打ちされた。もう少しで涙が零れるところだった。
夕暮れの中わらべうたを歌いながら家路を急ぐ姿が、街から消えて久しい。子供もわらべうたも、それを見守る大人の影も。幾重にも失われた風景がステージで束の間再現されたことが涙腺を刺激したのだろう。
わらべうたの引用と言っても、三善晃の「響紋」のような厳しさや難解さはない。路地から子供が駆け出るようにかつて耳にしたあの歌この歌が様々な音の隙間からひょっこり飛び出してくるのを楽しめばよい、そういう種類の音楽。だが、単なる童謡のオケ伴奏編曲からこの曲が遥かに隔たっているのは、失われた情景を掬い上げる作曲者――招待席からステージに呼ばれ盛大な拍手を浴びていた――のまさしく構成(コンポジション)のテクニックゆえだろう。児童合唱のひたむきな歌唱に管弦楽もよく応え、この日一番の好演だった。殊更に目新しい音響を追いかけた音楽ではないが、20世紀音楽のひとつのあり方として後世に残り得る作品だと思う。

対して、ふたつめの小倉朗「管弦楽のための舞踊組曲」は色褪せた前衛という印象が強かった。使い古されたイディオム。台風襲来を報じるモノクロのニュース映画の背景にでも流れていたような感じというか。別に見たことがあるわけじゃありませんが。
好意的に見れば、ゲンダイオンガクが我々の生活で知らず知らずのうちに身近なものになっていることの証左と捉えることも可能だろう。でも正直、もう少し違う曲を聴きたかったなあ。ちなみにこの演奏会を含む「日本管弦楽の名曲とその源流」シリーズは別宮貞雄のプロデュース。

後半は久々の生バルトーク。だが、それぞれ熱演ではあったが少しずつ不満が残った。
室内楽からの編曲である「2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲」は、原曲に比べて実演を聴ける機会は多くない。この日の演奏を聴いていて、バルトークのオーケストレーション自体にも問題があったからかもしれない、と思った。
刻み方が次々変わる8分の9拍子の第1楽章アレグロは4人の奏者でもアンサンブルを揃えるのは大変だろうが、大編成のオケがきっちり合わせるのはおよそ至難の技だろう。その一方でソロ奏者はいずれも大音量を叩き出し、グランカッサの一発で弦の微妙な縁取りなど消し飛び、一生懸命ピチカートで伴奏しても轟々たるピアノとティンパニの応酬の前には霞んでしまう。4人の独奏者のフォルテッシモに太刀打ちできるだけの音を鳴らし、しかも機敏に高速変拍子をこなすオケとなるとそうそう多くはないだろう。
バルトークの3曲あるピアノ協奏曲ではいずれも木管が印象的な役割を振られているが、この曲も例外ではなくたまにメロディに被って出てくる木管のフレーズばかりが耳についた。座席が1階奥で左寄りだったのがバランスが悪かった原因なのだろうか。終楽章の金管の鮮やかなカノンはもう少し粒が揃っていれば、という惜しい出来だった。
とはいえ、舞台の前面にグランドピアノ2台と打楽器群が並び、それをオーケストラが取り巻く景色というのはなかなかの壮観ではあった。ラベック姉妹以来この曲の室内楽版を女性同士で弾くことは何度か見かけたが、田部京子、小川典子のペアもよく呼吸があっていたと思う(途中セカンドの小川さんが一瞬落ちかかったような。気のせいかな?)。忙しげに様々な打楽器をプレイした団内ソリストの2人のパーカッションもお見事。演奏中にシンバルの受け渡しをするところがあり、落とさないかはらはらして見つめてしまった。
ともあれ、一バルトークファンとしてはこの曲にチャレンジしてくれたことだけでも都響には感謝しなくてはいけない。演奏も決して悪くはなかった。次は「コントラスト」を誰か二重協奏曲に編曲してやってくれませんか。

ラストの「舞踊組曲」は前回実演を聴いたのが4年前、イヴァン・フィッシャー指揮のボストン響だった。比べては申し訳ないが、バルトーク特有の微妙なアゴーギクに馴染まないのか、俊敏な反応が際立ったボストン響の自家薬籠中の演奏に対してわが都響はどうしても入りがもったりする印象があった。アインザッツのたびに「よっこらしょ」とフレーズが立ち上がる感じ、とでも言おうか。高関健の指揮は曲の要所を捉えたもので、演出の意図がよく伝わってくるディレクションだったが、客演の限界で出音の瞬間を完全に掌握するには至らなかったのだろうか。合唱、ピアノと打楽器というそれぞれ応答性の異なるアンサンブルが一夜に登場したことの影響もあったかもしれない。

しかしそういった小さな瑕はさておき、「舞踊組曲」はいつ聴いてもすばらしい。冒頭楽章の微小な素材が拡大していく様子は後年の傑作群を予告しているし、リトゥルネロ主題の素朴な美しさは晩年の「管弦楽のための協奏曲」第4楽章と直接繋がっている。そういえばどっちもキーはGだな。
都響はテュッティでは実に息の合ったまろやかなアンサンブルを聴かせてくれた。棘が少ない音を出すオケなのだな、と思った。そしてこの日の演奏の最大の収穫は終楽章のビオラソロ。短いが印象的なフレーズを、実に味わいのあるいい音色で鳴らしていた。うーん、いいねえ。

短い間に立て続けに同一オケの定期を聴いたのは久しぶりだが、いずれもそれなりに面白い演奏会だった。今年はもっとオケを聴きに行こう。
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2007年01月24日

ドラマ斯くあるべし

家に帰ってテレビをつけたらハケンの品格の時間だった。
スーパーの食品売り場らしきところで、後ろに「マグロ」と書いたノボリだか何だかが見え、主婦役エキストラが大量に群がっている。マグロの解体ショーが手違いでできなくなったらしい。
大泉洋が平蜘蛛になって謝っている。

この回のストーリーは全然知らなかった。というかこのドラマの評判は聞きかじっていたが見たのは初めてだ。でも、誰がマグロを解体して急場を救うのか30秒以内にわかった。ここまでミエミエの筋というのもすごい、と本当に素直に感心した。
テレビのドラマはわかりやすいのが一番だと思った。
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2007年01月20日

都響定期に行ってみた

夕方にすぽっと暇ができたので、おれカネゴンさん経由で拝見したralatalkさんのブログで紹介されていた、東京都交響楽団の定期演奏会へ行ってみた。
松村禎三という作曲家については、八村義夫の著作「ラ・フォリア」で読んだりして以前から気になっていた。噂のピアノ協奏曲第1番がいかなる音楽なのか、興味津々で上野へと赴く。音響のいい5階席にしようかと思ったが、ピアノ独奏の手元が見たくて3階左側の当日券を購入する。

オープニングの松村禎三「管弦楽のための前奏曲」がいきなりこゆい曲だった。オーボエの先導に続いてピッコロ6本(うち4本はフルート持ち替え)がほひららふひららと出てきたときは高調波がきんきん干渉するのを覚悟したが、ピッコロの割には案外低い音域で密集音形を奏でていたようでそういうことにはならず、うねりからまる旋律が独特の存在感を醸し出していた。でもサントリーホールだったらえらいことになっていたかもなあ。
音楽は日本的な枯淡とは無縁にひたすら粘着して粘着して膨張し、壮大なクライマックスを形成する。「前奏曲」というタイトルの曲が何かの前座であった試しはあまりないような気がするのだが(すみません素人です)、この曲もメインディッシュ級にお腹がいっぱいになるタイプだった。

続いて野平一郎登場。注目のピアノ協奏曲第1番は、独奏ピアノに恐ろしいほどの運動量と忍耐を強いるとんでもない怪作だった。名人芸をひけらかすようなサービスフレーズは全然なく、単一楽章30分余りをひたすらオスティナートでトレモロで和音連打で縁の下の力持ちで情報を処理しまくり、その上をオケの各パートが協奏的に通過したり湧き上がってきたり寝込みをいきなり襲ったり、という風情である。説明になってない。しかし確かにこんな曲聴いたことないな、という不思議な感動があった。
先の前奏曲同様、響きの残るホールだったら音響の壮絶な渦がぐわんぐわん鳴り渡っていたかもしれないが、東京文化会館はそのへんあくまでも見通しよく分離よく提示するホールなので、アマルガムにはならず各パートの分業ぶりがより際立って聞こえたということもあるだろう。
野平さんは以前バルトークのピアノソナタの実演を聴いたことがあり、思えばこれもオスティナートで連打連打な作品だったっけなあ。大編成管弦楽を底から動かすダイナモとしての熱演に大いに拍手を送る。

後半のミヨーとオネゲルは、これまた変な曲だった。ケンタッキーの民謡をもとに構成したミヨーの作品は、能天気きわまるぶんちゃか音楽。フランス人が米国に注ぐまなざしというのは一筋縄ではいかないようだ。
オネゲルの「交響曲第5番」は第1楽章冒頭の重厚なテュッティが印象的。でも構成原理はドイツ系のシンフォニストとはまるで違うようで(3楽章だし)、「交響曲」というのもいろいろであるなあ、と改めて思う。ティンパニ奏者が各楽章の最後で一発ずつレの音を叩くだけのために舞台袖で控えているというのもなかなかである。これだけの出番で間違える人もいるのかも。俺だったらやりかねない。

都響は24日にはバルトークを中心としたプログラムを組んでいる。こっちも行きたくなってきた。暇ができるといいんだけど。
posted by NA at 23:41| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月07日

「あいのて」が妙でよろしい

かねがねNHK教育はあやしいあやしいと思ってきた(Not Available: ピタゴラスイッチ動画集とかNot Available: 日本人のための日本語講座とか)のだが、土曜日の朝にザッピングしていてまた変な番組を見つけた。幼児番組「あいのて」である。紛らわしいが「あいのり」とは全然違う。

詳しくは番組を見てもらうのが一番だが、女の子二人の部屋に大道芸人風のむさい男三人がやってきて音楽パフォーマンスを繰り広げるという設定自体が何だか変だ。この日は風船を使ってあまり美しいとはいえない音をぶうぶう鳴らしていた。むむむ。
極めつけは「ワニバレエ」という曲と踊り。こんな面妖なものが見逃されているわけがないと思ったら、案の定YouTubeに登録されていた。


妹役の森迫永依という子役はどこかで見たことがあると思ったらかつてフジテレビで実写版「ちびまる子ちゃん」のまる子役をやっていた子だった。姉さん役の仲村瑠璃亜が16歳とは思えないぐらい老けて見えて気の毒。まあそんなことはどうでもよろしい。
出てくる男たちのプロフィールはNPO法人 芸術家と子どもたちに出ていた。音楽の道というのもいろいろあるものだ。

いにしえの「カリキュラマシーン」のように伝説の子供番組となるにはいろいろ大変そうだけど(枠が短すぎるし)、見た子供の将来が楽しみではある、そんな番組だった。
NHKは視聴率ばかり気にして年々墓穴をより深く掘り続ける紅白歌合戦に馬鹿みたいな予算を使わないで、こういう小さいけど妙な味わいのある番組に力を注いでくれればいいのになあ。
posted by NA at 20:15| 東京 🌀| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月29日

「ちりんちりん」の進化

周知の通りM-1グランプリ2006チュートリアルの優勝で幕を閉じた。なんて高視聴率番組の話を数日遅れで書くこと自体もはや何なんだかだけど、大舞台で今年一番面白いコントを見せてくれた二人にはただただ感服するほかない。


今回のネタ「冷蔵庫」「ちりんちりん」はいずれも男女関係をモノに置き換えた妄想話だが、このシチュエーションなら他にもいろいろなコントが成立しそうだ(既にあるのかも)。誰にでも心当たりのある痛い部分をくすぐるのが実にうまいと思った。

例によってYouTubeでは数多くのコントが登録されているのだが、「ちりんちりん」の12/4に登録されたバージョン(上)とM-1グランプリのバージョン(下)を見比べると、何が付け加えられ何が削ぎ落とされたのか、内容の異動がはっきりわかって面白い。漫才コンビはこうやってネタを洗練させていく、という過程を示す好例になっている。

M-1バージョンは演者がノッていて客席が十分暖まっていたこともあるのだろうが、ギャグが間断なく炸裂して観客のレスポンスもよく見事な構成になっている。徳井さんの遍歴部分が大幅に充実し、荒唐無稽の度を一層増しているのは明らかだ。
ラストもスピードを落とさずオチらしいオチをつけずに勢いだけで終わらせるという、このコンビらしい解決になっていて、こちらの方がはるかにスマートである。

前者のビデオがいつ収録されたTV番組かはわからないが、ひとつの芸の履歴、進化していくプロセスをこのような形で簡単に確認できるようになったことには正直驚いている。便利な世の中になったもんだよハア、とじじくさいため息も出ようというものだ。
これからの年寄りは「昔見た志ん生は、そりゃすごかったもんだよお前さん」みたいな自慢話をする特権を剥奪されるのだろう。んなもの別に欲しくないけど。
てな今となっては当たり前なことを改めて感じた2006年の暮れでした。
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