2005年11月04日

最高です大井さん!

ピアノソロパートが最大16声部という部分ばかりが喧伝されすぎたきらいのあるクセナキスのピアノ協奏曲「シナファイ」の演奏で知られる、当代最高にして最強に強まっていると思われるピアニスト大井浩明さんが、自分のブログ「閘門ブッコロリ」でストリーミング音源をがんがん公開していると知る。いやまったく、これは宝の山ですぜ。

とりあえずは井上道義+新日フィルのオール日本代表「シナファイ」を聴いて内心「うおおおおお」と叫ぶ。まったくいい世の中になったものだ、と手放しで絶賛。
次は必ず実演を聴きに行かねば。
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2005年08月25日

The Lost Gaucho

Gaucho OuttakesBigO Worldwideというサイトで、スティーリー・ダンの名作「ガウチョ」のアウトテイク集が公開されている、と友人から教わる。前からブートレグで出回ったりしていたものらしいが、極めて高音質のファイルがアップされていたので大喜びでまとめてダウンロードする。

サイトでは前作「Aja」からリリースが3年あいてしまった事情などが簡単に触れられていた。限界まで研ぎ澄まされたようなクールさが魅力な「ガウチョ」だが、このアウトテイクを聴いていると、選曲とレコード会社との関係の成り行き次第では、もっとウェットなアルバムになった可能性もあったことも想像できる。
そして完成度を極めるかわりにこの方向でスティーリー・ダンが続いていれば、80年代に彼らはさらに多産な活動をしていたかもしれない。もっとも、その場合は2000年になってからの鮮やかな復活もなかっただろう。

「ガウチョ」となるアルバムに収められるはずだったポップな佳曲「Second Arrangement」のOKテイクを消してしまった、名前が明らかにされていないアシスタントエンジニアはその後どうなったのだろうか。まさか音楽業界から追放されてはいないだろうな。でも、彼がもしそのミスをしていなければ、21世紀にスティーリー・ダンが活躍していることもなかったかもしれない。……と音楽を聴きながらバタフライ効果的妄想に浸ってみた。
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2005年05月30日

バルトーク・ピアノ協奏曲集(ブーレーズ指揮)

バルトークが1920年代にソロピアニストとしての演奏旅行に臨んだとき、自作の協奏的作品は約20年前に書いたop.1の「ラプソディ」ぐらいしかなかったのが、第1協奏曲が作られたきっかけだったそうだ。
とファンなら誰でも知っている話(おなじみポール・グリフィスによるライナーでもまたこのエピソードが書かれていた)を改めて思い出したのは、今回のブーレーズ盤が、ソリストの技巧を披露することよりも、まず楽曲の全体像を余すことなく聴かせようという主張を前面に打ち出しているように思えたからだ。まあソリストもオケも全部違う組み合わせのカップリングなのだから、最初から何かしら狙いがあるのだろうと思っていたが、実際に聴いてみたら想像以上に徹底していた。

全3曲を通じて管弦楽、特にピアノとかぶる木管アンサンブルや弦の細かいパッセージが丁寧に浮き彫りにされ、「あ、こんな音入っていたんだ」と驚かされることがしばしばだった。反面、ピアノはあくまでもアンサンブルの一員として活用され、指揮者であるブーレーズの完全なコントロールの下に置かれた印象が強く、破綻のなさがむしろ物足りないという、無い物ねだりのような不満も感じた。表ジャケットには当然のようにブーレーズひとりの写真しか載っていない。
題名に反して実はピアノが大活躍する「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」の演奏会でピアノパートの演奏を乞われた際、「協奏曲ではないから」と出演を断るほどピアニストとしての矜持が強かったというバルトーク自身が、もし今生きていてこのセッションでソリストに招かれていたら、果たしてどうなっていただろうか。結構気難しい人だったらしいしなあ。

ピアノ協奏曲1、2番については若き日のポリーニがアバド指揮シカゴ響と録音した盤があまりにも有名だ。それ以前にも幾多のヴィルトゥオーゾがレパートリーとして取り上げてきたものの、このディスクで聴かれるポリーニの打楽器志向に振れた演奏があまりにも雄々しくすばらしかったため、「バルトークはガンガン行けばイイっス!ガンガンっす!」という印象が広まってしまった感は否めない。
冷静に聴くと緩徐楽章などで歌うべきところは結構歌っているのだけど、それ以上にリズムのエッジが立った鋭角的な表現が刺激的だったのだ。何せ1番の単純なオクターヴ連打のテーマだけでも「なんであんなにピアノが鐘のように深く鳴るんだよう」と惚れ惚れし、3楽章で両手がハチャメチャに踊りだすところは体が動く動く。2番アレグロ楽章の16分音符で八重和音をばりばり叩き出す様子は、ライブで見られたら絶叫しそうなぐらいかっこよかったに違いないだろうし、2楽章中間部のプレストの鬼気迫る演奏はもう神業としか思えなかった。95年のブーレーズ・フェスでポリーニによる2番が実演される予定だったのがプログラム差し替えになったとき、悲嘆に暮れた人は多かったろう。
ちなみに同じときバレンボイムが弾いた1番(そういえばこのオケもシカゴ響だった)は、指揮者とピアノのどっちが先に落ちるかという意味での緊張感あふれる演奏だったように記憶している。こういうのは要りません。

おそらくポリーニ盤の対極にあるのが、イヴァン・フィッシャーとコチシュが一緒にやっていたころのブダペスト祝祭管弦楽団によるディスクだろう。フン族代表純粋マジャール連合によるこの演奏は、断片が残存するバルトーク自身のライブ録音をコチシュがよく聴いて勉強したらしい成果が随所で発揮されており、特に2番のアダージョでの、市販されている楽譜とまるで違うアクセントのつけ方は「マジャールのリズムはこうなのだ」という、単なる解釈を超えたある種の民族的主張さえ感じられる。テンポの独特な緩急も「バルトークを本当にわかるのはわしらだよ(字余り)」という親密さの表れなのかも知れない。でもそれが感動に結びつくとは必ずしも限らないわけだが。

つまらん昔話が長くなってしまった。
ブーレーズの今回の演奏はどちらよりでもない。というかブーレーズ指揮の常ながら、余計なニュアンスは極力加えず、ソリストやオケの得意技にも阿らず(時代が違うので単純な比較はできないが、ポリーニ盤の方がシカゴ響の金管は華やかに鳴っていたように思う)、楽譜に書いてある音をきっちり全部鳴らして聴かせているに過ぎない。
だが、前述したようにピアノの陰でマスクされがちなフルートの震える装飾的フレーズ、ピアノの和音が上行する中逆に降りてくる低音のピチカートなどが丹念かつ効果的に拾い上げられているのは見事としか言いようがない。既発売の管弦楽曲集でもブーレーズはバルトークのスコアから多様な色彩を引き出して見せてきたが、ピアノ協奏曲という、オケに匹敵する音量を叩き出すソリストの音ばかりに耳が向き、管弦楽はただの伴奏に甘んじかねない分野の作品においても、裏では緻密な計算がなされていたことをブーレーズは丁寧に種明かしして見せる。

従来のバルトーク像は、民謡のエッセンスを作曲の基礎においたという側面や、数列や幾何にヒントを得たのでは、とされている音列やリズム(証拠はない)の革新者という顔が強調されている。もちろんそれはいずれも間違いではないのだが、今回のようにオーケストレーションにも焦点を当てた演奏を聴くと、実はラヴェルのような管弦楽を用いた音響の設計者としても大変な仕事をしていたのではないか、と改めて思わされる。
管楽器のカノンがピアノソロの後ろから自己主張するかのように突然噴出して空間を埋めつくすあたりやフルートがエコーのように高音域を飛び回るのを聴いていて、ブーレーズ自身の「...explosante-fixe...」などを思い出したりもした(趣味なんだろうなあ)。実際、ブーレーズは作曲家としてバルトークから多くのものを受け継いでいるに違いない。
習作以外にはシンフォニーを手がけなかったことなどもあって、管弦楽作曲家としての技巧はあまり注目されていないように思われる(勘違いだったらすみません>故バルトーク氏はじめ関係各位)バルトークの再評価を促す1枚になるのではないか。
もちろん、実演では聞こえない音をマイクで拾って浮き立たせている録音ならではの作品であることも考慮に入れる必要はある。実際、2番は1楽章がピアノ+管打楽器、2楽章アダージョはピアノ+弦打楽器というふうに編成が大きく変わるため、最適なバランスをコンサートホールで得るのはきわめて難しいように思う。これまでに聴いた実演はいずれも不満足な出来だった。

ピアノ協奏曲のレヴューなのに、ピアノについてほとんど何も書いていないことに気づいた。総じてスコアにのっとった正確な演奏。リズムを打ち出しつつも、巷間言われてきた打楽器的イメージが薄いのは、全体に録音が低音部の響きを抑え気味にしているからだろうか。
自分亡き後の妻の生計を支えるために書かれた遺作3番は、技術的にはそれほど難しい曲ではないらしいが、グリモーの演奏は音の粒が美しく、淡々と感情を抑え気味に流れを追っていくのがむしろ好ましい。特に2楽章では、こっちの勝手な思い入れだろうけど未亡人の面影を彷彿させる。簡単簡単と言われているけれど、もちろんそれはプロレベルでの話で、たとえば3楽章ってちゃんちゃんばらばら結構大変なことやってるじゃん、と改めて思ったりする。演奏は近年の改訂版に基づいているらしく、バルトークが死ぬ前に書き損ねた3楽章コーダ部分の伴奏が強化されている。
2番のアンスネスは初めて聴くピアニストだがひたすら軽やか。ブーレーズの意向(勝手な想像だけど)も関係しているのかオケとの親和性が高い弾きっぷりで、楽曲のコンチェルト・グロッソ風味を一層際立たせている。カデンツァでもテンポは大きく動かさず、「もっと大見得切りたくないのかなあ」と余計な心配をしてしまう。でもこういう演奏に徹するからこそ、2楽章中間の時計細工のような緻密なフレーズの受け渡しが生きてくる。ポリーニの演奏が闇の中の祝祭だとしたら、アンスネスのはからくり時計のようで、歯車がからから回ったあげく最後にアラームがチリチリチリチリチンと鳴っておしまい、という趣向。もちろんこれは褒めているのだが、同じ曲がこれほど違う容貌になるとは思わなかった。

しかし最大の驚きは、やはり1番だろう。ディスクのスタートボタンを押して冒頭のホルンの咆哮を期待していたら、これが「ぷわー」と結構情けなくて、ここでまず「あれ?」となる。第1主題の後ろのトゥッティのアクセントも何だか控え目。そして肝心の野蛮の極みと思っていたピアノを、これほどスマートに演奏されてはまったくかないません。ツィメルマンは歯切れが良すぎるほど音を短く切り、すかすかのピアノの隙間からあの手この手を繰り出す管弦楽の姿が透けて見える。1楽章をmidiで打ち込んだことがあり、そのときから様々な音が乱舞するのを怪しいと思ってはいたのだが、この曲もまた掛け合いの妙にあふれた曲だったのだ。これまで1楽章ではコチシュ盤の偽再現部に至るところの追い込み方が好みだったのだが、ブーレーズはここで躊躇せずアクセルを踏み込み、ピアノもオケも汗の臭いをさせずに速度を上げる。快演である。

長くなってしまった。感動は多少色あせたものの、多分私はポリーニ盤を今後も変わらず愛聴するだろう。初心者に薦めるにはあの熱気の方がいい。
だが、興奮と対極の理知的な演奏を示したこのディスクもまた、バルトークの演奏・解釈のリファレンスとして聴き続けることになると思う。まだ知られていなかったバルトークがここにはある。
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2005年02月04日

Everything must go

photo_diary_91_0_8379100_132.jpg迷走シリーズの最後は多摩地区だった。
仕事を終えて帰社途中、地下鉄に乗り換えようと私鉄を下車する。

乗り換え口までの間で、CDショップが店じまいセールの掲示を出していた。時間もないのに、ついふらふらと立ち寄る。

CDばかりではなかった。DVDもあったが、むしろVHSビデオが多かった。棚の裏に回るとレーザーディスクが大量に在庫していた。
店の奥まで歩みを進めると、そこには果たしてアナログレコードがたくさん待っていた。
ブルーノ・ワルターやダヴィッド・オイストラフが吹き込んだ(という表現がこの際ふさわしかろう)12インチ33回転レコードが、現役の商品として売られていた。

何かの縁だし買っちゃおうかな、とふと思ったが、考えたら我が家にはフォノ入力のあるアンプなどないし、そもそもターンテーブルだってない。
で、意味無く「魔女の宅急便」のDVDを買ってしまった。店番のおじさんは相好を崩し、3割引の上端数もおまけしてくれた。

オイストラフの録音は、アマゾンで検索したらCDが1,709円で見つかった。多分、アナログ時代の価値ある音源は既に余さずCD化されているだろうし、いずれはSACD、DVD-Audioその他の媒体に転写されて永らえるのだろう。もとの録音よりも「いい音」にする技術も遠からず確立されるに違いない。
DJならぬ我が身には現在、アナログレコードを買うことに、30センチ四方の美麗写真を手元に置いておく以上の意味はない。

でも心が騒ぐのは、おそらく小さいときの記憶のせいだ。
新しいレコードを買ってきて最初に針を落とすときの言葉に尽くせない高揚。鈍い光沢を放ち微妙な厚みを備えた円盤を、両手の人差し指(力を入れすぎても抜きすぎてもいけない)で支えるとき、多かれ少なかれ人は儀式の司祭になった。
音盤に入っていたのはデータだけではなかった。壊れやすさ、失われやすさはそれ自体が価値だったのだと思う。

別にベートーベンもモーツァルトもほしくはなかったけど、後ろ髪を引かれる思いで店を出た。3月の閉店までにまた来る機会は、多分ない。
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2005年01月21日

女王陛下のピチカート・ファイヴ(Pizzicato Five)

ラーメンズの舞台開演までの時間潰しに下北沢散歩をしている間に、中古CDショップで初回盤を見つけて購入。どういうわけか、再発盤は収録曲が減っているのでコレクションとしての価値は高い。別に転売目的ではなくて聴くために買ったんだけど。

このアルバムは既に一度買ったことがあるが、家のどこかに転がっているか、引っ越し続きのうちに紛失したか、あるいは渡した相手が取り返せない相手になってしまったか、事情はともあれしばらく聴いていなかった。探したり気の進まない電話をする手間を費やすより新たに買ってしまうのは怠惰な大人の特権だ。

田島貴男の音楽的趣味やソウルフルなボーカルはピチカート=小西路線とは微妙にずれていて、「女王」がキーワードなのになんで「トップ40」が出てくるんだ、などとところどころで齟齬はあるのだが、一方このアルバムではそのミスマッチが魅力になっている部分も多い。
``TVAG"やオリジナル・ラブのレパートリー``夜をぶっとばせ"などは、この時期のピチカートならではの佳曲だ。

「東京タワーの下で一晩中キスしてたのを覚えてる?」(恋のテレビジョン・エイジ)などというフレーズに、ふと耳を欹てたりする。「ひどく遠い天国」から、さらに遠く離れてしまった。
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2005年01月15日

Piano Concerto / Where the Bee Dances(Michael Nyman)

``The Piano Concerto"のタイトルは、映画``The Piano"(邦題「ピアノ・レッスン」)から成立していることにも由来する。
挿入曲の主題をもとに構成された30分ほどの4楽章(切れ間なく演奏される)の協奏曲。
``Where the Bee Dances"(密蜂の踊る場所)も映画「プロスペローの本」の音楽がオリジナル。いずれの映画も未見だが、音楽のドラマティックな性格は、映像のために作曲された素材が出発点であることと無縁ではないだろう。

平易ななじみやすい音形の反復からクライマックスへと導く手法は2作に共通する。ただ、その向かう先は対照的である。
「蜜蜂」は蜜のありかを仲間に教える蜂の軽やかな飛行(独奏サックスの吹くテーマを低音部で弦がなぞる様子などはきわめて映像的だ)を彷彿させ、歓喜の中で曲を閉じるのに対し、「協奏曲」は民謡調の主題の交錯の中で悲劇がその度を深め、押し流されるようなラストへと至る。執拗なミニマル的効果は運命の抗い難さを表すかのようだ。2楽章「森」の主題の深い嘆きがとりわけ印象に残る。

演奏はNaxosではおなじみの湯浅卓雄指揮のアルスター管弦楽団で、ソリストはサックスがサイモン・ハラームでピアノがジョン・レネハン。これ以外の録音を聴いたことがないので出来について比較はできない(ピアノ協奏曲は2004年に日本でも演奏されていたらしい。聴き逃して残念だ)が、変拍子の多いスコアをよくこなしてドラマを象っていたように思う。それぞれ他にも録音はあるが、この安価なディスクでも音楽の魅力は十分楽しめる。買って決して損はないだろう。
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ROMANTIQUE96 (Pizzicato Five)

Pizzicato Fiveのみならず、ここ10年のJ-POPで最高のコンセプトアルバム。
様々なスタイルのサウンドで、恋人たちの幸福な日々が終わるまでを水が下流へ流れていくように描ききった小西康陽の手腕は、いつにも増して素晴らしい。
個々の楽曲の充実もさることながら、全体を貫くコンセプトが光っている。アルバム冒頭を飾るクラシカルで大仰な弦楽合奏が後半に思わぬところで再現される場面には、何度聴いても鳥肌ものの感動を覚える。

野宮真貴は基本的に歌のうまさより存在感で聞かせるタイプ(本アルバムでは「キャットウォーク」路線など)だと思うが、「トウキョウ・モナムール」「悲しい歌」での情感あふれる歌は、P5であとにも先にもなかったパターンだ。
作曲家と歌手の頂点がシンクロした、奇跡的な傑作だと思う。
posted by NA at 09:30| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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