2007年01月26日

独白するユニバーサル横メルカトル(平山夢明)

短篇集。小説としてはそれぞれ工夫が凝らされており、最後の一編を除いては関心を持って読み切ることはできたのだけど、作中で人体を毀損する小説が当たり前になりつつある現実に少し暗い気持ちになった。(未完)
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2007年01月18日

彼女はたぶん魔法を使う(樋口有介)

彼女はたぶん魔法を使う
樋口 有介
東京創元社
売り上げランキング: 67668
おすすめ度の平均: 3.5
4 さわやかな「中年男性願望充足ファンタジー」
2 消化不良・・・
4 中年男の・・・探偵像。共感、羨ましい

出張のお供に軽めのミステリーでも、と思って読んだ。
まだバブルの余韻を引きずっていた頃の小説だからかなあ、何というかめでたい。めでたすぎる。幸せな世界なのだ。
中年男の願望充足のためか「魅力的」という設定の娘っ子がいっぱい出てきて実にめでたい。リアルかどうかはこの際問わない。事件の構図はゆるいし私立探偵の主人公が話を聞いて回った全員が事件にかかわっていて大当たりなのもめでたい。こういう小説を再度文庫化する東京創玄社も太っ腹でめでたい。景気がよくなってきているからなんでしょう。きっと。
おとぎばなしがないと眠れない中年男は読むといいと思った。
ラベル:樋口有介
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2007年01月15日

ちいさな王子(サン=テグジュペリ)

サン・テグジュペリ - Google 検索 : 約 329,000 件
サン・テグジュベリ - Google 検索 : 約 774 件
サン・テクジュベリ - Google 検索 : 約 185 件
サン・テクジュペリ - Google 検索 : 約 9,760 件
サン・テグシュペリ - Google 検索 : 約 21 件
サン・テグシュベリ - Google 検索 : 2 件 (さすがに「約」はつかなかった)

いやまあ、そんなことはどうでもいいんですが。

以前に世界の「星の王子さま」というエントリを書いてから一年余。次々と現れた新しい訳書は本屋の店頭で拾い読みはしたのだが、目移りして結局何も買わなかった。ラーメン横丁でさんざん迷ったあげくラーメンを食わないようなものか。それが先日何かの弾みで野崎歓訳の光文社古典新訳文庫版「ちいさな王子」を手に取ってつい買ってしまった。

それ自体古典となってしまった内藤濯訳の岩波版星の王子さまとどう変わっているか、読み比べてみた。印象深いキツネとの別れのシーンの原文はこうだ(www.odaha.comのAntoine de Saint Exupery ≫ Le Petit Princeより)。
Ainsi le petit prince apprivoisa le renard. Et quand l'heure du départ fut proche :
-Ah! dit le renard… je preurerai.
-C'est ta faute, dit le petit prince, je ne te souhaitais point de mal, mais tu as voulu que je t'apprivoise…
-Bien sûr, dit le renard.
-Mais tu vas pleurer! dit le petit prince.
-Bien sûr, dit le renard.
-Alors tu n'y gagnes rien!
-J'y gagne, dit le renard, à cause de la couleur du blé.
ここでの内藤訳は以下の通り。振り仮名入力には「GIFアニメ工房」さんのルビ振りスクリプト(ルビタグ作成)ページを利用させていただきました。多謝。
 (おう)()さまは、こんな話をしあっているうちに、キツネと(なか)よしになりました。だけれど、(おう)()さまが、わかれていく()(こく)(ちか)づくと、キツネがいいました。
 「ああ!……きっと、おれ、()いちゃうよ」
 「そりゃ、きみのせいだよ。ぼくは、きみにちっともわるいことしようとは思わなかった。だけどきみは、ぼくに(なか)よくしてもらいたがったんだ……」
 「そりゃ、そうだ」と、キツネがいいました。
 「でも、きみは、()いちゃうんだろ!」と、(おう)()さまがいいました。
 「そりゃ、そうだ」と、キツネがいいました。
 「じゃ、なにもいいことはないじゃないか」
 「いや、ある。麦ばたけの色が、あるからね」
一方の野崎訳はというと。
 こうして、ちいさな王子はキツネをなつかせていったんだ。やがて、出発のときが近づいた。
「あーあ……。ぼく、泣いちゃうだろうな」とキツネがいった。
「きみのせいだよ」とちいさな王子はいった。「きみをつらい目にあわせるつもりなんかなかったのに。きみが、なつかせてくれってたのんだんだよ」
「わかってるさ」
「それでも泣くんだね?」
「そうとも」
「それじゃ、なんにもいいことないじゃないか」
「そんなことないよ。だって、麦畑の色がある」
王子とキツネの関係が何を意味するかについては様々な深読みがされているが、童話調を排し多様な解釈を可能にする野崎訳と比べて、読点の多い内藤訳はなんだか至極ゆったりしている。キツネの応答の繰り返しは原文通りだが、日本語で「そりゃ、そうだ」となるとどこかユーモラスな雰囲気が漂う。

野崎訳のシャープな文体は魅力的だ。だが、私が好んできた内藤訳の世界からそちらに移り住もうと思わせるものでもなかった。ひとつには苦心の「ちいさな」という平仮名の訳語をむしろ目障りに感じてしまったこともある。漢字を使わずあえて平仮名でニュアンスを込める江國香織メソッドは、嫌いというより苦手だ。

日本で長年親しまれてきた童話としての「星の王子さま」は「Le Petit Prince」とは別物、もしくは作品の一部の側面しか見ていない、という立場からの批評的分析がなされて久しい。今更私が訳を比較するまでもなく、たとえば「星の王子さま」総覧というサイトを見ているとあまりの情報量の多さに目が回りそうになる。有隣堂のサイト情報紙『有鄰』No.397の対談も門外漢には目新しい話がいろいろ出ていた。
そうですか愛人と別れて本妻のもとに戻る描写とも受け取れるわけですか、みたいな読み方は、しかしあまりしたくない気がする。小さい頃「ああ!……きっと、おれ、泣いちゃうよ」というくだりを読んだとき、その言葉自体の澄み切った深い悲しみに打たれた思い出を持つ者としては、背景や含意の説明がなくとも、本の中に書かれた言葉だけでこの物語は十分魅力的だと思う。もちろん内藤訳もまた様々な脚色を伴っていたことは承知の上で。

光文社文庫版巻末の年譜を見ていて気づいたのだが、サン=テグジュペリという人は実によく墜落している。23歳で重傷を負ったのを皮切り(でないのかもしれないが)に、砂漠に不時着するわ水上飛行機で事故って溺死しかけるわ夜間飛行トライアルで買ったばかりの飛行機を大破させるわ同じ飛行機を買ってまた壊すわ云々。昔の飛行機の信頼性が低かったことを割り引いても、相当な事故率ではなかろうか。結構体の大きな男だったらしくコックピットが窮屈だったのかもしれないが、Wikipediaにも「元々、パイロットとしての能力は高くなく」なんて書かれているぐらいだ。英語版Wikipediaでは、偵察飛行中に行方を絶った彼の最期についてドイツ軍による撃墜説を明確に否定した上で
It is also said that Saint-Exupéry was rather undisciplined with his use of in-flight oxygen, that he did not regulate it carefully, and may have run out before returning to base, thus passing out and consequently crashing.
という説も紹介している。自らの不注意から酸素不足で失神し墜落した、というのはパイロットとしては決して名誉な話ではあるまい。なぜそういう推測が成り立ったのかはわからないが。

ともかく、サン=テグジュペリにとって飛行は多かれ少なかれ命懸けの行為であったことは想像に難くない。それでも彼はより遠くへより速く魅入られたように飛び続けた。
この物語の最後で王子さまは、命と引き換えにふるさとの星への帰還を果たす。それもまたひとつの飛行であったに違いない。そして遠い彼方への飛行は死によってしか購えない。
子供の頃読んだときは、どうして王子さまが死ななければ帰れないのかがはっきりとは理解できなかった。今回の再読でそこを納得できたのは個人的には収穫だった。
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2007年01月10日

村上春樹訳「グレート・ギャツビー」(スコット・フィッツジェラルド)

愛蔵版 グレート・ギャツビー
愛蔵版 グレート・ギャツビーフランシス・スコット フィッツジェラルド Francis Scott Fitzgerald 村上 春樹

中央公論新社 2006-11
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「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? はじめての文学 村上春樹 グレート・ギャツビー 遠近 (第12号(2006年8・9月号)) 「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?
村上春樹は「グレート・ギャツビー」を書きたくて作家になったのだろう。「グレート・ギャツビー」のような作品でなくてそのものを。そう思わされる翻訳だった。

「グレート・ギャツビー」を読んでいて感じたのは様々なレベルでの懐かしさだった。
私は米文学の熱心な読み手ではないが、青春の無軌道な熱情とそれが齎した悲哀に満ちた帰結、愚かさゆえに美しい若い男女など、ギャツビーの物語が多くの名作の鋳型となったことはわかる。甘美な喪失の一端を再現しようと様々な作家がこの作品の空気を受け継いだ。
その一方、この物語から数年後にアメリカから発して世界を覆った大恐慌は、出自の怪しい青年実業家が海辺の邸宅で毎週末に無為に豪勢なパーティを開けたような古き良き時代に決定的に終止符を打った。私たちは最早同時代にギャツビーを取り返すことはできない。これらの感情を「懐かしさ」という言葉で括ってしまっていいのかどうかはわからないが、幾重にも失われた世界の中でギャツビーたちの姿は光を放ち続ける。

巻末の「訳者あとがき」でのいつになく饒舌な村上春樹は好ましい。自分が好きな娘の魅力について納得させようとするかのように、「グレート・ギャツビー」の自分にとっての意味を語り続ける。彼自身の姿がよく顕れているという意味で、本人による村上春樹論として出色の出来だと思う。
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2006年12月28日

PLUTO 4(浦沢直樹その他大勢)

PLUTO 4―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (4)
PLUTO 4―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (4)浦沢 直樹 手塚 治虫

小学館 2006-12-26
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G-Tools使ってみるテスト。

マイペースな刊行間隔ながら、比較対照できる原典があるためちゃんと物語が中盤にさしかかっているとわかるのは、長さ不明になりがちな浦沢作品の愛読者としてはありがたい限りです。変な文章だな。

どうでもいい感想から。ゲジヒトの顔(ドイツ語でGesichtですな)が当初から何か変わってきているような気がするんですが。具体的にはケヴィン・コスナーが憑依してきてる感じ。ロボットは感情の表出に際してタレントの表情を借りるのだろうか。まさかね。
それとも、これはひょっとしてひょっとして彼を起用してのハリウッド実写映画化でも決まったのだろうか。アニメのアストロボーイは向こうでもヒットしたし。しかし露骨にイラク戦争を下敷きにしているシナリオが果たして娯楽映画として通るかどうか。いやいやいやいや08年大統領選の後ならば(以下妄想略)

4巻目で○○○が××という話は買う前から耳に入っていて、ようやく物語が加速するか、と期待していたら、ま一応その通りのエピソードはあったのだがページ数の割き方や描写の薄さからしてもあれは本当は××でないよねえ、と容易に想像できてちと肩透かしだった。
とはいうものの、ここに来て新たな登場人物も出てきてはいるが徐々に枝は刈り込まれつつあるようで、この先連載が延々と何年も続くことはないだろう。多分。そして、原作はあれだけの話をよく1巻分のボリュームで収めたもんだ(最後はたしか「夢のように」何もかが消尽されてしまう)と改めて感心する。

「PLUTO」は手塚作品に出てきた犬パトカーの再登場などの趣向でも楽しませてくれるが、今回登場した飛行物体などのデザインにもどうも見覚えがあったような気がしてならない。レトロモダンな丸い意匠との戯れも引き続き楽しませてほしいな、と思った。

関連記事:
Not Available: Pluto3巻発売にとりとめなく思う
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2006年12月21日

「波のうさぎ」感想、その他の雑感

usagi.jpg「漫画アクション」1/9号(当たり前だけどもう来年の日付なんだな)で、「特別読み切り」として「夕凪の街 桜の国」のこうの史代の新作短編が載っていた。駅のKIOSKで見つけ、極小水着娘の表紙にもめげずにすかさず購入した。
別に心配はしていなかったが、彼女の独特の作風は相変わらず健在だった。勝手にちょっと早いクリスマスプレゼントと認識。

詳しく書くと未読の方の興を削ぐので避けるが、戦前の瀬戸内海沿いらしい町を舞台にした、少女が主人公の作品。どうやら既に連作の三作目らしい。ぬかったぜ。
小品ではあるが、作中人物が毛筆で書いた絵がストーリーと連結するところの、実験的技法をまったく意識させずにすんなり読ませてしまう手管はさすがとしか言いようがない。そして深刻な内容をはらんだ物語を穏やかな笑いで引き取るエンディングは、もはや懐かしさすら感じさせるこうの節だ(マンネリという意味ではない)。

で実はこの作品、年明けの次号からスタートする連載のプロローグだったという次第。たしか「夕凪の街 桜の国」完成直後ぐらいから予告されていた、戦時中の広島・呉を舞台にした物語がついに始まるようだ。こうのさんのことだから、様々な趣向が凝らされた物語世界が待っているに違いない。プレッシャーをかけるつもりはないが、期待しないわけにはいかないというものだ。
季節と関係なく表紙で水着娘が躍る今のアクションは中年男には手を出しにくい代物だが、応援する意味で定期購読しようか、と思案中。

……と書いた後、冒頭の文章の漫画アクションへのリンクを貼っていて、「双葉社Webマガジン」の存在に気づいた。湯浅ヒトシ「耳かきお蝶」とか、さそうあきら「マエストロ」(ところで「14才の母」の企画に「コドモのコドモ」は関係してないのかな?)とか、相原コージ「真・異種格闘大戦」といった、従来「アクション」に載っていた連載途中にして既に傑作疑いなしだったはずの作品群が、こちらに移行して無料で公開されていたのだ。少し喜び、大いにショックを受けた。ただで読めるなんてもったいなさすぎる!なぜ?

ほかの漫画雑誌がどうなのかは知らないが、今号の「アクション」をぱらぱらめくってみて、他社広告の少なさに今更ながら気づいた。入っている広告も正直ほとんど碌なものではない。
双葉社がどういう戦略で「双葉社Webマガジン」を運営していくつもりなのかはわからないが、紙の雑誌本体がかなり危機的な状況なため、先行投資で無料ウェブマガジンに有力作品を移行している可能性も考えられる。漫画は単行本で売れればいい、という考え方であれば、赤字の雑誌は早々に見切られてショールームとしてのウェブサイトに注力することになるのだろう。一雑誌ファンとしてはそうなってほしくはないのだが。
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2006年12月05日

ヒステリック・サバイバー(深町秋生)

ヒステリック・サバイバー
深町 秋生
宝島社
売り上げランキング: 131801
おすすめ度の平均: 5.0
5 日常に潜む心の闇を抉り出した作品
5 息づまる世界で生き抜く者たち

ああ惜しいな、と思ったのは内容でなく売り方についてだ。
黒とピンクを基調とした表紙、「筋肉バカvsオタク!」の文字が目立つ帯は、おそらくこの本を限定された読者の元にしか届けないだろう。もっと普通の繊細な青春小説として読まれていい内容なのに。
いじめや学校の退廃がこれほどまで社会の関心を集めるとは想定外だったのか、あるいは版元が時流に阿った売り方をすることを潔しとしなかったのか(しかし宝島社だし)。

第3回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞したデビュー作果てしなき渇きはまだ読んでいないが、書評を見る限りでは暴力描写などでかなり読む人を選ぶ作品らしい。そういう作者の第2作だからノワール趣味の読者に届くようなマーケティングをするのもある意味当然なのかもしれない。
しかし、なるほど冒頭の虐殺場面(宝島社のサイトで公開されている)はショッキングではあるが、タイトルからは感じられるような騒々しい作品ではなく、全体を支配するムードはむしろ現代日本を生きることの重苦しさだ。作者の関心は暴力よりも疎外された少年の寄る辺なさを描き出すことの方にあるように思えた。これがこの作家の本来の資質なのか、あるいは1作目の反応から意図的にそのような書き方をしたのかはわからないが。

類型的な人物の造形、思わせぶりな新聞記事スクラップの挿入が十分効果を上げているとは思えない点などいくつか不満は残る。大傑作とは言えないが、いま実際に孤立を味わっている若い世代に読んでもらえたらいい本だと思った。
ラベル:深町秋生 いじめ
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2006年10月28日

底辺女子高生(豊島ミホ)

(申し訳ない、「檸檬のころ」よりずっと面白かったぞ)
ラベル:豊島ミホ
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2006年10月26日

わにとかげぎす(古谷実)

(傑作の予感)
ラベル:古谷実
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百姓から見た戦国大名(黒田基樹)

百姓から見た戦国大名
黒田 基樹
筑摩書房

私の脳内における戦国時代の民衆像は、実は少年時代に読んだ「サスケ」から一歩も進化していなかったんだな、と痛感した一冊。つまり農民は悪代官の圧制に虐げられる一方的な被害者であって生殺与奪(えっ、これって「せいさいよだつ」って読みじゃなかったんですか?⇒せいさいよだつ - Google 検索)すべて権力者の思うがまま、みたいな戦国時代のイメージは、どうやら必ずしもすべてに当てはまるものではなかったらしい。
もちろん不作による飢饉は想像できないぐらい悲惨で(筆者は淡々と数字からその模様を分析し、その冷静さがかえって文章に凄みを与えている)、人生は遥かに過酷であったのは間違いない。だが、為政者だった戦国大名らは功名心から野放図に勢力拡大しようと戦を仕掛けていたわけではなく、むしろ領民の生き残りをかけた凄絶な争いが戦国時代をかたちづくっていたのだ、とこの本はわからせてくれる。

多分こんなことは現代の歴史学では常識以前の問題なのであろう。でも不勉強な私にとっては「国」の成立や税体系の話などなど目ウロコの連続で、まったく私はこの「国」についてなーんも知らんのにえらそうな口をきいていたよう俺のバカバカ、とまた深夜に布団の中で人知れず自分を責める材料が増えてしまった。

例によって話は飛躍するけど、中高生もこういう歴史の側面を知って少しは「世の中いろいろあったんだなあ」と思った方がよろしい。歴史の知識はきょうあすすぐ役に立つものではないし受験にも出ないかもしれないけど、今の日常が今あるような日常であるためには様々ないきさつがあったことを頭の片隅に置いておくべきだ。「昔の人はそれなりにものを考えていた」程度でいいからさ。
ラベル:戦国時代
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涼宮ハルヒの憂鬱(谷川流)

(書く予定。面白かった)
ラベル:涼宮ハルヒ
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2006年10月21日

読む順番間違えた

仔羊の巣
仔羊の巣
posted with amazlet on 06.10.21
坂木 司
東京創元社

「ひきこもり探偵シリーズ第二弾」だそうだ。文庫でうっかり購入して大後悔。3部完結のシリーズ物の第2作を最初に読むのはこんなに居心地が悪いものか、と思わされた。

共依存関係の青年ふたりと周辺の人々をめぐる物語。片方が引きこもり、という設定の割には結構どんどん外にも出て行くし他人との交流もある、というのがこの2冊目における登場人物の状況だ。
たぶん、1冊目ではもう少し「そもそも」の話がしっかり書かれていたのだろう。どうしてこの二人がこのようなキモチワルイ(ごめんよ心ない読者で)共生関係に至ったか、などについて説明がなされ、それゆえに主人公だけでなく作者と同名のワトソン役がかようにエキセントリックな性格として描写されるに至ったかが腑に落ちるような仕組みになっていたのだろう。

ミステリの版元から出てはいるが、この本を読む限り作者の関心の中心は魅力的な謎の提示とその論理的な解明ではない。甘い甘い夢の中にいるキャラクターの魅力に心底浸れるかどうかが、シリーズを楽しむカギであるらしい。そして大事な部分はどうも前の本で出尽くしたとしか思えないのだ。

というわけで、もしこのシリーズを読もうという人がいたら、読んでない私が薦めるのも何だけど迷わず1作目の青空の卵から手に取るべきだと思った。2作目から読むと残り2冊を読む気は全然しなくなるので気をつけられたし。「さわやか」「ハートウォーミング」「性善説」への免疫が少ない人に無理やり読ませて悶絶させるのもいいかもしれないけど。
ラベル:坂木司
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2006年10月12日

オタク・イン・USA(パトリック・マシアス)

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史
町山 智浩 パトリック・マシアス
太田出版

話題の本。かの町山智浩さんが翻訳と称して大幅に書き直している可能性もかなりある(と思えるぐらいこなれた日本語になっているのだ)が、そんなことはこの際どうでもよい。
私は感動したのだ。大げさにいえばこれは現代の殉教物語として読むことができる、とまで思った。

副題にあるようにこの本では、日本製アニメや特撮が米国のテレビなどにいかに受容されていったかが豊富なエピソードと共に紹介されている。
それはほとんど受難の歴史と言ってもいいぐらいだ。様々な作品がズタズタにカットされでたらめな吹き替えを施され、あるいは別の作品と適当にマッシュアップされて、日本での放映時とは似ても似つかぬ姿になって電波に乗ったいきさつが、繰り返し繰り返し語られる。我々が子供の頃愛したヒーローたちは、異国で思いがけない苦難を味わっていたのだ。

だが、いかに歪められ玩具屋の都合のいいように再構成された後でも、それらの作品は生命力を失わなかった。アメリカの子供たち(大きいお友達も多かったようだ)は、おそらく言葉を知る前にアニメと出会った幼い頃の我々と同じようにまず動く絵の虜になり、彼らなりの仕方でジャパニメーションを愛するようになったのだろう。
アニメという表現方法自体が種として備えていた強靭な生命力は、異郷で根を張り茎を伸ばし大輪の花を咲かせた。それは汚され貶められてもなお生き延びることに執着した者だけが持ち得る輝きを放っているのだ。

なんだか七面倒くさい文章になってしまった。作者の意図とは関係ないかもしれない勝手読みをしているのは百も承知だ。要は、主人公が想像を絶する苦難の果てにある高みへと到達する、いわゆる成長小説のバリエーションとして読んで楽しんだ、というだけのことかもしれない。
でもこの主人公は、我々の誰もが小さい頃に親しんだあいつやあいつやあいつたちなんだぜ。それってやっぱりすごいと思わない?
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2006年10月03日

丸谷才一「袖のボタン」はいいぞ

今朝(10/3)の朝日新聞に載っていた丸谷才一の連載コラム「袖のボタン」は実に面白かった。別に今回のが傑出していたわけではなくて、毎回このレベルを維持しているわけで、それがまたすごい。
丸谷才一を時評家と言ってしまっては怒られるだろう。でも、今時のテーマについてこれぐらい短い文章(新聞のコラムとしては長い方だろうが)で奥行き深く刺激的な論説を書ける人はそうそういないと思う。

タイトルは「政治と言葉」。だいたいどういう話になるか想像しながら読み始めると、冒頭から巧妙な変化球が飛んでくる。
 小泉前首相の語り口はワン・フレーズ・ポリティクスでいけないという、あの非難を耳にするたびに、おや、と思った。物心ついてからこの方、日本の政治はみなワン・フレーズであったからだ。
誰もが知っている言葉にさざなみのような疑問を投げかけ、身を乗り出したところを一気に言葉の大海へと連れ出す趣向だ。
政治の現場における四字熟語の盛衰についてひとしきり薀蓄を傾けた挙句、
 その政治的言語の危機に際して、「感動した!」とか「人生いろいろ、会社もいろいろ」とか、他愛もないけれどもとにかく新しい手口を工夫したのが小泉前首相である。
 他愛もないのは、咄嗟の発言だから仕方がないと同情することもできる。しかしじっくり準備したときは記憶に残る名せりふは出なかった。……しかしわたしとしては、ざっかけなくても構わないから、もうすこし内容のあることを、順序を立てて言ってもらいたかった。そういう口のきき方をして受けたのなら、どんなによかったろうと思う。
とひとたびまとめた上で、予感は裏切られずに鉾先は新首相と彼の話題の近刊へと向かうわけだ。
 そこで新しい政治言語の仕上げは新首相に委ねられることになるが、あの人、果たしてどうだろうか。実は今度、新著『美しい国へ』を読んで、小首をかしげたくなった。……一体に言いはぐらかしの多い人で、そうしているうちに話が別のことに移る。これは言質を取られまいとする慎重さよりも、言うべきことが乏しいせいではないかと心配になった。すくなくとも、みずから称して言う「闘う政治家」にはかなり距離がある。当然のことながら読後感は朦朧としているが、後味のように残るのは、われわれが普通、自民党と聞いて感じる旧弊なもの、戦前的価値観への郷愁の人という印象であった。
(強調は引用者)
いやもうけちょんけちょん(死語)である。丸谷才一にここまで言われてしまう安倍首相(とその知恵袋だかゴーストライターだか)には同情を禁じえないが、持論を著作で世に問うた以上批判は避け得ないのであって、この場合相手が悪かったとあきらめるしかない。

博覧強記の筆者はこのあと「近代民主政治は血統や金力によらず言葉で行われる」としてリンカーンの雄弁術を称揚し、
 しかし今の日本の政治では、相変らず言葉以外のものが効果があるのではないか。わたしは二世、三世の国会議員を一概に否定する者ではないけれど、その比率が極めて高いことには不満をいだいている。『美しい国へ』でも、父安倍晋太郎(元外相)や祖父岸信介(元首相)や大叔父佐藤栄作(元首相)の名が然るべき所に出て来て、なるほど、血筋や家柄に頼れば言葉は大事でなくなるわけか、などと思った。
と、首相のみならず二、三世の不肖の跡継ぎどもが首を竦めるほかない全方位射撃にて鮮やかに締める。文の芸とはまさしくこのことであろう。

別に虎の威を借りての安倍叩きに加担したくて長々引用したわけではない。私の見ていた範囲では、ブログ論壇でここまで安倍首相の「美しい国へ」を正面から見事に切り捨てた論評はなかったように思ったからだ。
もちろん独りよがりの断定はいくらでもあったが、そこに説得力は伴っていなかった。「そりゃ丸谷才一と一介のブログ作者はネームバリューが違うじゃん」という反論はあるかもしれないが、丸谷コラムは作者名を隠しても十分読み応えのある文章として成立しているように思う。

月並みだが、古典の素養の問題なのだろう。
ここで言う古典とは文芸作品ばかりでなく、時間のフィルターに漉されて現代まで残り得た言葉のことを指す。丸谷才一はその力を縦横無尽に援用して、きのうきょう登場した賢しげな言葉を一蹴した。古典には、いま生成されている無数のブログの言葉からだけでは決して得られない力があるのだ。
はてなブックマークなどのフォークソノミーによるサービスは、フラットなブログのエントリを価値付けすることで優れた情報を抽出するための仕組みなのだろうが、不易な意味を持つメッセージがそこから括り出されるには、まだ何かが足りないような気がする。既にブロゴスフィアには各分野で十分以上の書き手がおり、日々大量の文章が産出されているのに。
そんな折、海の向こうでGoogle Book Searchが古典をも射程に収めるようになったことは示唆的だ。

我々の時代の精神を余すことなく語り後世に伝え得る文章がブログから登場するのだろうか。RSSで配信されアンテナにかかりブックマークで大量のコメント(心無いものも含む)によって費消されあちこちのブログからトラックバックされ部分的に引用されひょっとしたら紙の本になって出版された後の言葉に、なお数十年数百年を飛び越えるだけの力が残っているのだろうか。言葉の大量消費の時代はいつかは終焉するのだろうか。

かなり羊頭狗肉が過ぎる内容になってしまった(いつものことだけど)ので、このへんで切り上げよう。
「袖のボタン」は月1回の連載だが、日々新しい記事が刷られる新聞紙上において、ひと月先の次回が待ち遠しくてならない、そんな存在は貴重だと思う。大事な言葉は、もっとゆっくり手放されるべきものなのかもしれない。
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2006年10月02日

戦う動物園(小菅正夫・岩野俊郎)

戦う動物園―旭山動物園と到津の森公園の物語
小菅 正夫 岩野 俊郎 島 泰三
中央公論新社

副題に「旭山動物園と到津の森公園の物語」とある通り、苦難を乗り越えて現在に到った東西の有名動物園(到津の森公園については恥ずかしながら知らなかった)のエピソードを綴った本なのだが、内容とは別のところで非常に面白い一冊だった。

と書くと中身がつまらないようだが全然そんなことはなくて、個性的な組織というものはどのような考え方を持つ人々によってつくられるか、というマネジメントの参考書として読むことも可能な実用性も備えてはいる。
だが本書の魅力は、なんといってもその破調ぶりにある。物語の語り手である著者二人に加えて、わざわざ「島泰三編」と表紙にうたっているのは伊達ではない。

この本は、二人の園長がそれぞれの園を訪問して語り合う、という枠組みで進められる。一応。
凡庸な編集者ならば、二人の対談をテープから起こして不明な点に注をつけるぐらいの編集で新書のスタイルに押し込めてしまうだろう。実際そういう新書は多い。
だが、本書の記録者である島さん(霊長類学者)は二人の会話を黙って採録するだけにとどまらない。共に歩きながら言葉を引き出し、さらには地の文で大いに両動物園の類稀な魅力を賛美し、時間軸を自由に行き来してはわき道に深入りすることも厭わず解説を加え、さらには過去のエピソードの登場人物としてもひょっこり顔を出す。編者というよりはもはやほとんど共著者として縦横に活躍している。あまりの脱線ぶりに「なんだこれは」と面食らうこともたびたびだ。
過不足なく真実を綴るのが新書に多い実用書の条件だとすれば、過剰だらけ歪みだらけで不恰好でさえあるこの本は明らかにその範疇をはみ出している。

たとえば到津でのチンパンジー脱走事件の描写はこんな具合だ。
 岩野は事件直後に到津の森公園を訪れた島に「おれは泣きそうになったいや(いや、は強めるための関門方言。「のだよ」くらいか)」と語り、サルの専門家としてチンパンジーの施設を点検して、問題点を指摘してくれと頼んだ。
 「ただでか?」と、吝嗇な島が言ったというが、覚えはない。
 「金、取るんか!」とんでもないという意味を言外にこめて岩野は叫んだ。結局、昼飯のうどん一杯で手をうった。
客観性なんか知らないよ、と言わんばかりに一人称と三人称の視点が交錯する、何とも言えぬユニークな味わいがこの本の基調を成している。
そして小菅氏のあとがきで、本文中では触れられていなかったこの二人の関係が明かされたときには(動物学会や動物園業界では周知の事実だったのだろうが)見事に騙された気がした。油断のならない語り手に乾杯。

現代社会における動物園のあり方について考えるには、多分ほかにもっと優れた本が出ているだろう。新書という形態ゆえ仕方がない部分もあるが、この本は資料的には物足りないし、おそらく両園に行ったことのない読者(私もだ)にはイメージがすぐ浮かぶとは言えないようなはしょった表現も多い。だが、一度どちらかの園に足を運んだ人にとっては、訪問のとき受けた感動の理由を裏付ける文章が随所に見受けられるのではないか、とも思う。
多分私はこのふたつの動物園にいつか足を運ぶだろう。
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2006年09月23日

「運転」(下野康史)


「アシモからジャンボジェットまで」の副題が示すように、様々な動きもの(乗り物とは限らない)の運転や操縦の様子を楽しくルポした作品。「NAVI」連載が小学館から単行本化され、なぜか集英社文庫に入ったという流転の本だ。

個々に見ると、作者自身が操縦していない(できない)物は案外多い。もうちょっと操縦の様子を細かく描写してほしいなツッコミがほしいな、という乗り物もある。でも巨大タンカーやジャンボジェットを素人が操縦できるわけもないし、操縦方法をあまり詳しく書くとレインボーブリッジをくぐりたくて全日空機をハイジャックして機長を殺害したような馬鹿を刺激しかねない、という配慮もあったのかもしれない。深読みし過ぎか?

それでもやはり計31編(連載からの選り抜きでもこの数だ)という分量には圧倒される。量が質に転化している好例だ。乗り物に並んで突然「胃カメラ」「馬」「川下り和船」などが出てくるリズムの緩急もなかなか粋である。
筆者も意図していただろうが、結果として角度をつけた職業カタログになっているのがこの本の妙味だろう。中高生のいとこや甥っ子でもいればほいっと渡してみたい感じ。
ラベル:下野康史
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2006年09月21日

大西科学さんの本が出ているらしい

長年私淑していた大西科学さん初の著作が出ていたようだ。すごいぞ。
半茶さんのブログもう既に半茶でない(ややこしい)経由で知る。

買って読んだらまた何か書くつもり。楽しみ楽しみ。

追記:
出版社サイトに特設ページもあった。こちらからどうぞ。

本文と関係ない追記:
デザインテンプレートを変えたら横方向が固定じゃなくなっていたことに気づく。あれあれ。過去ログでも写真サムネールがつっかえまくりの予感。
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2006年09月20日

本読み日記'06夏(5)

もう秋になってしまったので夏の思い出をいつまでもだらだら続けているわけにはいかない。簡単にまとめ。

△配達あかずきん(大崎梢)
本屋を舞台に書店員が活躍する短編連作ミステリ。
書店員の日常がよく描けていて最初に読んだときは○印象だったんだけど、かわいい天真爛漫ドジっ子女の子店員がおつかいならぬ配本に出かけて事件に巻き込まれる顛末を描いた標題作が、なぜか思い出すほどに蕁麻疹級の居心地悪さになっていったという不思議な一冊。私こういうの苦手なんです。好きになれなくてごめん。

△ときめきアリス(吾妻ひでお)
ファンとして最近のあじまリバイバルは素直に喜びたいのだけど、絶頂期を過ぎて下降線にあったときの作品が、装いを少し変えただけで店頭に並ぶのを見るのは正直辛い。「メチル・メタフィジーク」や「るなてっく」などの狂騒的傑作はもはやどんな漫画家からも生まれ得ないのだろう。

○うつうつひでお日記(吾妻ひでお)
↑上に書いたこととは別に、近況を描いたこの日記漫画は素直に楽しめた。描線の変化には目をつぶり、とにかく読書量の多さに驚く。まあこれだけのインプット能力がなければ「不条理日記」は描けなかっただろうけど。そして多量の情報をスクエアなコマ割りで畳み掛ける構成が吾妻漫画の魅力のひとつであったことに今更のように気づく。

△砲艦銀鼠号(椎名誠)
シーナ異世界物はいつの間にか変質して、現実世界と地続きになっていたらしい。ユーロや元が流通し、ビールや桂花陳酒を登場人物が酌み交わすのは興ざめだった。様々に異体進化した生物や各種おんぼろ機械も登場するが、それらの小道具が奔放に活躍する場面は少なく、旧作にみられたダイナミックさは大きく損なわれている。心境の変化だろうか。

●ちぇりあい(戸梶圭太)
童貞を虐待し打ちのめす、相変わらずひどすぎな戸梶ワールド。ラストの悪趣味さに言葉を失う。でもどうせまた新作が出たら読んでしまうんだろうなあ。

△笑う食卓―面白南極料理人(西村淳)
極地で活躍するシェフの話が面白くないわけはないはずなのに、なぜか盛り上がらなかった。原因のひとつは過剰に笑いを取りに行こうとする文体だろう。たぶん、もっと普通に書いた方がよかったのではないかと。和田誠の表紙でも必ずしも当たり本とは限らない、という残念な教訓。

◎神無き月十番目の夜(飯嶋和一)
かつて流行した冒険小説とされるジャンルを読み漁った頃の興奮を思い出した。慶長年間、木っ端役人の検地を引き金に村を襲った悲劇を骨太に描き出す、現代に通じるテーマを扱った歴史小説の傑作。五分の四まで読み進めたところで起きる思いがけない展開は、その後に訪れるであろうどうしようもない悲惨(冒頭で予告されてはいるのだが)を否応なしに予見させる。あまりの救いの無さに、読後しばらく何も手に着かなかった。

△初恋温泉(吉田修一)
五つの実在する温泉で五組の男女の恋愛模様を描く、雰囲気勝負の企画物連作短編。語り口の上手さで読ませる作家なのかもしれないが、具体的にそれぞれの温泉のイメージが浮かばない当方には舞台設定の妙(があるのだろう、たぶん)が伝わらない。俺にはまだ早すぎたか。

○裁判長!ここは懲役4年でどうすか(北尾トロ)
実践的裁判傍聴記。他社単行本から文春文庫に入ったのだが、裁判がらみでの週刊文春の虚報について触れた部分があった(単行本当時のままかどうかは未確認だが)のには感心した。
人生失敗マニュアルとしていろいろな読み方ができるだろうが、いつ正しい道を踏み外すかが心配で日々おろおろしている俺には、どれもこれもひとごととは思えなかった。奈落は至る所に口を開けて待っているのだ。

◎不思議島(多島斗志之)
多島斗志之という作家は名前しか知らなかったが、もっと早く読むべきだったと反省。おそらく旧作を復刊した東京創元社編集部の思いも同じだったのではないか。
瀬戸内を舞台に、少人数の登場人物の愛と葛藤、秘められた過去のエピソードが繰り広げられる。大作の趣はないが、繊細な心理描写には最近の粗雑な国産ミステリにはない濃やかな味わいがある。主人公のトラウマとなった過去の事件のいきさつ、男女が惹かれあうくだりが駆け足で消化されてしまうのはややもったいない気もするが、海と島に囲まれた閉ざされた空間での相似形の心理劇(というのも変だけど)の緊密な構成を優先させたのだろう。埋もれさせておくには惜しい秀作である。
続いて復刊された「二島縁起」も購入済み。楽しみだ。

◎子どもは判ってくれない(内田樹)
しびれた。内田樹一流のレトリックは、いつもながら胡散臭いが刺激的かつ魅力的だ。
基本的にウェブサイトの文章の再録なのだが、凡百のブログ本と違ってこれは本のかたちで読まれるべき必然性がある。携帯して任意のページを任意の場所で開くのがこれらの文章群の正しい読み方だと思う。そこに啓示があれば勝手に打たれればよい。まさに文庫化されるべき本だった。
長いけど前書きからそれ自身がこの本の魅力を端的に語っている文章を引用。
 長く生きてきて分かったことはいくつかあるけれど、その中の一つは「正しいこと」を言ったからといって、みんなが聞いてくれるわけではない、ということである。
 イラク戦争のとき、朝日新聞の社説は「米英軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」と書いた。
 この文章はまったく正しい。
 まったく正しいけれど、いったい、この文が誰に向かって語りかけているのか、私にはよく分からなかった。
 読者に向かって語りかけているのだろうか?
 どうも、そのようには思えない。というのは、読者たちは米英軍の作戦内容に容喙する立場にないし、フセイン大統領の「考え」をコントロールする能力も持たないからだ。
 権限のない者に、そんなことを言ってみても始まらない。
 読者たちではないとしたら、この記事はいったい誰に向けて書かれたものだろう。
 ジョージ・ブッシュ? それともサダム・フセイン?
 まさかね。
 「フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」というのはいかな悪逆無道のフセインが相手でも無体な要求である。「考えを持つ」のはフセインの頭の中の出来事であり、百パーセント、フセインさんの自由に属する。
(中略)
 にもかかわらず、その「言ってみても始まらない」ことをこの論説委員はさらりと書いてしまっている。そして、そのことにご本人はおそらく違和感を覚えてない。
 この事実のうちに、私は私たちの時代の言説を蝕んでいるある種の「病」の徴候を感知するのである。
 私が「病」というのは、この論説委員が「言葉を届かせる」ということにあまり興味がないということである。彼が興味を持っているのは「正論を述べる」ことであって、その正論が「聞き届けられるべき人に聞き届けられる」ということにはそれほど興味がない。
 しかし、これはことの順逆が狂ってはいないだろうか?
(中略)
 それらの主張が「正しい」ことを私は心から認める。しかし、それを繰り返し呼号し、看板にして街角に立て、新聞広告に掲げ、テレビCMで流すことで、何か世界に新しい「善きもの」が作り出されるだろうという見通しには同意できない。
 それはメッセージそのものに意味がないからではなく、その「差し出され方」が間違っているからである。
 そのメッセージは誰にも向けられていない。
 誰からの反論も予期しないで語られるメッセージというのは、要するに誰にも向けられていないメッセージである。「百パーセント正しいメッセージ」はしばしば「どこにも聞き手のいないメッセージ」である。
 だから、私は「メッセージを発信する」という行為において、最優先に配慮すべきことは、そのメッセージが「正しい」ことではなく、「聞き手に届く」ことだと思う。
(強調は引用者)
俺のメッセージは誰にも全然届いていないなあ、と長くて下手でピントはずれな己の文章を読み返して嘆息しつつ、それでもものを考えることをやめてはいけないと示唆を与えられる。そんな本だ。

◎まっ正直な家づくり(樋口義征)
東京の一工務店主が一念発起して原価と利益を開示する「マニフェスト住宅」を提唱、NPO法人日本マニフェスト住宅協会を設立するに至る経緯をまとめた本。
月並みだが、これから家を建てようと思っている人は必ず読むべきだ。家を作るということに自分がいかに無知であったかを思い知らされる。建築業界の内情も赤裸々に述べられており、既に建てた人が読んだら怒りを駆り立てられるところも多いに違いない。
人生最大の買い物を生命保険付きのギャンブルにしないためにも、発注する側はもっと家づくりについて学ばねばならない。講演録をベースにしたと思われるこの本のつくりは丁寧ではないが、樋口氏の思想を等速で記録することには成功している。理想の家づくりに向けた出発点として、発注・受注双方の当事者に広く読まれるべき一冊だと思う。

まだ書き漏らしている本はいろいろあるけど、どう面白かったかを書き分けられない自分の感想文技術の低さに嫌気がさしてきたので、とりあえずこのへんで切り上げておこう。
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2006年09月16日

諸君、私は思い違いが大好きだ

平野啓一郎のデビュー作「日蝕」が佐藤亜紀作品「鏡の影」の「ぱくり」なのかどうか、などを巡り、平野氏本人がオフィシャルサイトでようやく、6年前の佐藤氏の批判に対する気合の入った長文の反論を公開していた。

web2.0的世界において、「名誉」を守るということ
 普段、なかなか、このメッセージ欄も更新されないので、たまに何か書くときには、せめて明るい、希望に満ちた話をしたいが、今日の話題は、私がこの6年間、一度も語ってこなかった極めて不愉快なとある出来事についてである。内容が内容だけに、冷静に書くことは難しいが、それでも私は、今という時は、これについて語る時だと考えている。
この内容についてはさておき、本件について言及しているnabeso氏のブログprogressive linkの平野氏の見識の一行に爆笑。
 平野氏の下の名前が耕太だと思いこんでいたせいで、探すのに時間がかかりましが
なぜそう思ったのか小一時間(略

cf.平野耕太 - Wikipedia
cf.少佐台詞のオリジナル

啓一郎氏についてはweb2.0なるものへの見解を巡ってツッコミが多発しそうな予感がするが(反論する口実に「web2.0」を使ってない?要はwikipediaの項目がショックだったから?みたいな)、それはほかの人の仕事。

日蝕
日蝕
posted with amazlet on 06.09.16
平野 啓一郎
新潮社 (2002/01)
売り上げランキング: 60,764
おすすめ度の平均: 3.17
5 なかなか、すごい。
5 読者人よ、暖かく見守ろうではないか。
4 文学というもの

鏡の影
鏡の影
posted with amazlet on 06.09.16
佐藤 亜紀
ブッキング (2003/11)
売り上げランキング: 58,382
おすすめ度の平均: 5
5 「薔薇の名前」というより「フーコーの振り子」
5 待望の復刊です!
posted by NA at 23:58| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

本読み日記'06夏(4)

だらだら続いてます。

ジェシカが駆け抜けた七年間について
歌野 晶午
原書房 (2004/02/06)
売り上げランキング: 109,443

△ジェシカが駆け抜けた七年間について(歌野晶午)
2年半前に買ってそのままにしておいた本。でも積読状態のままにしておけばよかったかも。
登場するランナーたちのトレーニングの様子や心理などの描写は実に説得力があるだけに、「どうしてこのネタでミステリーにしたんだよおおおお」と月に吼えたくなるほどちゃちなメインのトリックがつくづく惜しまれる。普通のアスリート小説だったらよかったのに。△じゃ甘いかな。


○どっからでもかかって来い!(日垣隆)
闘うライター日垣隆の日記。帯に「みずほ銀行も郵便局もペリカン便も不動産屋もネット古書店も、思考停止のオマエらとはとことん闘うよ!」とあるように、主にサービス業に携わる多くの企業・関係者が一部実名入りで完膚なきまでに叩きのめされている。
著者の憤慨は私憤にとどまらず、多くは共感できる。無能な連中の無能ぶりと、彼らがいかに論破されたかの詳細な描写を楽しみつつも、心の隅に痛みを感じるのは、私自身もまた日垣氏から糾弾される側のひとりであるに違いないとわかっているからだ。私のようなぬるい人間には他人を批判する資格はない。でもそれでは相互ぬる対応を是認することになり、いつまでたっても世間のサービスの質は改まらないのでは、などなどといろいろなことを考えさせられた。

TIME SELLER―本当の「時間」の使い方
フェルナンド・トリアス・デ ベス Fernando Trias de Bes 田内 志文
ポプラ社 (2006/03)

○タイムセラー(フェルナンド・トリアス・デ・ベス)
あまり期待しないで読んだら結構面白かった。世界的に売れた人生指南本「グッドラック」共著者のひとりが書いた寓話だ。
テーマは「自分の時間を取り戻す」こと、というとありふれているが、シンプルな言葉で大切なことを語るという「グッドラック」のスタイルからは一転して軽く冷笑的で、内容はほとんど荒唐無稽な法螺話である。だが訳(「グッドラック」と同じ田内志文)がよくこなれているため、現実離れした設定にもすんなりついていけた。思わぬ拾い物。
(まだまだ続く)
posted by NA at 23:58| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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