2009年01月01日

WALL·Eに感動し損なう

ピーター・ゲイブリエルの懐かしい声が響くエンディングテーマを聞きながら、「非常によくできた映画だが、どうしてもやもやした印象が残るのだろう」と不思議に思った。良作に求められる条件はほとんどクリアしているのに。完成度の高さが感動を保証するわけではない、というのはままあることだが。

筋については公式サイトでも詳細に明かされているので別にネタバレを気にしなくてもいいのだろう。人間がいなくなって七百年後の地球が舞台で、無人の都市を独りで(単体で、と言うべきか)ひたすら掃除していたロボットの恋物語である。
この主人公(なぜか男性キャラ)の型式WALL·Eは、与えられた命令に従ってひたすらゴミを集めて四角いボディーの中で押し固めてブロックにして排出するというタスクを来る日も来る日も繰り返している。地上で他に動くものといえば、どうやらゴキブリとバッタのあいのこのような妙な虫(結構タフ)一匹しかいない模様。しかしこのWALL·E、ロボットのくせにゴミの中からがらくたを見つけて収集する傍らミュージカル映画のビデオを見て恋に憧れるというフトドキ者なのだが、果たしてその望みが叶う日が来るのか――というのが物語の発端だ。
ある日天空から降りてきたロケットに乗っていた美ロボットEVEの正体とその目的とは。人類はなぜ地球から消えたのか。WALL·Eは愛しい誰かと手を繋げるのか。謎を孕んで物語はやがて宇宙空間へと広がる。うんぬんかんぬん。

気のない要約で申し訳ないが、実際のストーリーはこの百倍以上は面白いのでその点はご安心を。入場料、上映時間に見合う以上の価値は十分あると思う。私は観客としてはかなりひねくれた部類に属するはずだ。以下、ないものねだりを承知で感想を。

Pixar映画を全部見たわけではないが、人間以外のものが主人公になっていることが多いことに改めて気づく。せっかくアニメなんだから人間が動くだけじゃつまんないじゃん、というごく当然の理由によるものだろうが、我々日本人が二次元のキャラクターを当たり前に人とみなして萌えるのとはまた別の選好が働いているのだろう。
もちろんそれらのPixarキャラクターは擬人化されているので人間のように話したり冒険したり恋愛したりするのだが、それはあくまでも我々の日常とは遮断された異世界での物語なのだ。

WALL·EがコレクションしているルービックキューブやAtariのビデオゲーム、ライターなどなどといったガジェットは人間文明の名残だが、彼はそれを懐かしく思って集めているわけではなさそうだ。そもそもWALL·Eは人間がどうなっていようが全然意に介していない様子だ。映画ではもちろん省略されているが、七百年間の初期には人間の屍体も少なからずゴミとして処分したのではなかろうか。


よく似た存在がどこかにいたな、と考えてすぐ思い出した。「天空の城ラピュタ」のロボット兵だ。
見捨てられた空中庭園であてもなく草木の世話をする庭師ロボットとWALL·Eは、しかし似ているようでかなり違う。あのロボット兵はロボットであることに徹していた(というのも変だが)。その機械ならではの定めが、むしろ見ている我々には切ない。自ら運命を切り開くWALL·Eとは大きく異なる。

当たり前のことだが、「WALL·E」で描かれているのは私たちの物語ではない。映画はハッピーエンドを迎えるが、その喜びを分かち合える位置に私たちはいない。残念なことに。

タグ:WALL·E pixar
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2008年12月09日

「ハッピーフライト」で不覚にも感動する


不覚にも、と書いたのは「ハッピーフライト」はきっとコメディであろうと想像して映画館に観に行ったからであって、でまあ六割ぐらいはシチュエーションコメディだったのだが(当社比)、だからと言って残りの成分の大半であるお仕事ムービーor航空機薀蓄ムービー部分に感動したのではない。いや、正確にいえば感動の素がそこに含まれていないわけでもないのだが。

回りくどい導入で申し訳ない。この大ヒット映画に今更何かコメントすることなどあろうはずもない。脚本がよくできているとか、旅客機の運航に携わる多くの群像を手際よく描いているとか、多彩なキャラクターの魅力的な点を短い時間の中でそれぞれうまく生かしている(同じく群像劇だった「有頂天ホテル」には少しく欠けていた部分だ)とか、ハリウッド製パニックムービーにありがちな驚天動地の大事件(飛行中の旅客機で毒蛇が這い出してくるなど)が起こらない替わりにいかにもありそうなシチュエーションの中でサスペンスを存分に盛り上げるリアルさとか、まあ褒め出したらきりがないぐらいだ。
並み居る女優陣の中で、今年は内田けんじ「アフタースクール」でも好演していた田畑智子がとりわけキュートだった。というか惚れた。嫁に来ないか。あと管制官役とかが結構ぜいたくな布陣だったのが印象的だった。働く女は魅力的だ。皆さん愛してるぜ。
一方、準主演扱いの綾瀬はるか起用にはおそらく会社の事情もあったのだろう。まあ全体の足を引っ張ってなかったのでよしとすべきか。そもそも「ドジっ子CA」というキャラクターを深刻にならず笑えるようにうまく演じるのはむつかしいと思った。
男優陣はもう適材適所で言うことなし。主役のパイロットコンビの田辺誠一と時任三郎だけでなく、地上組の岸辺一徳にしても田山涼成にしても、これ一作で役が終わっちゃうのがもったいないくらいだ。別の映画の脇役でいいのでちらっと出てきてほしい。

で話は最初に戻るけど、そういう筋立てや演出、配役、丁寧なディーテールの描写などの素晴らしさもさることながら、何よりも私の琴線をストラミングしまくったのは、クライマックスでCAらが一斉に叫ぶシーンだ。詳しくは書かないが、もちろんこれは彼女らの仕事の中で起きることで、実際のCAらも同様の事態に備えてそのような練習をしているのだろう。その意味では決して不自然な場面ではない。だが、たとえ物語から切り離されたとしても、このシーンは自立して見る者の心を揺り動かす力を持っていると思う。

「猫のゆりかご」だっただろうか。カート・ヴォネガット・ジュニアの長篇小説の枝葉のエピソードに、女性の歌声を賛美するくだりがあったのを思い出した。女たちは誰でも美しい声で歌うことができる、というような表現(正確でないと思う)があり、物語の本筋と違うところで印象に残っていた。
人々が声を揃えて何かを言うということは、実際には稀だ。原始的な振る舞いと言ってもいいかもしれない。おそらくは現場取材の中でそれを見つけて映画の山場に組み入れた矢口史靖監督の慧眼は実に素晴らしい。ひとつのフライトの安全は様々な役割の人々の網の目によって支えられているという、字にしたらダサさ極まるメッセージがこの叫びの場面によって見事に完結するのだ。本当にいいものを見せてもらいました。

フランク・シナトラが主題歌に採用されたことが何やら日本映画初だとかで喧伝されているが、映画と関係ない若手タレントの無関係な歌を執拗に聞かされるより遥かにましではある。エンディングに流れるだけだし、一応フライトの歌でもある。
だがそれより注目すべきはミッキー吉野によるサウンドトラックだろう。ドラマを妨げずに趣味よく場面を盛り上げる楽曲群はサントラのお手本と言っていい。ミッキー吉野、健在である。
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2008年11月30日

映画は観るより作る方が楽しい(当然か)

「邦題が本当に酷すぎるけど本当に本当にいい映画なんだから」という同僚女子の再三再四のおすすめというか懇願に折れて、ようやく銀座シネパトスまで観に行きました「僕らのミライへ逆回転」。公開から二ヶ月近く経って今更馬鹿野郎合唱に加わるのも気が引けるが、まったく邦題を決めた配給会社の担当者には高圧電流を流すべきだねこれは。語呂の悪さもさることながら、ぜんぜん「ミライ」でも「逆回転」でもないじゃん。
そう、確かにもっとうまいタイトルをつけてもっと多くの人に観られるべき映画だった。もったいない。

潰れそうなビデオレンタル店の留守を任された店員らが、拠所ない事情により手作りで名作映画をリメイクする羽目になるという強引なストーリーだが、それこそ「まあ映画だしいいよね」と許せてしまう。現実ではありえない魅力的なでたらめがなくちゃ映画じゃない。
映画全体の額縁となっている一世を風靡した伝説のジャズメン、ファッツ・ウォーラーへのなじみが薄いのが玉に瑕だが、まあ舞台になっているニュージャージー州自体日本で言えば埼玉県みたいな所なので(と思う)、超一流スターよりはその方がリアルで似つかわしいのかもしれない。

たまたま先に観た「トロピック・サンダー」とはジャック・ブラックつながりになってしまったが、それだけでなく「映画を作ることについての映画」ということでも共通しているな、と面白く思った。あとなぜか作中で「ドライビング Miss デイジー」が言及される点も。まあ誰もが知っている名作だから名前が出てきても何の不思議もないのかもしれないが。

大容量メディアとネットの普及で過去の名作へのアクセスが極めて容易になった今、ハリウッドの映画人たちも「映画って何だろう? 今映画を作る意義とは何だろう?」と結構悩んでいるのだろうか。
それでもアメリカではまだヒット映画の場面場面が共通理解になり得ているからこの映画が成り立つのだろう。残念ながら同じことは今の日本映画では不可能だ。「あの映画のあの場面」で通じる景色をいろいろ持ち合わせているアメリカ文化を少し羨ましく思った。

追記:
監督はフランス人でミュージックビデオを多く手がけてきた人だとか。根っからのハリウッド育ちではないのだな。となると少々事情は違うのかな。もしかしたら旧大陸から見た新大陸のポップカルチャーと地域コミュニティに対する憧憬も反映されているのかもしれない。複雑に美化された映画賛歌というか。
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2008年11月27日

「トロピック・サンダー」が不入りみたいだ

先週末公開された「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」が自宅に近いシネコンでかかっていたので、たまたま仕事が早く終わったのを機に帰りがけに寄ってみて驚いた。広い館内俺ひとりで貸切状態だったからだ。え、この映画そんなに人気ないの?とうろたえる。一瞬ほかの映画に変えようかとさえ思った。
気を取り直して観た(開き直って前の椅子に脚を投げ出していたのは内緒だ)ところそこそこ面白かったが、日本でのヒットは期待できないな、というのが正直な感想。客が入っていないのは民度の低いうちの県だけかもしれませんが。

お気楽なギャグ映画を期待して行くと、冒頭の戦闘シーンの濃ゆ目な演出で引いてしまうかもしれない。そして「地獄の黙示録」やら「プラトーン」やら「プライベート・ライアン」やらの引用とかでニヤニヤできないと(「ホット・ファズ」の時にも感じたが)この映画を十分楽しんだとは言えないのだろう。豪華スターのカメオ出演を一瞥しただけで楽しめるシネマディクトではない半端なファンとしては悔しい限りだ。
先行する多くの映画の存在を前提とした映画ならではの面白さ、というものは確かにあるが、そういう映画ばかりになっちゃうのも何だかなあ、と不真面目な観客としては思う。

そもそも、この映画をB級ギャグ映画であるかのような副題と宣伝で配給すること自体間違っているのではなかろうか。
笑いどころは多いものの、戦闘シーンの気合の入り方などからして手放しでゲラゲラ笑えるような映画ではない、と思う。ハリウッド流の映画制作に対する皮肉や映画俳優という人種の滑稽さを誇張した自虐的な笑い(ベン・スティラーの自作自演だからこそ成立しているのかも)、偽予告編の内容が本編にリンクする凝った構成などなど、総じて見巧者を選ぶ映画であるように思えてならない。黒人に扮したロバート・ダウニー・Jrの黒人以上に黒人らしい(ようだ)演技や、映画スターの養子好きを揶揄したようなエピソードなど、果たしてどう笑っていいものやら途方に暮れる場面は少なくない。

とはいえ、もうあちこちでネタバラしされすぎている某有名俳優の怪演(と下品な踊り)はやはり一見の価値はあろう。「Literally fuck your own face! 」「How about I send you a hobo's dick cheese?」などなど、ふだんの彼が喋っているとは到底思えない素敵な台詞満載。ここまで書くこと自体ルール違反だが、今更だけどこれから観に行かれる方はぜひ予備知識抜きで度肝を抜かれることをおすすめしたい。

しかしソ連やらアフガニスタンやらを気軽に悪党にできていた時代とは違って、現代の良心的映画は敵役の設定にえらく気を遣っているのだなあ、と感心もした。相手は誰が見ても反社会的行動をしている連中なのだが、アメリカ映画をこよなく愛している設定を加えたり、ちょいと泣かせるシーンをはさんだりで100%の悪にはなっていない。また、劇中で明確な死者(グロ注意)は実はひとりしか出ないのだが、この死因にしても現在の関係者には迷惑がかからないように細かく配慮しているのがわかる。まあベトナム戦争が舞台の映画を撮るという設定自体、既にいろいろ綱渡りを余儀なくされているのだろうけど。

というわけで、ぜひ観るべきとまでは言わないけど観ても悪くない映画だと思うので、興味のある人は早々に打ち切りになる前に行った方がよいのではないか、と個人的には思ったりした。
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2008年08月31日

ポニョを観て夏が終わった


だいぶ世間から遅れて行って来ました「崖の上のポニョ」。まあ今更ネタバレを気にしなくてもいいほど多くの人が見ているようなので気楽に書くが、タイトルは何のひねりもなくて、「さかなの子」であるポニョは最初から地上を目指して浮上してきて思惑どおり「さかな」でなくなってしまうという、ある意味単純な話ではあった。海と地上の両立を図ったら「もののけ姫」になってしまうが、そういうストーリーではなかったのだな。

宮崎アニメは重力からの離脱と変身譚が両輪となって物語を進めるのが常だが(と手前勝手に決めているが)、前者は今回月をコントロールするところにまで至っているからスケールが大きい。というかわけわからん。あのめちゃくちゃな潮汐も重力を狂わせまくった結果なのだろう。説明不要の潔さは監督の老人力昂進の結果であろうか。そういう絵を思いついちゃったから仕方ないんで、いちいち解説はしておれん、理屈付けは見る方が自由にすればよい、という感じ。
動物と人を行き来する変身は「紅の豚」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」などでもおなじみだが、魚というのは新機軸と言えないこともないかもしれない。実際よりグロテスクではあった。

「ハウルの動く城」も何かと辻褄の合わない映画ではあったが、「ポニョ」はその路線(というか)をさらにおしすすめた感が強い。アニメならではの表現の可能性(物理的制約を排除したキャラクターの動き、外観属性の自在な変更etc.)を突き詰めた結果こうなりました、とまったく悪びれるところがない。額縁として申し訳程度のラブストーリー(?)が採用されたが、別に筋書きは何だってよかったのだろう(復讐譚ではまずかったかもしれないが)。だからプロットの瑕瑾、たとえば嵐の日に子供を家に置き去りにして車を出す母親の非常識さを批判するのはまったくのお門違いだ。童話のような約束事で突然迎えるエンディングも、考えてみれば「千と千尋」と同じ処理の仕方と言える。そこにこだわりはないのだろう。

画が動くということの単純にして深い喜びに戯れる宮崎駿がスクリーンの背後に映し出されていた。この素っ頓狂な爺さんが数年に一度とんでもないイメージを見せてくれることを、同時代に生きる我々は感謝し楽しみにしていればいいのだ、と思う。
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2008年08月21日

深く重い「ダークナイト」

「インクレディブル・ハルク」に続くアメコミ映画ということで躊躇したものの、結局観てしまった「ダークナイト」。世評通り確かにすごい作品だった。凄惨な銀行強盗の場面から始まる152分間の長尺を始終緊張して見守り、終わったときには深く溜息を吐いた。三本分ぐらい観たような気がした。

いろいろなところで賞賛されているとおり、若くしてこれが遺作となってしまったヒース・レジャー扮するところの悪役「ジョーカー」の存在感はとにかく際立っている。金や権力目当てでなく、ただ犯罪のために犯罪を行うジョーカーは、ひたすら損得勘定抜きでゴッサム・シティの平和を守ろうとするバットマンの対極であり陰画とも言える。「なぜ悪を行うのか」という問いかけはそのまま「なぜ善を行うのか」に転化し得るという、虚無的な世界観が映画を貫いていることに慄然とする。
映画の中で「理由なき悪」からの無差別攻撃に右往左往する市民の姿を、テロリズムの予兆に怯えながら911後の日常を生きる米国民が自分らに重ね合わせて観たであろうことは想像に難くない。米国映画史上空前のヒットもむべなるかな。
映画の最後、警官殺しの汚名を着て闇に消えるバットマンの姿は、さしづめ無差別テロに対する手段を選ばぬ報復の宣言であろうか。

と映画批評の真似をしてみましたが文章うまくないな俺。もっともらしい分析は専門家に任せておこう。
やっぱりこの映画はジョーカーだよジョーカー。銀行強盗の手下の処遇、鉛筆を消す手品(!)、人間爆弾点火、看護婦コスプレと病院爆破(本当にまるごとビルを吹き飛ばしたらしい)……ともう印象的なシーンを挙げたらきりがない。半径四億キロ以内に絶対存在してほしくないキャラクターをあそこまでリアルに表現しつくしたヒース・レジャーはすごすぎる。
脚本もすばらしい。ネタバレは避けるが、将棋で言えば「もうここで飛車角切るのかよ!」みたいな(喩えになってないね)ストーリー展開。いやはや。終盤のフェリー二艘に搭乗した市民らが究極の選択を迫られるエピソードには手もなく翻弄されてしまった。もう本当に小憎らしいとしかいいようがない。

そして音楽がえらく気に入った。作曲家によるとフィリップ・グラスあたりのミニマルを意識して作ったらしい(⇒Variety Japan | 『ダークナイト』はテーマ曲なし)が、ミニマルの中でもルイジ・ノーノの寡黙で強靭な作風の影響が強く感じられたのは勝手読みに過ぎようか。現代音楽の最北端がようやく自らにふさわしい場を得たように思えて嬉しかった。

しかし、同じく善悪の対立を扱ったコミックを原作とした映画というと思い出すのがわが「デビルマン」だ。公開前から悪評の嵐がネットで吹き荒れていたのは有名だが、今アマゾンのカスタマーレビューを見てもすごいことになっている。これだけ不評の商品を売っているというのも珍しいのではないか(DVD化されたこと自体が奇跡かもしれない)。まあ逆にそこまでひどいのならば格安の中古を一枚買ってもいいかな、という気になったりもするが。
「スピード・レーサー」が興行的には大コケしてしまっただけに今すぐ類似の企画が通るとは思えないが、いつかハリウッドで「デビルマン」を成仏させていただくわけにはいかないものでしょうか。原作のファンとしてはそれを願うしかない。
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2008年08月08日

「インクレディブル・ハルク」ねえ……

有楽町界隈で仕事の予定が土壇場でキャンセルされたら、空いた時間は映画に費やすしかない。ということで上映時間が近かったインクレディブル・ハルクをスバル座で観る。
残念ながらわたくし的にははずれだった。

「ハルク」は数年前にも映画化されたことがあったようだがそちらは未見。もともとのマーベルコミック版にしてもチラ見ぐらいしかしたことがなかったので、「ハルク」の世界について決して詳しいわけではない。なんか興奮するとでかくなっちゃう緑の筋肉漢が大暴れする話っしょ、ぐらいの理解しかなかった。
だが、今回作られた「ハルク」を楽しむにはそれでは不足だったようだ。原作世界をお好きな方々が大喜びしそうなくすぐりがたっぷり仕込まれているらしいことはわかったが、門外漢ゆえのめり込むにはいたらなかった。以下ネタバレ注意。
posted by NA at 09:34| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月05日

「ホット・ファズ」を観た

渋谷まで行って見てきました、署名運度の末に公開が実現した「ホット・ファズ」。映画見巧者が口を揃えて絶賛しているだけのことはあって大いに楽しめた。
とはいえ、彼らが褒める一因であるところの過去の映画への言及部分は残念ながら当方にその素養が不足しているため「ああ、きっとここは何かへのオマージュなんだろうな」とうっすらわかる程度。ちょっと悔しかった。でもふつうに観てもちゃんと愉快な映画だったのでいいのだ。

むしろ「究極のおバカ映画」という宣伝文句には疑問を感じた。コメディ要素は強いものの、プロットはきっちり組み立てられ登場人物の描写も相応になされており、「おバカ映画」という言葉から想像されるゆるい内容とはかけ離れていた。そういう角度つきで呼びかけないと集客が見込まれないと思ったのだろうか。
先行作への敬意を表しつつもこれ自体がポリス・ムービーとしてちゃんと自立した作品になっているのに、キワモノ的にしか観られていないとしたらそれはそれでもったいない話だと思う。

グロ描写のセンスに「モンティ・パイソン」的悪趣味を感じたのはもはや共通文化として当然というべきなのか、もともと英国風ジョークというのはそういうものだと理解すべきなのか。映画前半でこらえた分、後半に解禁されたドンパチのすさまじいことよ。秘密結社の面々が撃たれても死なないのは、やはりあれはゾンビ扱いだからなんだろうなあ。
そうそう、シェークスピアを冒涜するのは英国においてはきっと死に値する大罪なのだろう。ネイティブはあのシーンを観てどう思ったのか。

本筋とはぜんぜん関係ないが、主役のサイモン・ペグは若いころのバルトーク・ベーラと似ていると思うので伝記映画を撮るときはぜひ起用してほしい。そんな酔狂な映画を作るやつはいないと思うが。
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2008年07月11日

東京国際ブックフェア

午後、仕事を早めに切り上げてビッグサイト西ホールまで第15回東京国際ブックフェアを覘きに行く。併催のデジタルパブリッシングフェア2008を見てIT業界の情報収集を、とかなんとか適当なことを上司に言ってはおいたが、先日のInterop Tokyoと違ってこちらは軸足が紙の方にある業界のイベントなので実のところそんなに期待してはおらず、果たして展示内容も想像の範囲内だった。出版社は漫画をいかに携帯で表示するかにうつつを抜かし、デジタルブックオーサリングシステムはどこも似たりよったりで、電子新聞の展示をしていたのがかの世界日報だけだったというのがなんとも。
雑誌大手が紙とウェブをまとめて一本化し、単なるバックナンバーサービスだけにとどまらず記事企画や広告企画なども含めた多面的展開で、将来的には日刊紙を脅かすことを視野に入れたサービスを定期購読者向けに格安で打ち出せば面白かろうに、皆さん団塊世代の定年退職と一緒にずぶずぶ沈んでいく道を選ばれるらしい。今ならまだ間に合うんだけどなあ。

てなことはどうでもよくて、ブックフェアで新刊二割引に釣られて各社のブースをうろうろしているうちに午後六時に。ついうっかりして、ブックフェア入場の際に貰った国際文具・紙製品展 ISOT 2008の無料招待券のことを忘れていた。「世界中のスタイリッシュな文具」だと。畜生、なんでこっちに注意を払わなかったのか。ダッシュして遠く離れた東ホールに向かったが既にタイムアップ。ガッデム。
しかしどうせただで入場券を配るなら最初からセットにしてくれればいいものを。金曜日もやってるけど、さすがに二日続けて早引けは気が引ける。

というわけで、ブックフェアに行く人は気をつけた方がいいと思った。たぶん文具展の方が面白いだろうし。みんな知ってて俺だけ忘れてたんだろうけど。
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2008年06月25日

ミスト(フランク・ダラボン)

考えさせられるホラー、というのは珍しいと思う。当初霧の中から垣間見える魔物はデザインドバイべつやくれいという趣で、闇夜にカラスが襲来したような低予算映画だったらどうしようとさえ思ったが、どうしてなかなか深い内容だった。やはり霧だから深いんである。以下ネタバレ注意。
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2008年06月15日

「アフタースクール」鑑賞後の散漫な走り書き感想

一切の予備知識がない観客が一番楽しめる。絶対損しないから必見必見。ブログの感想なんか読んでる場合じゃない。

以下ネタバレ注意。
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2008年04月24日

「ノーカントリー」に圧倒される

映画はすごい。どの映画も等しくすごいわけではないが、たぶんいい映画は人生以上の意味があるのだろう、とそんなめちゃくちゃな感想を抱くほどスクリーンに圧倒された。未見のあなたは片道二時間圏内でまだやっている映画館があればすぐ行くべきだ。

密猟の途中、偶然見つけた大金を手に逃げる男。追う殺し屋。さらに彼らを追う老保安官。
不意打ちする死の連続が不断に観客を脅かし、画面は一瞬たりとも弛緩しないが、そこにあるのは決してスリルではない。老保安官の絶望を語るモノローグで幕を開けるこの映画では、三者の前途に希望がないことがあらかじめ明らかだからだ。冷酷な殺し屋から男が無事逃げ切れるかどうか、の興味で見せる映画では最初からない。

ハビエル・バルデムの殺し屋は理由無き殺人鬼ではないが、その論理はおそらく誰にもわからないままだ。給油所の親父との理不尽な賭けの場面は、あまりの理解不能さによって強い印象を残す。滑稽だが恐ろしい(恐ろしく滑稽でもある)屠殺用ガス銃がドアノブを「がこん」と撃ち抜く描写は、吹き出したくなるような恐怖を味わわせてくれる。そしてトミー・リー・ジョーンズ扮する保安官は事件の最初から当惑の色を隠さず、解決なぞはなから諦めているかのようだ。終幕で彼は仕事から退き、結局誰も守れないまま物語を終える。
絶望の予感が一つずつ達成されるのを観客はただ見守る。死すべき者たちが死にゆくのを見送る。死者たちに殺されるべき正当な理由などあるわけがない。ただ死ぬ。生き長らえる者も自分とは関係ない何者かによってたまたま生かされる。生者にも生きるべき正当な理由はない。
歪んではいるが、それは確かに、私たちのままならない死生の縮図だ。

コメディに分類されるコーエン兄弟の「ビッグ・リボウスキ」を思い出した。無意味に美しいボウリング場面のスローモーション、風の強い荒野での散骨、メモ用紙に移った筆跡を鉛筆の腹でなぞった結果出てきた痕跡の正体などなど、人生のもっとも無様な瞬間をコレクションしたような映像には笑うしかなかったが、「ビッグ・リボウスキ」に充満していたばつの悪さと今作に漂う死の臭いは、たぶん同じ成分でできているような気がしてならない。

と長々書いては見たが、所詮これは映画そのものでなく映画の周りをぐるぐる回っている言葉でしかない。この映画体験を文章でダイジェストするのは無意味であって、要するに映画と同じ時間、映画を観るしかないのだ。何を当たり前のことを書いているのだ俺は。
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2008年04月13日

ティーダ・ラティオに乗ってみた

出張レンタカー道楽シリーズ。今回は日産サニー改めティーダ・ラティオ公式には後継車と認めてない?それは失礼しました)に乗って山道中心に400kmほど走ってきた。

総じて無難な車。とまとめると魅力がないみたいだが、難癖をつけようがないのが個性、というのもありだろう。1500ccクラスの汎用セダンは各社とも枯れた技術でかっちり仕上げてきているからそもそもあまり差異はないのだろうが、ふた昔前の日産車の趣味の悪さを知っている身からは「ずいぶん品がよくなったねえ」と讃辞も出ようというものだ。
CVT車に乗ったのはたぶん初めてだが、登り坂や高速でも特にそれをことさら意識させる瞬間もなく、燃費的にも大いに良好。車内空間にもこれといった不満はなかった。

行儀のよさゆえか、アクセルを踏み込んでもあまり加速する感じがしない。そもそもこの車、軽快ではあるがあまり懸命に走っている様子ではない。加速欲をそそられない車、というとまたネガティブな感想に見えるが、街乗りにはその方が安全でよろしいと思う。
どうしてもこの車でなければ、という要素は正直感じられないが(レンタカー向けでない上級車種にはまた違う提案があるのだろうが)、平凡には平凡の良さがあると思う。これでいいのだ。
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2008年04月10日

「オトナ帝国の逆襲」を観た

映画の傑作として名高い「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」をようやく観た。
確かに泣けた。何度もだ。押すべきツボを制作者はよく心得ている。以下ネタバレになるかもしれないので一応注意。
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2008年01月04日

のだめスペシャル観た

nodame.jpg年末年始にテレビを観なくなって久しいが、「のだめカンタービレinヨーロッパ」はやはり観てしまうのだった。

海外ロケはしているしオケもちゃんと出てるけど、でも(いい意味で)そんなに金をかけているように思えない映像。パリやプラハに物おじせずに堂々とお下劣ギャグをやってる。えらいぞ上野樹里。

玉木宏の指揮は前シリーズよりも格段にうまくなっているように見えた。指揮を終えた後の達成感に満ちた表情も、必ずしも演技ばかりではなかったと思う。

それにしてもどうしてフジテレビはこの作品を12/30、31にぶつけなかったのだろうか。レコード大賞や紅白に遠慮することなんかなかったのになあ。
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2007年12月13日

赤いおろかな夢

サッカーのクラブワールドカップ2007準決勝の浦和レッズ―ACミラン戦を職場でテレビ観戦。
2006年W杯の惨敗から何も学ばず、レッズがACミランに勝って優勝するかも、なんて他愛もない夢を少しでも抱いていた私がおろかでした。馬鹿馬鹿。

スコアこそ0-1ではあったが、実力の差はそれ以上でいかんともしがたい。今の浦和でしかもポンテ抜きでは到底太刀打ちできる相手ではなかった、というのが正直な感想だ。
徹底的にボールを支配され、相手陣内で繋がったパスは数えるほどという有様では点が取れるわけがない。悔しいけど世界最高レベルとの差を体験できたのは収穫だったということで、この経験を来季に生かしてほしい。
……でも今シーズン無理を重ねたレギュラー陣はきっと体がボロボロだろうなあ。来季は小野の復活を願ってやまない(でもトレードされちゃうんだろうか)。いやはや。

ついでに赤つながりで読み終わったばかりのこの本をご紹介(無理やりだな)。
山本直樹といえば傑作「BLUE」(おお、また版元を変えて再版されている)が思い浮かぶが、こちらは連合赤軍に題材を取った話。病める青春群像、という共通項で無理やり赤青をくくることもできなくはないが、そういう意図はたぶんないだろう。

幼すぎたためあさま山荘事件などをテレビで見た記憶はないが、1970年前後の若者たちの姿はきっとこんなふうだったに違いない。今から思えばあの頃の学生運動家らはなぜ共産革命の実現を信じていられたのか不思議でならないが、「レッド」を読んで、渦の中にいると全貌は見えないという当たり前の事実に気づかされた。
描かれている学生ひとりひとりは、流行の言葉を使って自分らが最先端にいることを信じている、いつの時代にもどこにでもいる思慮の足りないふつうの若者に過ぎない。その流行がたまたま暴力をも辞さない左翼運動だったというだけのことだ。あとは慣性の法則が支配する。

私があの時代に生まれていたら、同じことをしていたかもしれない。いや、きっと無自覚に受け入れて「造反有理」と深く考えずに叫んでいただろう。そして運動仲間から抜けられないまま。
それを思うと恐ろしい。自分が指導者になったとは思わないが、時代の精神に抗うことが自分にできたとも思えない。「レッド」を読むとそんな気にさせられる。
あさま山荘事件はこれまでにも数々の文学作品や映像で取り上げられてきたが、山本直樹の描く群像劇は酷薄なほどにリアルで装飾を排しており、特定キャラクターへの安直な感情移入を拒む。若者たちが何を考えていたか、よりも何をしたかの描写に力点が置かれているようだ。

「レッド」はまだ連載中で今後どういう展開になるかはわからないけど、名前のある個々の登場人物にはそれぞれ何日後にどういう定めが待ち受けているか(射殺されたり死刑判決を下されたり)が初出時点で明示されている。カート・ヴォネガットが「ガラパゴスの箱舟」で採用した方法(当日死ぬ運命にある人物の名前の前に「*」を付する)を彷彿させる。
生まれた時代が違うだけで我々と同じように軽薄な心を抱えた若者たちがあらかじめ敷かれた転落の道を辿る様子を、これから我々も追体験することになるのだろう。なんとも憂鬱な漫画である。続刊待望。
posted by NA at 21:57| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月22日

斉藤ふみに心魅かれた

名古屋、大阪と来て次は福岡。出張巡業もいよいよ大詰め。

前泊地の疲れが抜けないまま大荷物を抱えて深夜にチェックインし、テレビをつけたら東京では見たことのない個性的な顔の女性タレントが出演していた。斉藤ふみこのページの真ん中の人だ。ふーん。鼻の角度が自分的には結構いい感じ。就活サイトのけたたましいCMにも出演していた。いかにも安っぽい作りはローカルCM固有の風味。これはこれでよろしい。

彼女が出演している九州朝日放送の「ドォーモ」という深夜番組自体、見たのは初めてだったが、こちらもローカル番組ならではのあくの強さを面白く感じた。世の中東京情報ばかりではつまらない。こういう番組には頑張ってほしいものです。
先日観た映画「ヘアスプレー」はメリーランド州ボルチモアのローカル局の歌番組「コーニー・コリンズ・ショー」を舞台にしていたが、現代日本でも、たとえば福岡や仙台や新潟の若い子にとってのそういう番組はきっとあるのだろう。と思いたい。同時代の空気を同じ時間に呼吸しているという疑似体験感覚こそが、ネット時代におけるテレビの存在意義ではないかと思う。

それはそれとして、地元に密着して活動している斉藤ふみ(人妻らしいが)のありようはなんだかよいな、と思った。福岡では誰もが振り返る有名人なのであろう。九州エリア以外ではお目にかかれない、ということが希少価値になるときが来るのかもしれない。
またいつか福岡に来たときにもテレビをつけたら彼女が活躍しているといいなあ。ゆるく応援したい。
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2007年11月11日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

東京で公開当初見そびれていた作品が、仙台でかかっていたので出張ついでに観映。いったい何周遅れているんだか。

テレビ版や旧映画版を熱心に見たわけではないが、画像が大幅に進化していることは十分理解できた。第3新東京市が武装形態へと移行する様子や正八面体の使徒(ラミエルっていうんだっけ?)が自在に体組織を変形させて攻撃する様などは、まさにアニメならではの醍醐味。単純に面白い映画として観ることができた。
パチンコ業界がスポンサーになってくれたおかげなのだろうが、やはりお金を存分に使えるのはいいことだと思った。10年かかってここまでたどり着けた関係者の感慨はひとしおだろう。

原作の死海文書などをネタにした衒学趣味は正直あまりなじめなかったのだが(この時点でエヴァオタ失格>自分)、たぶん今回の映画化はオタ層とふつうのSFアニメ視聴層とどちらも取り込めるような工夫が凝らされているのだろう。第2作「破」では旧版からの大幅な逸脱が予告されており、おなじみさんも一見さんも楽しめる趣向があるに違いない。

ということとはまったく別に、アニメが子供の夢から大きいお兄さんたちの自己実現装置になっていることに戸惑いも少し覚える。還暦ロックンローラーたちが今なおラブ&セックスを歌い続けていることと同じように、アニメ世代のじじい化もやがて当たり前の風景となっていくのだろうか。いや、もうなっているのかもしれないが。

少年の自閉と自壊を描いた物語がこれほどまでの支持を獲得し再生産されることへの微かな違和感が、次作以降解消されるのかされないのか。とりあえずは来年訪れる「破」に期待しよう。
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2007年10月27日

映画「ヘアスプレー」がすごく面白いので週末に行く映画を決めかねている人はぜひ行くべきだと思った

映画『ヘアスプレー』公式サイト

いやー楽しかった。映画館で踊れたら俺は踊ってたねまったく。取り急ぎそれだけ書いて寝る。おやすみなさい。

忘れる前に追記:
とにかく主役(なんだろうな。ビリングでは随分後のほうだけど)のトレーシーを演じた愛らしいおでぶちゃんの新人ニッキー・ブロンスキーが大当たり。冒頭、彼女が画面に登場してころころ転がるようにはね回って「Good Morning Baltimore」をまるまる一曲歌い踊ったところで、この映画の成功は約束されていたと言っていい。
エンタテインメント作品の中で、肥満や黒人などマイノリティへの差別反対というメッセージを深刻ぶらずに、しかしまったくの絵空事でもないように描き出す、という決して低くないハードルを、このミュージカル映画は歌とキャラクターの魅力で綺麗にクリアしてみせた。素敵だ。
ミュージカルだからこそまっすぐに言えるメッセージというものもあるのだ。

主役以外のキャスティングも皆はまっており、とりわけ観る前にはどんなものかと思った特殊メイクのジョン・トラボルタ演じる引っ込み思案のママが存外いい味を出している。「Welcome to the 60's」で「ゴー、ママ、ゴーゴーゴー!」と煽られて街に繰り出すところなぞ、いかにもミュージカルだよねえ、というノリノリの演技である。ああ楽しい。
敵役のミシェル・ファイファーも、体を張って放送局内でのし上がってきたマダムを好演。トレーシーのパパを誘惑しようとしてうまくいかず一瞬見せる「すごい」顔には笑った笑った。「ミス・ボルチモア・クラブス」の歌語りにも驚嘆。こんなにうまい俳優だったとは。

ほぼ弛みなく踊りっぱなし歌いっぱなし走りっぱなしの約二時間。これが実際の舞台だったらどんなことになっているのか想像もできない。日本人俳優だったらもたないのではなかろうか。みんなもっと肉をくわんとなあ。
DVDが出たら即買いだが、それまでの間はサウンドトラック(速攻で買った)を聴いて印象的な場面(だらけだが)の脳内再生に努めるつもり。いや本当にいいんだってば。

再追記:
落ち着いてサントラを聴くと、そうアップテンポの曲ばかりでもないことに改めて気づく。画面の切り替えのよさが物語の流れをダレさせなかったのだろう。
そして60年代のティーンがテレビに対して持っていた憧れをまぶしく感じる。確かにテレビは魔法の箱だったのだろうな。キャストの名前を織り込んだ「コーニー・コリンズ・ショー」のテーマを聴いて、人気番組の主題歌を楽しみにしていた子供の頃を思い出した。

米国流の楽観主義も捨てたものじゃないと思う。今日より良い明日の存在を信じて疑わないことが(問題も多々あったにせよ)あの国の現在を形作ってきたことは間違いない。
明るい未来の賛歌は我が国の文化にはそぐわないのだろうか。「ALWAYS 続・三丁目の夕日」でも観るか。
posted by NA at 01:16| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月16日

モンスターズ・インク(ピクサー)

今更ながら旧作回顧シリーズ。ずっと昔、米国出張の折にステイした先の子供になかば無理やり見せられたのが存外面白くて気になっていた作品だ。先日たまたま再見する機会があって、素晴らしいCG技術だけでなくストーリーのできの良さに改めて感じ入った。

日本ではもう多くの人が忘れているだろうが(俺も忘れていた)、この作品の制作当時、カリフォルニアでは電力小売自由化の失敗による電力危機が起きていた。電力会社が破産するほどの事態になり、多くの家庭にとっても不自由きわまりない日々だったはず。その記憶が新しいうちに映画のネタにしたわけだ。水爆実験とゴジラみたいなものか。
エネルギー問題を、どうして怪物たちが人間の世界に侵入して子供を脅かすのか、という理由付けとリンクさせ(子供の悲鳴がモンスターの世界のエネルギー源になる!)、しかもそれをもう一ひねりさせてオチにまで持っていくという曲芸で見事着地させているのだから、これはもうプロットの勝利としか言いようがない。

「どこでもドア」よろしくドアを渡り歩くことで空間を自在に渡り歩くというアイデアは、もしかしたら我らがドラえもんの影響もあるのかもしれないが、クライマックスで宙吊りになった世界中の無数のドアを高速で移動する様は、むしろ宮崎アニメの換骨奪胎を思わせる。あのスピード感と自在な視点移動は今見ても圧倒的かつ効果的で、まさにアニメでしか表現できない世界だと思った。

他方、子供と子供の持ち物を異常に恐れるモンスターの描写(爆発物処理班による靴下の焼却とか)は、テロへの恐怖が日常と隣り合わせになってきていたことの反映だったのかもしれない。本作の米国でのプレミアは2001年10月だったそうだ。エイリアンの侵入と共存というプロットは、9.11直後の米国でどのように受け止められたのだろうか。
まあ子供向けアニメということでお目こぼしされたのかもしれないけど、十分以上に大人の鑑賞に堪える作品だったわけで。

終幕近くの別れの場面は、予定調和であると知りつつもほろっと来た。最初あれだけグロテスクに映ったキャラクター(特にマイク)が、これほどまでに近しい存在になっていたのが我ながら意外なぐらいだ。

ジャパニメーションがわが世の春を謳歌しているように見える昨今だが、やっぱりアメリカのスタジオを侮ってはいかんなあ、と(別に侮っていたわけではないけど)痛感する。ハリウッドでの実写同様、彼らは大人数で徹底的に作り込んで量を質に転化する術を心得ている。カリスマ監督の個性と一部の熟練アニメータの職人仕事にばかり依存した制作態勢では、継続していいものを生み出すのは難しいのではないか。門外漢が余計な心配をしても仕方ないのだが。
posted by NA at 04:30| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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