2012年09月08日

バットマン映画の完結編、なのだが

やっと映画「ダークナイト ライジング」を観てきた。前作からもう四年。早いですのう。見なければ見なければと思いつつ「前作ほどでもない」という世評に引っかかって優柔不断のうちに夏は過ぎて、結局首都圏での上映がほぼ終わりかけのタイミングで足を運んだ。以下感想とも何ともつかぬものをだらだらと。
地方ではまだこれからロードショーのところもあるんだろうけど、まあネタバレはあまりしませんのでご了解を。だいたいそんなに読まれてないやねこのサイト。

三部作の真ん中「ダークナイト」は、今思い返しても背筋の凍る大傑作だった。ということを今作を見終わった後に改めて思い出した。まあ今度はそういう映画ではなかったということだ。仕方ない。映画史に残るような作品を続けて出せるわけがないのだ。
では「ライジング」には何が欠けていたのか、というと、そりゃあもうジョーカー=ヒース・レジャーの不在に尽きる。前に書いたことの繰り返しになるから端折るが、喜悦の表情を顔に刻印したままあり得ない犯罪を繰り広げるジョーカーは、映画とわかって見ているのに本当に怖かった。ゆえに荒唐無稽な殺人も誘拐も、全部「あり」だった。ジョーカーが次に何をしでかすか、に対する興味(というより畏れだったな)が二時間半の長尺に一本通った背骨として機能していた。
今作の悪役ベインは、なんというか苦労の人であって後段でちゃんと悪に走った動機まで説明されているので問答無用のワルではない。まあそれはそれでいいのだが、結果として観客は冷静に状況を判断できちゃうのだ。スクリーンに架空の世界を現出させる映画にとってそれはあまり好ましくないことであろう。今回、夢の王国ならぬ犯罪都市ゴッサムをめぐる巨大な陰謀の嘘臭い部分が妙に気になったのは、やはりスクリーンを安心して見ていられたからだったと思う。

前作のヒットを受けてのロケのスケールの大きさは見事だったし、そしてバットマン映画に欠かせないメカの活躍は十分魅力的に描かれていたと思う。しかも乗っているのが「キャットウーマン」アン・ハサウェイときたもんだ(でももう少しサービスカットほしかったよ)。
ただ、予告編でこの映画の最善の映像はほとんど出尽くしていたんだな、と思ったこともまた事実だ。あの印象的なフットボールスタジアムでの大惨事の場面だけに期待していると残念ながら肩透かしを食らうだろう。トレーラー製作者に拍手を贈ろう。

おそらく本国アメリカでは、ティーン向けのコミック雑誌でバットマンと共に育ってきた世代が、より大人向けの意匠と苦悩をまとって登場した憧れのヒーローに涙するという受容がされているのだろう。ラストでのロビン登場の予告以外にも、原作読者のツボを押しまくる仕掛けはいろいろあったに違いない。
ファンにしてみれば、幼い日の英雄が現実社会によく似た空間で大活躍してくれるだけでもありがたいことだ。日本で言えば浦沢直樹版の「PLUTO」とかと同じですね。だからベイン一味の「革命」がいったい何を目指していたのかよくわからんとか(1200万市民を皆殺しにする気ならば簡単にできたのに)、銃さえ持っていれば大企業の役員会だろうがなんだろうが簡単に制圧できちゃうのかとか、バットマンはベインとの素手の対決で何をしたかったのかとか、ブルースは女を見る目がなさすぎないかとか、その他もろもろの細かい(とばかりも言えない)疑問は所詮野暮なツッコミでしかない。前作「ダークナイト」のあらすじもたぶん冷静な目で見直せば穴だらけなのだろう。
もっとも「ダークナイト」で描かれた「悪を倒すための悪」という主題はやはりそれ自体が魅力的だった。それが今作は「精神と肉体が悪を倒す」というところに落ち着いて、地底でいっぱい腹筋したから正義が勝つというある意味単純化されたドラマに回帰しているのが惜しい。
ああ、あとやっぱり最後はちゃんとブルースが×××ままで終わってほしかったんだけど、ああいう蛇足をつけちゃうのがやっぱりご家庭層にも楽しんでいただくためには必要なんでしょうかどうなんでしょうか。

料金分以上楽しめる映画であることには違いないし、前作に続くハンス・ジマー作曲の音圧感溢れるサウンドトラックはごんごん耳に迫るので映画館的体験という意味でも優れた作品だと思う。何度でも繰り返すが、「ダークナイト」が凄すぎたのだ。そしてアン・ハサウェイのスピンオフ作品を撮るときにはもう少しそのなんだ、見せ方を考えてほしいと思ったことだった。お願いしますよ。
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2012年04月20日

「ルート・アイリッシュ」のもやもや

ケン・ローチ監督の「ルート・アイリッシュ」を観た。志の高さはわかるのだが、どうにももやもや感が残る映画だったので、もやもやした感想を書いておく。以下ネタバレ注意。続きを読む
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2011年11月29日

第三舞台「深呼吸する惑星」

解散公演となってしまった舞台のチケットをつい手に入れたのでつい行ってしまった。
それほど彼らのファンだったわけでもないのに、何か申し訳ないな、他に見たい人はいくらでもいるだろうにな、と思いながら。

鴻上尚史の狙いだったのかもしれないが、80年代色(とはつまり第三舞台色であろうか)を濃厚に感じさせる2時間だった。踊りと歌はもはや彼らの専売特許ではなく、記憶の中の群像ほどもはやスピーディーに感じられなかったのは時代が加速したのか出演者の加齢によるものか。
ただ、ひとりだけ若い客演の高橋一生の演技が極めて活きていたのは収穫だった。いい俳優だ。

ネタバラシをしてはいかんのだが、過去との抱擁で終わる演劇は名作が多いと思う。冒頭の葬儀場面との連結をもう少し丁寧に作ればさらに感動は増したのではなかろうか。とか。

さあ、次はムーンライダーズの最後を見に行こう。ものみな果てる年の瀬。
ラベル:第三舞台
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2010年07月01日

遠くまで往く

サッカーW杯の季節がやってきた。もう四年経ったのか、と、まだ四年しか経っていないのか、の二種類の感慨がいつもながら交錯する。
ただ前回あたりまでは己の進歩のなさを慨嘆するばかりだったが、今回は「間違いなく俺は四年前より劣化している」という確信がある。達観したのか、ただの退化か。

劣化のひとつが文章作成能力の衰えである。四年前あたりのわがブログを見ると、まだエントリを書くことに飽きてなかったらしくて(笑)連日のようにW杯の感想を書き連ねていた。だが今回は一次リーグが終わったあとに初エントリときたもんだ。
今回W杯も日本戦を中心にテレビ観戦していたことに変わりはないのだが、同時に開いているPCで見ているTwitterという恐るべき飛び道具の出現が、結果としてものぐさ者をいっそう筆不精にしたことは否めない。何か反応しようと思っても、一瞬いや数瞬前にどこかの誰かが自分の書こうとしたものよりもよほどうまい表現で言い切っているのだから、今更世界に余計なテキストを増やすまでもない、とすぐ諦める気になれる。

周知のとおり、日本代表は一次リーグを2勝1敗という望外の成績で突破し、昨夜決勝トーナメント1回戦でパラグアイにPK戦の末敗れた。望外というのはつまり自国民の下馬評が低かったからで、よく考えれば出場国の半分は決勝トーナメントに出られるのだからそれほどすごいことではないのだが、五月までのよれよれっぷりは相手を油断させる罠だったと言われても納得できそうなぐらい、一次リーグでの躍進は目覚しかった。本当に。
この調子で決勝トーナメントもひとつふたつ勝てるかも、という根拠薄弱なわしらの期待は、やはり根拠薄弱だけあって叶うことはなかったわけだが、それでも2006年の超期待はずれ代表に比べたら今回の岡田ジャパンは長足の進歩を遂げたことは間違いない。2002年のトルシエジャパンと時空を超えて戦っても、おそらく10回のうち5回は勝ち、数試合はドローに持ち込めたはずだ。これも根拠はないけど。

しかし、んなことはどうでもいい。久しぶりに素人サッカー談義を書く気になったのは、パラグアイ戦の結果に思うところがあったからだ。
前後半0-0で、延長でも勝負がつかず結局PK戦で白黒つけることになったいきさつはよそでしこたま美辞麗句と共に書かれているので繰り返さない。たまたまパラグアイが八強に進んだだけで、もしかしたら日本にもチャンスはあったかもしれないことは事実だ(全体としてはパラグアイのゲームではあったが)。そしてもちろん勝っていれば大喜びはしたことだろう。
ただ、たとえ勝ってもわが代表はここ止まりだったに違いない。失礼ながら、おそらくパラグアイもさらに勝ち進むことは難しいのではないか。トーナメント1回戦の他の7試合(全部フルで観たわけではないが)は、このカードの数倍高いレベルの勝負を繰り広げていたから。
文字通り吸いつくようなパスワーク、あり得ない角度で軌跡を描くドリブル、信じられない遠くから飛んでくる脚や頭がクリアするボールの弾道、そして一閃放たれるシュートの殺意の強さ。いずれもが格の違いを見せつけていた。

「火の鳥」黎明編の終盤にも似たような場面があったことを思い返す。
火山の噴火で巨大な岩穴の底に落ち込んだ青年が脱出するため岩肌をよじ登り、到達したはずの天辺がさらに高い岸壁に囲まれたテラスだったことに気づく瞬間。越えたはずの山は序の口に過ぎなかったのだ。
日本代表の旅路はご近所を出て広大な世界の地図が目に入ったところで終わってしまった。ここまで歩くだけでも本当に本当に大変だったのに。なんということだろう。

進むべき道はない、だが進まねばならない。真の頂上までの途轍もない距離を見せつけられ、なおサッカーを続けるほかない彼らがどんな絶望を抱えて日本に帰ってくるか、想像するに余りある。ドイツ大会での中田の演劇的大往生を多くの人達は笑った(私も与した)が、今となっては彼もまた大きな絶望に文字通り打ちひしがれていたのだとわかる気がする。ドイツ大会のどうしようもなく不出来なブラジル代表ですら、日本を訳もなく破ることができたのだ。

ほんとうに、あと何十回負けたら我々は強くなれるのだろう。
今回の日本代表の到達した地点が未だかつてない高みだっただけに、そこから先、遥かに見える峰の高さはあまりにも残酷だ。
彼らのここからの旅に幸いあれ、と願わずにはいられない。そして若い森本、内田、長友らが決して希望を失わないことを。
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2010年05月18日

「カールじいさんの空飛ぶ家」は主役ではなかったという話

DVD鑑賞。およそ主人公は皆異形の存在だったピクサー(「Mr.インクレディブル」は超人一家だったし)がふつうの人間を中心に据えたドラマを描くとどうなるのか、という興味は、実はあまりなかった。キャラが怪物でも魚でも極上の人情劇に仕立ててしまえるのだから、どうせうまいに決まってるじゃん。
いやいやそうではありませんでした。うまくなかったわけではなく、想像を遥かに超える泣かせ場面をよりによって冒頭に持ってくるという反則技。これはいけません。これはいけません。いきなりクライマックスですよもう。少年少女の出会い、結婚、そして別れ。シンプルに誰もがわかるエピソードを連ねて、その上感動させる。これはずるいです。これはずるいです。しかし参った。だからしょうがない。開始10分経たないところで感動は早くも頂点に達する。

そう、この映画は冒頭で終わっていると言っていい。家が空を飛ぶであろうこと、妻との約束が果たされるであろうことは、すべて冒頭のエピソードで確定してしまっているからだ。ピクサーが映画を作る以上、バッドエンドはあり得ない。果たしてまだ冒険が始まってもいない段階から、どうドラマを盛り上げるのだろう。

未見の方のためと自分の手抜きのために詳しくは書かないが、驚くべきことにこのドラマはここから別の話になるのである。もちろん伏線らしきものは数本貼ってあってちゃんと後で回収されるが、それは物語の首尾を最低限一貫させる程度のはたらきしかなく、老齢に達した主人公カールは否応なしに新しいストーリーの中を進み始めるのだ。単なるプロローグと言うにはあまりにも冒頭のラブストーリーはよくできすぎていた。本編の方が軽くとも、このまま進むしかなかったのだろう。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番第一楽章みたいなものだろうか。オケとピアノの前奏が豪華すぎてメインテーマと勘違いしてしまうのだが、曲全体の位置付けとしてはただの序でしかないという理不尽。カットするのももったいないので、バランス度外視で残した、というところではないか。

冒険映画の常としてこの映画にも悪役が登場するのだが、いかにも座りの悪い悪役である。正直、悪役を演じさせるにはかなり無理があるキャラクターだ。どう考えても彼(男性ね)の長年の苦労とその目指した成果が「悪」の名の下に断罪されてはいかんのではないか、せっかくの努力が最後にはあれかよ、と思わざるを得ない。子供の気まぐれがそんなに貴いか、とか、大人目線からはいろいろ注文をつけたくなる。それぐらい釈然としない。
しかしそれもこれも、大事な部分が終わったあとの話なのでまあ仕方ないか、と思わせるだけの説得力が、くどいようだが一番頭のところにあるのだ。

ピクサーはそんなに意地悪ではないので老人たちがふつうに冒険を貫徹させて日常に帰るところまでをちゃんと描くが、家がガス風船の力で地上から飛翔するところからはすべて死を間近にした老人の幻覚だった、ととれる含みを残しても面白かったかもしれない。原題「UP」の示す内容とはまさしく昇天そのものであって、ほんとうは「空飛ぶ家」の映画ではなかったのだ。
空飛ぶ家の空中旅行は始まってすぐに終わる。家が飛んだらどんなに楽しいでしょう、ということに長い描写を費やすこともなく、カールはあっという間に旅の目的地までたどり着いてしまう。「サツキとメイの家」は見世物になったが、カールじいさんの家はたぶん無理だ。

作画より何よりシナリオ作りに大変な力を注ぐという触れ込みのピクサー映画だが、それでもこのような重心の狂った映画ができるというのは(悪い意味でなくて)何だか楽しい。というか悪くない。ハリウッドの組織力で非の打ち所のない映画を目指すよりも、作家性に寄り添って魅力的な偏りで人を惹きつける映画を作ってほしいと思う。手本は宮崎駿。この調子で頑張れピクサー。
ラベル:ピクサー アニメ
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2010年01月23日

「アバター」についての今更コメント


2009年末から年明けにかけて大ヒットした3D映画「アバター」の感想を書くのを忘れていた。基本的にはよくできた今風電影見世物でありあまり深読みせずに楽しむのがよかろう、と思ったのでとりわけ書く必要も感じなかったのだが、あとになっていろいろ思い出してきたので。以下当然のようにネタバレだらけなので行間ちょと空ける。
 
 
 
 
 
 
 
・主人公が下半身不随の元海兵隊員、というシナリオ設定は要するに「強靭な肉体を取り戻すことを切望する、極限状況に適応可能な人材」という位置付けだったのか、と納得。最初にアバターと接続したときに見せる興奮状態はなんだか大袈裟過ぎて変だと思ったが、あそこまで強調しないと人類を裏切り異星人のために戦うことになる動機付けにならない、と判断したのだろう。「ナウシカ」や「もののけ姫」などで異種共存物語に慣れすぎている(というかこの手の異種対立ストーリーの落とし所は基本的に共存共栄っしょ、みたいな)日本風作劇術との感覚の違いを少し感じた。
・ところでやっぱり宮崎アニメの影響ってあったんですかねえこの作品。誰かインタビューで触れていないのかな。
・ベトナムのジャングルとインディアンの延長(赤だと露骨だから青く塗った)みたいな原住生物ナヴィが登場する本作は、アメリカ合衆国の原罪に対する告発か、みたいに気負って観始めたが、まあよく考えたら直接間接的にそういう見立てのできる映画はキングコング以来今までにも随分あったわけで、特に強調することでもないのだろう。ただ侵略を指揮する海兵隊の大佐(スティーヴン・ラング好演)が、筋肉馬鹿でまるっきり問答無用の悪役という扱いなのには少し驚いた。途中で命令放棄して反旗を翻す女性パイロット(ミシェル・ロドリゲス)の扱いもちょと新鮮だったかも。
・3D表現(もちろんこっちで観た)は、すごいというよりも物語の中で浮いていないことの方に驚くべきなのだろう。いかにも3Dでござい、というこれみよがしな利用(観客の方に物を飛ばしてスリルを味わわせる式の。昔は多かったなあ)はほとんどなく、全編が当たり前に3Dで表現されていた。
ただ私の観た上映館だけの問題かもしれないが、思ったほどジャングルの雰囲気が立体的に表現されていなかったのは、ひとつには音響がうまく使われていなかったからではないか。もっと密林感を演出するサウンドの使い方があったと思う。視点が切り替わるたびに音の方向が変わるのも不自然だが、見た目の奥行が増した3D映画での音響効果の扱いは今後大きな課題になるのではなかろうか。
・シガニー・ウィーバーは樹木と一体化して惑星の意思を体現する存在になるのではなかろうか、と思っていたが外れた。地球人は所詮よそ者、そこまで出しゃばってはいけない。しかし彼女はどこでもシガニー・ウィーバー役以外をやっていないような気がする。大女優というのはそういうものか。
・3D映画は盗撮は難しいし家庭での再現も金がかかりそうなので、短期的にはブロックバスター映画の主流を占めそうな気がする。3D再生設備が広く一般的になれば、映画以外のソース(オペラとか歌舞伎とか人気歌手のライブとか)も流すビジネスが大きく育つだろう。違法コピー対策にはコピーできないものを、という、大量複製を前提とした20世紀の手法を否定する新たなメディア展開がここから始まるのかもしれない。
ラベル:アバター 3D
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2010年01月16日

シベリア少女鉄道スピリッツ「キミ☆コレ〜ワン・サイド・ラバーズ・トリビュート〜」

新宿タイニイ・アリスでの公演を観に行った。この劇団(今回からいわゆる劇団ではなくてプロデュース公演になったみたいだけど)は初めて。川上未映子さんのブログで紹介されているのを読んで前売り券を入手し、知人の美人を畏れ多くもお誘いして行ってみた。
公演中なのでネタバレは避けるが、漫画家とアシスタントらの仕事部屋を舞台に、前半スローテンポで敷いたそれぞれの片思い風視線をすべて台無しにする壮大な卓袱台返し展開に唖然とする。誰もがわかる漫画とドラマとアニメの最大公約数ってえとあのへんになるのかなあ。

その後、知人の美人と夕食を食べてワインを飲んで珍しくタクシー帰宅。彼女も舞台を楽しんでくれたみたいでよかった。
何も起きなかったし起こす気はなかったし起こる可能性もなかったけど、まあそのなんだ、とても楽しい時間を過ごした。感情飽和量の少なかった昔だったらつい言ってしまいそうな迂闊な一言は言わずに済んだ。大人になったなお前。
しばらく忘れていた感情が心を占めて離れない。でも私の頭には大きな穴が空いているので、きっとすぐ忘れてしまうだろう。
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2009年12月22日

イングロリアス・バスターズを観た


クエンティン・タランティーノの新作「イングロリアス・バスターズ」が不入りとの評判を聞いてあわてて駆けつける。正月映画が年内に打ち切りになるわけがないんだけど。果たして館内は半分以下の入りではあった。もったいないことである。こんなめちゃくちゃな映画はそうそう観られるものではない。

一応「絶賛公開中」らしいのでネタバレは避ける。ただ、アメリカの戦争映画なのにドイツ軍人がドイツ語を喋りフランス人がフランス語を喋る(当然ドイツ人はフランス人にフランス語で話しかける)というところでまず笑いがこみ上げる。ドイツ人女優が英語しかできないアメリカ人を馬鹿にする場面もあったりして。
そしてアメリカのユダヤ人によるナチ抹殺特殊部隊(何しろ虐げられた同胞の復讐なのでどんな残酷なことをしてもいいんである)のいかれ加減に悶絶。野に放たれた破綻者の群れが嬉々として気高いドイツ軍人を虐殺して回る様に唖然とするしかない。戦争映画のゆかいさはそのままに、善玉悪玉の構図をまるごとひっくり返したかたちだ。

善玉と書いたが別にナチが善行を施すわけではもちろんない。クリストフ・ヴァルツ演じるハンス・ランダSS大佐は多国語を操り言葉で相手を追い込む存在で、この長い(約二時間半)映画のかなりの部分は彼の活躍を描写することに費やされる。戯曲の映画化かと思えるほど場面転換は少なく、戦争映画の癖にアクションのある場面は非常に希だ(それゆえに時折吹き荒れる暴力が極めて印象的でもある)。

面白いな、と思ったのは、延々と続く会話劇によるサスペンスの演出される場面は必ず飲食を伴っていることだ。とりわけラパディット農園でのミルク、カフェでのシュトルーデルはその白さで強い恐怖を表象していた。見知らぬ他人との食事は極度の緊張を強いる。それが悪意を秘めた存在であればなおさらだろう。会食が苦手な人間として大いに納得した次第だ。

作中で上映される映画の画面構成や登場人物が口にする映画や名優の名前は、きっと映画マニアならば直感的に理解できるコードを含んでいたに違いない。クライマックスの相撃ち場面や炎に浮き上がる嘲笑のイメージにはどこか日本映画にも通じるテイストを感じたのだが、原典がわかろうはずもない。「ホット・ファズ」のときに感じた残念さをまた味わうことになった。
まあいい映画とは必ずまたどこかで出会えるはずだから、それまでにいろいろ観ておくさ。タランティーノ元ネタ総解説、みたいなサイトも既にあるかもしれないし(それはそれでまた味気ないかもしれぬが)。

ともあれ巷間に伝わる史実がどうとかいう話は忘れて映画館に赴けば、せわしない師走の二時間半を費やすに足る映像体験ができることは請け合う。クリストフ・ヴァルツの鬼のような名演技もいいが、唇を歪めて馬鹿(というか性格破綻者だ)に徹したブラッド・ピットの阿呆ぶりもまた観るに値する。負けたことに無頓着な馬鹿ほど始末に負えないものはないよな、本当に。
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2009年10月20日

映画版「カイジ」はなかなかの拾いもの

いくらなんでも藤原竜也がカイジって無理ありすぎだろ、顎丸いし。と思っていたらあに図らんや、なかなかのはまり役だった。あなどってはいけない。
冒頭のコンビニでバイトをするあたりの演技は世を拗ねた青年というよりは頼りない坊主の風情だったが、物語の進行と共に原作譲りの大仰な台詞がちゃんと似合うようなキャラづくりをしていた。えらいえらい。
多額の予算を注ぎ込まなくとも、原作と主人公キャラがしっかりしていれば骨格がぶれないいい映画ができるという好例だと思った。たとえエスポワール号がぜんぜん豪華客船に見えなくとも、物語の妙味は損なわれていなかった。

画としては単純極まりない「鉄骨渡り」がしっかり見応えあるドラマになっていたのも収穫。原作の感動が損なわれていなかっただけでも評価に値する。失敗する負け組たちを見て喝采を上げるセレブの描写には月並みながら本当に敵意を覚えたもんなあ。そして石田さん役の光石研が好演。彼の演技がこのシーンを光らせた。
そういえば好演といえば地下飯場班長役の松尾スズキもだ。今うさんくさい人間を演じさせたらこの人の右に出る俳優はいないだろう。オーバーアクトぎみの香川照之もマンガっぽくてよかったです。

長大な原作のあちこちを摘んで130分にしているのでかなりせわしい(限定ジャンケンはオリジナルのルール通りにやってほしかったが、まあ細かい心理ゲームは映画向きではないよなあ)し「その展開はないだろう」というところもままあったが、若手女優を出して恋愛展開、みたいな余計なことはせずに直球勝負しているところに好感を覚えた。ほぼ紅一点の天海祐希は事実上男役だからいいのだ。ビバ宝塚。
カイジといえばおなじみ「ざわ...」の音声化には笑った。これから行く人は聞き逃さないように。

ところで公式サイトのフラッシュは重すぎるのでどうにかした方がいいと思った。全部を見て回るには時間がかかりすぎる。暇で金のない負け組の人が観ていればいいということか。
ラベル:カイジ 藤原竜也
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2009年10月12日

困った映画「しんぼる」


「要らないからあげる」と知り合いから「しんぼる」のチケットが回ってきた。天才松本人志の映画に対してなんたる侮辱、と怒らなかったのは、前作「大日本人」を観ていたからだ。そして今作の風評(というかほとんど悪評)も聞いてはいた。
もっともただでなら行ってもいいか、と思ってチケットをもらったのが大間違いではあった。こういう困りものの作品を野放しにしていていいものだろうか。

人生の時間は限られている。93分を費やすましな選択肢は他にいくらでもあるはずだ。果たして劇場内には休日の夜にもかかわらず(休日の夜だから?)一桁しか観客がいなかった。我が県の民度にはかねて大いに疑問を抱いてはいるが、この映画については順当な反応だと思う。

「大日本人」を観ていなかったならばあるいはもう少し楽しめただろうか? 松本人志の興味はどうやら壮大な「間の悪さ」の現出にあるらしい、という前作に対して抱いた感想は間違っていなかったようだ。
二つの世界(メキシコのプロレスラー一家の物語と謎の白い部屋に閉じ込められた男の物語)が並行して描かれて終幕近くでクロスする、という、まあよくある手法ではあるが興味を繋ぐやり方としてはそれなりに有効な構成をこの映画は取る。だが、構図が明かされたときに待っているのは失笑だけだ。
ちなみに「大日本人」での特撮ヒーローの活躍は仮面レスラーに置き換えられ、前作のかわいそうな祖父の役回りは「しんぼる」ではルチャドールの小学生の息子に振り返られている、というしょうもない類似点を指摘するぐらいしか書くことがない。メキシコパートは真相が明らかになるまではそれなりに観られるシーンが作られていた(プロレスの試合場面はなかなかいい感じだったのだ)だけに、オチのつけ方がまったくどうにも納得できないのだが、所詮そういう映画ではないのだから仕方ない。咥えタバコで乱暴な運転をする修道女(ルチャドールの娘)はなんで物語に絡んで来ないのか、などと怒ってももうまったく本当にどうしようもないのだ。

前作の感想にも似たようなことを書いたが、松本人志が既存映画と違う感触を表現することを強く指向しているのはわかる。だが、それに意味があるかどうかはまた別の問題だ。少なくとも私は用意周到に「がっかり」を演出されて楽しめるほど人間ができてはいない。
白い小部屋での独り芝居として展開する松本パートがもう少し面白ければまた別の意味を見出すこともできただろうが、残念ながら監禁状態からの脱出などの描写に目新しさはなく、ひねりの少ない凡庸な進行に終始したと言わざるを得ない。
どちらかと言えば、終盤直前までモキュメンタリー形式を取っていた「大日本人」の方がまだ映画らしかったと思う。映画のふりをした何物かが二作続いたわけだが、さすがにこの路線での三作目はあり得ないだろう。吉本興業が何らかの理由で映画部門で赤字を量産したいか、松本人志の評判を地に落としたい理由でもあるのならば別だが。

人から貰った券で観てきてなお文句を言うとは私もずいぶん器が小さいが、繰り返す。人生の時間にはもっとましな使途があるはずだ。この映画のことは忘れていい。
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2009年10月01日

「空気人形」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を観た

何だか人形づいてるこの頃である。


エヴァについて。
劇中曲「今日の日はさようなら」と「翼をください」は、誰の演奏かは知らないがおそらく意図的に下手な合唱を使っていると思った。下手というか、いやなエスプレシーヴォの入った歌というか。
ほとんど使徒との激烈な戦いに終始していた108分で、あれよあれよという間に見終わる。

私はテレビ版・旧映画版の熱心な視聴者や観客ではなかった(未だにこの物語が拠っている世界観はようわからん)けど、かつてのバージョンで登場していた場面・シチュエーションが違うかたちで読み替えられていることには気づいた。もちろんストーリーの自然な展開としてのさりげない引用なので、旧作を知っている人には意表を突かれる楽しみがあり、知らない人にも別に鑑賞の妨げにはならない。人気アニメの再映画化ならではの賢いやり方である。この工夫は物語のより深いところに関わっているのかもしれない(次作以降で前作の世界とパラレルワールドであることが明示されるとか)けど、ともあれ庵野監督に拍手を送りつつ次を楽しみに待ちたい。
鑑賞後、ゲンドウの冷徹無慈悲さや綾波の自己犠牲を厭わぬ底知れないまでの献身を思い返して、父性や母性という言葉はあるのに子性ってないんだな、と脈絡なく思ったりした。


空気人形」はペ・ドゥナの裸を見られてよかった。とだけ書くと馬鹿であることがばれてしまうのでもう少し何か書くか。
ラストで映画に登場した人物がすべて揃って主人公に「おめでとう」を言う映画、と要約するとこれまたエヴァンゲリオンになってしまうのだが、文字通りからっぽの存在である空気人形(ダッチワイフ)の切ない生を描いたファンタジーだ。最後で勢揃いする主な登場人物の誰もが内側に何らかの空虚(脇役の少女ですら)を抱えており、彼女はそのすべてを代表する存在として置かれている。
何分ダッチワイフなのでコスプレさせられたり常識がなかったり空気が抜けたりはするが、ふつうの素朴な少女の恋愛を描いた映画として違和感なく観ることができた。恋愛映画としては目を背けたくなる悲惨な場面やちょいグロ描写もあったりするのでそのへん要注意だけど。
ところでこの映画も調律の合っていないピアノがサウンドトラックで多用されていた。下手な音楽を使って耳を欹てさせるのが流行なのだろうか。

今更言うまでもなくペ・ドゥナはよかった。
もともとお人形さんのような大きな目と整った顔立ちなので当然のはまり役ではあるが、少し前のドラマで速水もこみちが演技の下手さゆえロボット役を振られていたのとはまったく違う意味で(もちろんたどたどしい日本語を逆に生かすという狙いもあっただろうけど)人形役を好演していた。命を得て身の周りの世界をひとつずつ体験し少しずつ「心」を育んでいく様子、愛しい相手から息を吹き込まれて宙に浮くシーンには観ていて胸が温かくなった。基本的に決して明るいトーンの映画ではないのだが(むしろ痛ましい映画と言っていい)、彼女の無垢さが救ってくれた部分は大きいと思う。
しかし相手がARATAであればまあ仕方ないとは思うが、空気人形の持ち主役の板尾創路には大いに嫉妬せざるを得ない。うらやましい。中年男のいやらしさ炸裂の岩松了は、何というかいつもながら登場カットは多くないのに印象に残る演技ではあった。

台湾や香港映画で活躍している撮影監督のリー・ピンビンの仕事がすばらしかった。隅田川界隈のこれまで何度も見たことのあるはずの風景が、逆光ぎみのアングルで柔らかい空気を纏って見たことのない映像になっていた。そういう人が撮っているとの知識がないまま観たが、冒頭のゴミ収集の景色(ある意味伏線になっていた)からして漂う雰囲気の違いからして「何が違うんだろう?」と不思議に思えたほどだった。さすが。空気の映画には空気をしっかり撮れる人がふさわしい。
デートムービーには向かないけど、ひとりで空いた時間があれば行った方がいい映画だと思った。都会に住んでいるあなたはぜひ。
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2009年08月02日

年々歳々花相似たり

otomen.png
歳々年々人同じからず。昨日第一回放映のフジテレビのオトメンで夏帆を見てそう思った。キヤノンのPIXUSのCMでいやな予感を覚えてはいたのだが。
相方の岡田将生が美しすぎるのもいかんのだろうが、引き立て役となっては気の毒である。結構鼻筋がしっかりしてきて、割と男顔なんだな、とか余計なことを思わせるのはあまりよろしくない。某掲示板方面で「劣化」「劣化ほ」と言われているのを見て少し胸が痛む。

夏帆といえばやはり三井のリハウスの印象の鮮烈さを誰もが引きずっていることだろう。彼女ももう18歳。いつまでもそのイメージから脱却できないのは成長中のタレントにとっては不幸なことだ。
オフィシャルサイトの眼鏡っ娘顔はこれはこれで正常進化とみてよいと思うのだが。

むかし会社の仕事でリハウス時代の夏帆を起用する企画が出て、別に広報ではないがたまたま所属していた事業内容の絡みで、私が担当となってエージェントと連絡していたことがあった。誌面の片隅にちらっと出るよくあるコーナーで、これまたよくある「明日のスター」であるとか斯界の期待の星だとかをちゃっちゃっと紹介して、ついでに我が社もよろしくね、みたいなやつである。

だが彼女の話は結局、何が気にくわなかったのか当時の女性上司の鶴の一声でなくなってしまった。という負い目もあって心中ひそかに応援していたのだが(べ、べつにロリコンじゃないんだからねっ!)、すべての少女タレントが迎える転機が彼女にもまた訪れているのだろう。
どうあれおじさんは応援しているので(迷惑だろうが)頑張れ夏帆。別に脱いだりしなくていいから。
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2009年06月19日

兄弟持ちは見るべし「重力ピエロ」


今年は兄弟映画の当たり年かもしれない。先に観た「スラムドッグ$ミリオネア」はスラム街に生まれた兄弟の成長物語だったが、仙台を舞台に展開する伊坂幸太郎原作「重力ピエロ」もまた、兄弟のひとりである私の記憶をちくちく刺激しまくる作品だった。

物語には謎解きの枠組みが一応あるが、加瀬亮と岡田将生(実年齢は結構離れているのに違和感を感じさせなかった)の兄弟、小日向文世と鈴木京香の夫婦らの家族模様を、時を行き来しながらコラージュ風に描くことの方に力点が置かれている。
そのエピソードのひとつひとつはさほど特別なものではないが、鈴木京香演じる母親が幼子をあやす童歌、二段ベッド(兄弟ドラマでは必須アイテムと言えよう)の上から弟を慰める兄など、記憶に残る最良の瞬間を切り取ることにこの映画は成功していると思った。幼少時のアルバムの写真や家族揃っての外出のくだりなどで兄弟の絆を描写するセンスに好感を覚えつつ、この感じはひとりっ子にはわからないかもなあ、と余計な心配をしたりもした。

岡田将生は時に演技はぎこちないが、同性ですら見惚れてしまう美貌(としか言いようがない)を武器に、大スクリーンの中で際立つ存在感を発揮した。カメラワークの勝利。加瀬亮もなかなか兄っぽくてよろしかった。
ストーリーには明らかな傷があるものの(あんなことして捕まらないわけがないだろう、など)辻褄合わせだけが映画ではない。昨今はやりのヤンキー映画とは違った体温の低さ(しかし微熱はある)を堪能できた。伊坂作品における兄弟の描写については以前のエントリでも触れたことがあるが、その感触をよくとらえた映画化だったと思う。

#ところで渡部篤郎はクラウザーさんに弟子入りしてもっとスムーズに「レイプレイプ」と連続して言えるようになったらさらによかったのではなかろうか。
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2009年06月09日

桑田佳祐アリランを歌う


いつの間にか復活していたフジテレビのバラエティー桑田佳祐の音楽寅さん(以前レギュラーでやっていたのは2000年のことらしい)を視聴。
今回は桑田とユースケ・サンタマリアが大阪の街をふらついては大阪にちなんだ歌を披露するという、例によってゆるい内容なのだが、鶴橋の焼肉店で「Love Korea」そしてかの「アリラン」を店員や客らと大合唱したのにはすこぶる感心した。
いつのロケかは知らないがそれほど前ではあるまい。六カ国協議が行き詰まり北朝鮮が核実験を行うばかりか日本海でまたミサイルを発射しようとしているとの情報が流れる中で、焼肉を前にコントして「アーリランアーリランアーラリーヨー」と歌いまくる桑田は心底すごいと思った。もちろん非難したり「空気が読めない」と言いたいのではなく、この人の反骨は本物だと感じ入った次第である。

先日の空耳アビーロード(番組中では「アベーロード」って言ってた記憶があるが)も最近の日本のテレビ番組ではなかなかお目にかかれない政治風刺メドレーだったが、桑田というキャラでなければできない番組に毎週挑戦しているスタッフの心意気を大いに褒めたい。もちろん桑田自身も。

麻生首相は最近こんなことを言っていたという。Yomiuri Onlineの「対北、戦うべき時は覚悟を」…麻生首相が演説より。
 麻生首相は7日、東京都議選(7月12日)の立候補予定者の応援で訪れた武蔵野市のJR吉祥寺駅前で街頭演説し、弾道ミサイルの発射準備を進める北朝鮮に関し、「戦うべき時は戦わねばならない。その覚悟を持たなければ、国の安全なんて守れるはずがない」と述べ、制裁強化などで圧力を強める姿勢を強調した。
 また、民主党が海賊対処法案に反対していることについて、「ソマリア沖を通って日本にものを運んでくる船が海賊に襲われる。守るのが当たり前だ。どうしてこれが反対か理解できない」と批判した。
一昔前だったら国会が紛糾しかねない好戦的発言が、論評抜きであっさりスルーされているあたりが最近のマスコミを覆う共通感覚なのだろうか。まあ麻生氏はこういうキャラの人なので今更問題視しても仕方がない、というあきらめもあるのかもしれない。

桑田の先のパフォーマンスは別に北朝鮮に対する共感を示したものではないだろう。でも一国の首相が比喩にせよ「戦い」を口にするほど情勢が緊迫している最中に、少なからぬ人が見ている人気番組で北朝鮮生まれの民謡をのんきに歌ってみせること自体がひとつのカウンターメッセージとなりうることを、あのしたたかな歌い手が意識していないわけがないこともまた確かだと思う。憎むべきは北朝鮮を支配する独裁者でありその手先の軍隊であって、無辜の民まで嫌悪の対象にする必要はない。深読みが過ぎるとは思うが、鶴橋で在日の人々と焼肉を食らう桑田の姿にそんなことまで考えた。
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2009年04月20日

J2鳥栖―熊本戦との遭遇

以前から出張で福岡から長崎や熊本方面に特急で移動する度に、JR鳥栖駅前のでかいスタジアムが気になってはいたのだ。
今回は土曜日に用事が終わって小打ち上げをし、日曜日は帰るだけという日程だった。夜の便で帰ることにして寝坊したあげく、昼に鳥栖に立ち寄ってみた。佐賀県の地面に足を付けたのはこれが初めてだ。着地したことのない都道府県はあとは愛媛と福井ぐらいか。

特に目的は定めず、街中をぶらついて時間が余ったらプレミアムアウトレットにでも行くか、ぐらいのつもりで駅に降り立ったら、なんとちょうどJリーグの試合をやっている日だった。ラッキー。この手の偶然には弱い。あっという間にレギュラー席大人2,000円也を購入。ビールとソーセージも忘れない。
とはいえ、この日の対戦カードであるサガン鳥栖(ホームだ)もロアッソ熊本も、まったく馴染みのないクラブだ。知らない場所で知らない連中が球をこねくり回す、果たしてそんなゲームを観て面白いのかどうなのか。地元の言葉で話す地元民に前後左右を囲まれながら(といってもさほどの密度ではない)少々不安になってきた。

と思っていたら、なんと藤田俊哉が熊本にいるではないか。
最初は同姓同名の別人か、と思ったが、ピッチに登場したのは元日本代表MF、磐田やオランダ・ユトレヒトで活躍し、レッズに来るかと思いきや名古屋に行ってしまってサポーターが臍を噛んだ藤田その人であった。やや後退した前髪の生え際、旅人中田とも相通じるぴんと伸ばした背中は紛う方なく藤田俊哉である。ジーコジャパンでもっと彼が重用されていたらドイツW杯の一次リーグ惨敗はなかったかもしれない。というあの藤田である。くどいな。いつ移籍していたのだろう。

ゲーム自体はモダン蹴鞠というか、中盤付近でのボコり合いが延々続く割に点が入りそうな予感が双方ともまったくしない典型的な凡戦で、決勝点は前半ロスタイムの鳥栖DFがGKの逆を突く芸術的折り返しオウンゴールだったという冴えない結果ではあった。
それでも幾分ロアッソの方が組織的な攻撃が成立していたように見えたが、後半たったの1点差なのに攻撃にろくに人数を投入せず守りに入っていたように見えたのはどうしたことだろうか。鳥栖のオフェンスが思いっきり見くびられていたのかも。
鳥栖のホームゲームにもかかわらず、ゴール裏のクラブシャツを着たサポーターの人数や大旗の数はロアッソの圧勝だった。熊本から鳥栖はすぐ近くだし、人口の多い県だしなあ。

ともあれ、そんな混戦の中でも、背筋を伸ばした藤田の存在感は際立っていた。攻撃的MFとして熊本の3トップの下に入り、両軍の中盤が慌て気味にボールを交換する中でも冷静にサイドチェンジや短いパスで的確に仕掛け、着実にボールに絡んでいた。ふだんの出来と比べてよかったのか悪かったのかはわからないが、素人目にはJ1でも十分通じるように思えて、何だかもったいないようなありがたいような、そんな感じがした。たぶんそれは感動に近いものだ。
藤田が後半30分過ぎに交代してからは、ハンディをもらったのか鳥栖が押し気味になったが、決定力のなさは最後まで変わらなかった。

夏を思わせるような日差しの下、ビールを飲みながらのんびり観るサッカーの試合は、内容はともあれ思いの外面白かった。
ひとつには先に書いたようにスタジアムが鳥栖一色でなかったことも影響しているだろう(九州ダービーと称していた)。双方の駄目なプレーに等しく失笑が漏れるような雰囲気。ゴール裏以外の観客が皆ゆとりをもって観戦している、というのは本来ホームチームにとってはあまり喜ばしい状況ではないのだろうが、一見の観客にとっては変な応援を強要されない方が喜ばしいことは言うまでもない。

ということでチーム的にもサポーター的にも鳥栖のJ1昇格はいろいろ難しそうだけど、まあみんな頑張ってくださいという感じ。
今後ベストアメニティスタジアム(略称ベアスタが何の略か初めて知った)の前を通ることがあったら、この試合での藤田の姿勢の良さを思い出すことだろう。
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2009年04月11日

「おくりびと」の評価が高すぎないか


もうDVDも出ているのに、アカデミー賞外国語映画賞受賞でリバイバル上映が未だに続いている「おくりびと」を今更ながら観てしまった。
たまたま山形方面に出張していてたまたま時間が空いたので、まあご当地映画(出張先は酒田ではなかったが)を観るのもよかろ、と入ってみた。いちおう賞ももらってるしそれなりの作品なんだろう、と期待して。

二時間強経過。金返せ時間返せ、とは思わなかったが、そんなにすごい映画なのかこれ、とは思った。
ストーリーの煮詰めの足りなさお手軽さに、よくも悪くも普通の日本映画だな、という印象を受けた。薄味ゆえ大きな破綻はなく安心して見ていられるが、それ以上の内容ではない。

たぶん、海外公演を行うほどのオーケストラが予告なしにオーナーの一声で解散してしまうという最初の方のエピソードで「おやおや」モードに突入してしまったのが原因だろう。後半に出てくる河川敷でチェロを弾く場面のためにチェリストにする必要があったのかもしれないが(しかし楽器痛むぞ)、そのへんからして既に地に足の着いていない映画ではなかったか。まあ全体のコンセプトからしてファンタジーなんだろうけどさ。そう思えば視界が閉ざされた雪道を走る場面が最初に配されたのにも何となく納得が行く。

しかしそういう映画がなぜか米国で「いかにも外国の現実を描いた作品だ!感動!」と評価されてしまったことがどうも不思議でならない。というか何だか居心地が悪い。彼らの日頃思っているニッポン像とどこかシンクロするところがあったのだろうか。作中にばらまかれた生死と性愛、食べることのほのめかし程度のリンクを深読みしすぎたとか。まさかなあ。

キャストに関しては大きな不満なし。
山崎努は山崎努がやる以外ないような役を割り振られてしっかり山崎努をしていた。ハリウッド映画で得体の知れないニホンジン役が必要なときにはぜひ抜擢してほしいものだ。広末も相変わらず広末だがもっと体当たり演技しなさい体当たり演技を。ぱんつぐらいではいかん。
本木雅弘は相変わらず脱ぐのが好きだねどうも、という感じ。チェロの運指を頑張って覚えたらしいのはえらいと思った。でも実年齢より十歳ぐらい若い好青年役を今後も続けるつもりだとしたら、それはちょっとな。個人的にはかつてギャツビーのCMで演じていたような胡散臭いダンディ路線で映画に出てほしいものです。

ともあれ確かに平均点以上の作品ではあろうが、どうにも軽すぎる。今の世の中、「おくりびと」にこれほどまでの賛辞を送りっぱなしでいいのだろうか。とか言う自分も世評に釣られて見に行ったようなものだからアレだけど。
ここで言うのはお門違いだし日本の市場がそれを求めていないと知りつつも、ハリウッドの重量級ボクサーと互角に打ち合えるようなごつい映画、一度観たら三日ぐらいずしーんと衝撃を受けっぱなしの映画、そんな作品の出現を期待して止まない。
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2009年04月08日

ラーメンズ「Tower」を観に行く


前に生ラーメンズを見に行ったのはいつだったか、と指折り数えて四年前であることに共学。一緒に学んでどうする。驚愕した。誰と行ったかは忘れたが(だめじゃん)、内容はよく覚えていた。前回同様、下北沢は本多劇場にて。もちろん満員。テレビに出なくとも(片桐仁はちょくちょく顔を出したり樹木になったりしているが)相変わらずの人気ぶりだ。

「Tower」をキーワードにした今回の公演も、四年前と同じくラーメンズならではの舞台を堪能できた。基本的にお笑いよりは演劇の人たちなのだろう、最小限の装置と小物でマイム的所作を交えて暗黙の約束事をその場で作っては壊していく展開が心地よい。
今回の舞台で言えば、小林・片桐それぞれが乗っている箱を相手が視線を逸らしているうちには奪ってもよい、というルールをまず成立させ、そしてあっけなく裏切るのだ。あるいは重々しく響く天の声には従わねばならない、と思わせておいてあっさりスルーしたり。何言ってるかわかんないなこれじゃ。ともあれ粗筋を書いても台詞を引用してもその面白さの一割も伝わらない、そんな舞台だ。荒唐無稽ではあるが、最後にその日の演目をリプライズする演出もあって、何かひとつのまとまったドラマを観たような気にさせられた。

連れに誘った女子の人は初めてのラーメンズだったが大喜びしてくれた。終演後居酒屋で話し込んでしまい二人とも終電を逃したが、大人なのでちゃんとタクシーで帰る。
ラーメンズをきっかけに神泉あたりで不届きなことをしようものならきっと天空から声が降ってきて神罰が当たるだろう。善を施しただけでおじさんは満足なのだ。誘う勇気がなかったことは内緒だ。

どうでもいいことだが、小林賢太郎がピアノに見立てた箱を弾く場面(天の声の「だんだんだんだん」は最初b-a-c-h音列かと思った)で見事なハイフィンガー奏法を披露していたのが印象的だった。きっと育ちのいい子供だったんだろうなあ。途中に出てくる手品ネタといい、本当にあの器用さはただ者ではない。

片桐仁の特異なキャラクターは今やCMやらドラマやらに引っ張りだこだが、どうか日本のコントの宝であるラーメンズとしての活動を今後も末永く続けてほしいと思った。共同生活するタワーおたくが相手の心変わりにおびえるコント「つるちゃん」(仮称)に、かつての「公園」(コントの相方が次々変わるとどうなるかをネタにした、いわばメタコント。説明になってないか)と同じにおいを感じた。
これからもお笑いの好きな女の子を誘って年一回ぐらいは本多劇場に行きたいものだ。早くも次回公演が楽しみ。
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2009年03月03日

「クローバーフィールド」を遅ればせながら観る


またもや投宿先のホテルでの低画質VODにて視聴。しかしこのうさんくさい偽ドキュメンタリーはそうやって観るのがもっとも似つかわしかったと思う。深夜に手持ちぶさたで点けたテレビ画面にて出会うべき映画。なんだかそういうものばかり観ているような気もするが。

突然災厄に襲われたNYの街で、木口小平は逃げ惑いながらも家庭用ビデオカメラは死んでも手放しませんでした、というお話である。←未見の人は信じないように。
で、公開当時にも言われていたことだがこのカメラの画像がゆれるゆれる。映画館の大画面を見上げて観ていようものなら「スピードレーサー」の百倍ぐらいゲロを吐きそうになったのではなかろうか。露出不足やオーバーで状況がまるでわからないのも、仲間が何ものかに襲われる様子をきちんと撮影しないのも、なにぶん素人が逃げるのに必死なのでやむを得ないのである。低予算映画(ではないらしいが)的なうまい言い訳だね。
ただ、素人がビデオカメラを持って撮りながら逃げるという大枠ゆえの映像的限界も当然あるわけで、消し忘れビデオを挟み込むなどの工夫はあったものの、正直この長さを全部カメラ一台でやるというアイデアはきつかったような気がする。テレビで流し見をするのが健康のためにも飽きないためにもちょうどよかったと思う。

パニック映画を災厄をもたらす側かそれを倒す側の立場でなく無力な被災者の視点だけで描き切るという着想を一本の映画に仕立て上げた腕力はなかなかのものだが、結果として気が滅入る場面ばかり(実際にそういうことが起きたらそうなるんだろうけど)連続したのはエンタテインメントとしてはいかがなものかと思ったり。
単調さを補うためか、制作者らは公開当時、映画の外にも前日談を含む物語があるようなプロモーションをしていたらしい。思わせぶりな映像をYouTubeに撒き、関係している企業のフェイクサイトを作り云々。まあそれを知ったからと言って中身に対する評価が変わるわけではないが。映画は映画館にかかっている時間分の映像で世界を表現し尽くすのが当然だと思う。→タグルアト - Wikipedia
きょうびの視線が拡散している消費者を惹きつけようと、映画もいろいろ新しい趣向を凝らさねばならず大変なのであろう。しかし最後のあの水ぼっちゃんが災厄の正体、というところには正直ついて行けない感じがしましたわたくし。

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2009年03月01日

涙は出ないけど「チェンジリング」はいい映画なので見に行くべきである

およそ親たるもの、理由がわからないまま子供を奪われること以上の恐怖はなかろう。前宣伝や予告編などでクリント・イーストウッドの「チェンジリング」がそういう物語だと知って映画館に赴いた我々は、だから映画の冒頭、失踪する前の独り息子の仕草ひとつひとつを食い入るように見つめる。アンジェリーナ・ジョリー演じるシングルマザーが子供と結ぶ手と手、路面電車の中から見送られる子供の姿、背丈を測った柱の創。手数の少ない禁欲的なピアノ、押し殺した声のような消音ホーンの旋律(作曲もイーストウッド)は、まもなく訪れる不幸の予感をそそるかのようだ。
そして、当然ではあるが予告されていた粗筋通りの事件が起きる。

だが不思議なことに、絶望のどん底に突き落とされないのだ。主人公である母親のみならず、観客である我々もまた。
「子供はどうせ生きているに決まっている」という先入観があるからでも、主人公を襲った災厄の描写が甘いからでもない。劇中描かれるLAPDの恐るべき杜撰な捜査態勢に怒りを覚えない人はいないだろう。そして子供を狙ったシリアルキラーの関与が判明し、不幸の予感(この時点で既に不幸そのものだが)はいよいよどす黒く染まる。しかし事態が絶望的であるほど、母親はいよいよ強くなっていくのだ。自分が子供を必ず取り返す、というほとんど狂気にも似た信念と共に。

changeling.pngこの絵柄を採用したのは日本だけではないのかもしれないが、アンジェリーナ・ジョリーが頬に一筋涙を流す宣伝ポスターは、この映画をお涙頂戴ものとして売り込もうとする映画会社の思惑が反映したのだろう。
changeling2.png対して、全米の劇場展示限定で作成されたというポスターでは、むしろアンジーのアップが子供の大きさに比して異様に見えるほどのアンバランスなデザインになっている。
実際、この映画に涙は似合わない。子供の行方を求めて奔走し、挙げ句の果てには手がかりになる言葉を聞き漏らすまいと殺人鬼の絞首刑の模様まで凝視する母の姿は、たぶん単純な母子愛の物語という枠組みでは回収できない強さを映し出す。

だが、その極端さをも含めてイーストウッド監督が描き出した人間像は感動的だ。警察の不始末を揉み消そうとする公権力に対してフォー・レター・ワーズ(四文字言葉)を口走ることも厭わない、綺麗事だけではない執念をも含めて、イーストウッドは追いつめられた人間の強さを全的に肯定する。そこには同情の涙の介在する余地はない。
実話に基づくこの事件が結局どのような顛末をたどったかは、ぜひ映画館で観て深く溜息をついてほしい。常套句で恐縮だが、イーストウッド映画のいぶし銀の味わいは劇場を離れてからも深く重く残る。
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2009年02月10日

「スピードレーサー」に涙した


出張先のホテルで上映されていた「スピードレーサー」を観たのは、他のVODがろくでもない熟女ポルノとかろくでもない痴漢ものとかろくでもないものばかりだったための消去法的選択だった。公開時の悪評(たとえば超映画批評『スピード・レーサー』40点(100点満点中)とか)も記憶に新しかったので、あまり期待せずビール一缶飲み終わったら消すか、ぐらいの感じで画面を眺めていた。
ぜんぜん違った。高出力電波ゆんゆんのカルト映画と言うべき仕上がりで、確かにこれを受信する仕様のアンテナは少ないかもしれないが、ひとたび受信してしまうとそこには紫色の桃源郷が広がっていた。人の言うことを頭から信じてはいけない。


オリジナルの日本製アニメ「マッハGoGoGo」は1967年制作だから私がテレビで見たのは再放送以降だが、越部信義によるあの魅力的なテーマソング(ドーミーソー、ソードラーソーミミミミレドーミーってやつだ)はしっかり脳裏に染みついて離れなかった。どうやら米国版テレビアニメでも歌詞だけ替えて同じメロディが使われていたらしい。そして今回の実写映画でも、このテーマが最初から最後まで様々な変奏のもとに繰り返されるのだ。これがもう琴線触れまくり。世界の子供たちがあのメロディに心躍らせていたのだ。これだけでも原作アニメに対する深い敬意が窺われた。ストーリーもアニメの設定を忠実になぞっていたと思う。ちゃんと猿もいたし。
ウォシャウスキー兄弟はおそらく自分たちを含む元少年少女への贈り物としてこのアニメライクな実写映画を手がけたのだろう。現代の観客に受けるかどうかは二の次の問題だったのではないか。

おそらく劇場の大スクリーンでは、激速のレーシングカーが紫の影を落としながらめまぐるしくクラッシュしまくる画面は相当しんどかったかもしれない。だが、テレビ(大画面ではあったが)で鑑賞すると細部の解像度が均されることもあってが伝えられていた荒唐無稽さはかなり減じて、ちゃんと物語を追いかけることができた。決して原作の世界を破壊するものではなかった。
ハンドル中央部のボタンなど、子供の頃垂涎の的だったマッハ号の仕様がちゃんと再現されているのには涙するしかない。そう、こんな車に乗りたかったんだよ僕たちは! なぜ大人になってもマッハ号が買えないんだ! 自動車産業は反省しろ!

繰り返すが越部信義の音楽は本当に素晴らしい。専らテレビや子供のための歌を半世紀作り続けてきた彼の業績は、いわゆる芸術音楽の作曲家のそれに優るとも劣らないものだ。「みんなのうた」などでたまに耳を惹きつけるメロディに出会うと、作曲者が越部氏だったりすることはしばしばだった。これを機会に、国境を越えた稀代のメロディーメーカーに今まで以上に光が当たることを願ってやまない。
そしてウォシャウスキー兄弟のように、原作に対するリスペクトをもったアニメの実写化が我が国の制作者によっても為されてほしいものだと思った。間違ってもデビ(以下略
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