2007年08月27日

西村寿行は凄かった

また偉大な作家がひとり世を去った。YOMIURI ONLINEよりバイオレンス小説の第一人者、西村寿行さんが死去
 バイオレンス小説の第一人者として知られる作家の西村寿行(にしむら・じゅこう=本名・としゆき)さんが23日、肝不全のため亡くなった。76歳だった。
 高松市出身。新聞記者、速記者、運転手など様々な職業を経て、1969年に動物小説「犬鷲」で作家デビュー。「君よ憤怒の河を渉(わた)れ」を始め、暴力や性といった人間の衝動を前面に骨太なストーリーを疾走させる「バイオレンス・ノベル」の旗手として支持を受けた。
 同作や「犬笛」などの作品は映画化され、79年の長者番付では、作家部門トップに躍り出るなど、時代を代表する人気作家になった。
 動物小説、パニック小説も得意とした。76年に「咆哮は消えた」、77年に「滅びの笛」「魔笛が聴こえる」で3回連続直木賞の候補になり、生涯に600冊以上の著書を世に送り出した。
中学生ぐらいのときに文春文庫で読んだ(ませてるな俺)「魔の牙」が特に印象に残っている。これほどまでに救いのない話を読んだことがなかった私は、読後体調を崩して発熱し、しばらく寝込んだ。実話だ。
回復してから出会った「滅びの笛」「蒼茫の大地、滅ぶ」(なんと荘厳で悲壮なタイトルであることよ)などのスケールの大きさは、国内基準を大幅に逸脱していた。もっとも量産していた時期には毎月一冊ずつ以上新刊が出ていたような気がするが、あの旺盛な生産力はそのまま物語のエネルギーに転化していたようにも感じる。高速回転の中からしか生まれ得ない言葉というものもあったのだろう。女と金をめぐる下卑た欲望を推進力に猛烈な勢いで紡がれる小説群の迫力にただ圧倒された。

あの暴力とエロスの渦巻く小説群を今読んだらどんな印象を持つだろうか。歳をとったことでまた違うものが見えてくるのだろうか。
そしてふと思ったのだが、作風は全然違えども舞城王太郎もまた寿行節のような問答無用さの嵐を再現することを夢見ているのではなかろうか。
ラベル:西村寿行 訃報
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2007年08月17日

夏の本棚整理

先日の地震で部屋の積み上げ本が軒並みずさどさばしゃぐばだばとP波S波重力波に屈してしまったため大変な惨状である。
このままではこの部屋が何のためにあるのかわからなくなるので、若干もったいない本も含めてさっさと処分することにする。というわけで別れの一行寸評。タイムスタンプは初回更新時のもので随時追加。

環状線のモンスター(加藤治郎)
んー、なんかこういう今風の単語を織り込んだ短歌が好きな人もいるんだろうなあ。間合いを取って切り込んで来るはずの言葉が空振りしてしまってクリティカルヒットに全然なってないというか。しばらく手元において再読を繰り返したけど私の趣味とはついにシンクロせず。ごめんなさい。相性の問題は如何ともし難い。

傘の自由化は可能か(大崎善生)
名作「聖の青春」、そこそこよかった「パイロットフィッシュ」の作家のエッセイ集。多分すごくいい人なのだろう。そういう人のエッセイ集に盛り上がりや仕掛けを期待してはいけない。というかエッセイ集ってそういうものではないな。

21世紀版 マーフィーの法則(アーサー・ブロック)
旧版が出たときには類書が少なかったこともあって面白く読んだのだが、今回のを読むと随分色褪せて見えるのが意外だった(遠藤諭さんの前書きにもそのへんのことが触れられている)。まあ増量された分「同じことを言い回しを変えて何度も言ってるだけじゃん」と食傷ぎみになった点は否めない。

笑犬樓の逆襲(筒井康隆)
「断筆宣言」解除後にかの「噂の真相」に連載された筒井康隆のエッセイ。だのに何とも締まらない内容。作家の興味は芸能活動へ向かってしまい、舞台出演の宣伝や文字通りの楽屋話があまりにも多い。連載中にも読んでいたが正直辛かった。文庫に入って初めて通読し、どうやら筒井さん本人も自分の変化を自覚しておられるような一節を発見した。一世を風靡した輝かしき文学の天才はもういない。その事実を受け入れなくてはならないのがどうにも悲しい。

彼岸まで。(勝谷誠彦)
勝谷さんのウェブ日記は有料化されるまでは愛読していた。きっと有料ブログを購読するぐらいのファンなら彼自身を投影した主人公(かっこよすぎ)が登場する短篇群を楽しめるだろう。あるいは時事コメンテータの勝谷誠彦を好む人なら、少年犯罪に題材を取った「U13」や三つの話題をくっつけた「遠い墜落」などがお勧めだろうが、これは後味の悪さが趣味に合わなかった。個人的には往年のかんべむさしを彷彿させる関西弁コメディ「ナニワ金鉄道」が面白かった。きっと抒情の人なのだろうけど、時事風俗ネタをギャグ仕立てにするこっち方向で活躍してくれた方がいいな、と思わないでもない。
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2007年08月15日

ぬかるんでから(佐藤哲也)

佐藤哲也については過去にこのブログでも書いているかと思ったら、この記事以外には見当たらない。おかしいな。結構あちこちで激賞していたつもりだったんだけど。
とにかく、これほど特異な作家も稀だと思う。文壇は安直な恋愛小説とくだらんミステリを書く作家は当社比十分の一に粛清していいから佐藤哲也を三倍にすべきだ。計算合ってない。というか意味わからんぞ。

今回文庫入りした短篇集「ぬかるんでから」は、佐藤哲也的宇宙のお得な詰め合わせセットだ。それは神話であり政略であり隣人恐怖であり内気な少年のトラウマであり権力を巡る物語であり主題と展開と再現であり過剰な自己言及の結果のおとぼけであり寓話であり軍隊であり卑怯者の論理であり列挙の作法でもある。
およそ普通の人間のふつうの生活はまったく出てこないが、そこに描かれている戯画化された感情は確かに私たちの内側にあるものだ。この地上ではあり得ない各々の設定の中で繰り広げられる悲喜劇は、それゆえ私たちにとっても極めて近しい存在になる。視たことがないのに懐かしかったりおぞましかったりする、そんな風景を字が脳裏に描いていく、という体験。それはまさしく、解説で伊坂幸太郎(ところで新作まだ?)が書いているように「小説ならではの喜びに溢れて」いるのだ。

未読の方は表題作「ぬかるんでから」を立ち読みでいいから読んで、ぜひ唖然としてほしいと思う。最悪の状況になってもまだ堕ちていく先はある、といったどうしようもない話を、どうしてこのような文章で書けるのか、という唖然。それは悲惨とも痛切とも違う、もちろん愉快や軽妙にも属しない感情を伴う。強いて言うならば佐藤哲也の小説によって齎される感情としか表現しようのない、そんな感覚。

巧妙に仕組まれた「巨人」の仕掛けもすごい。伏線といっていいのかどうか迷うが、物語冒頭で示された主人公の見解が結尾近くで他者から提示されるリフレーン、そしてその後の目を疑う急展開にはもう「あれが伏線かよ!」と天を仰ぐしかない。理由もへったくれもないが、この小説はこういう首尾を辿るべきであったという圧倒的な説得力がある。まったくおそるべき短篇である。

作品集の中ではもっともツイストの少ない巻末の「夏の軍隊」は、手綱を緩めてもなおこの作家が文章という奔馬をよく御しうることを示す、哀切さに満ちた佳作だ。作中に特にそういう言及があるわけではないが、この小説を8月15日に再読できてよかったと思う。

佐藤哲也には「熱帯」という傑作長篇(なのに世間であまり言及されていないのが悔しい)もあるためか、なんとなく夏の小説家という風情が感じられる。お盆で暇を持て余している方は読書のお供にぜひ佐藤哲也を、と勝手にお薦めさせていただく次第。
ラベル:佐藤哲也
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2007年07月28日

げんしけん(木尾士目)


理由はわからないものの、女性の友人(既婚、夫ともども大変な趣味人)が全9巻一括で貸してくれた。自分は今この作品を読むべき人間であるように彼女には見えたのだろうか。いや、深読みはするまい。
ともあれ、前から興味を持っていた作品ではあったのだが、期待に違わぬ名作だった。

毎度だが「興味を持っていた」「期待に違わぬ」とか書いている割には予備知識はほとんどなく、どこかの秋葉系ブログだか何だかで読んだけど、「げんしけん」って人気なんでしょ?なんか大野さんという巨乳キャラが出てきてコスプレするらしくて、そんでフィギュアが大変な人気になったらしくて、まあ要するにオタクな話なんでしょ、という程度の浅薄振興会極まりない理解だった。振興会はよけい。
全然違った。オタク「の」話ではあったが、クセ球のようでいて実は直球ど真ん中の青春ドラマではないか。いや本当に参った。

とある特殊な大学サークルが舞台の物語。本来の活動の趣旨は最後までよくわからなかったが、要するにオタクなもろもろのものごとについて語り合うのが目的の団体であるらしい。得体の知れなさゆえたびたび廃部の危機に遭いながら、メンバーは少しずつ成長していく。
大学が舞台ではあるものの、授業やゼミの描写はたぶん皆無だったと思う。ユートピアとしての大学サークル。会員らは学園祭、恋愛、コミフェス(同人誌即売会)といった様々なイベントを経て、物語の中で進級し、やがて大学生活に別れを告げることになる。大文字で書かれるようなドラマは起こらないが、丁寧なディテール描写は十分感動を呼び起こす。

頻出したオタク関連タームについては半分理解できたかすら疑わしい。でも、それは新左翼運動だろうが運動会系団体だろうが同じことで、どこでも若者たちは内部にしか通用しない言葉や合図を編み出してきたしこれからもそうだろう。
この作品の少なからぬ魅力がオタク文化の絶妙な描写にあることは間違いないが、一方ここに描かれている普遍的な青春像もまた魅力的だ。オタク趣味もまた立派な青春の彩りなのだ。ああ、青春青春と連呼すると気恥ずかしくってかなわねえや。

主人公・笹原の物語の合間に挿入される、サークルの第二代会長を務めた男子学生、斑目の片恋のエピソードがこの作品の白眉と言っていいだろう。近寄りがたい炉利系オタクであるはずの斑目が、恋に悩むひとりの青年として立ち現れるあたりの描写は時間が止まったように感じられる。
#実は一般人のようでいて笹原の方が遥かに異様なキャラクタではないか、と思ったりするがそれはまた別の話。
自分の恋心を自覚してからの斑目の振る舞いのひとつひとつが、もてない男子学生時代を送った(今もその延長フェーズ)私にとっては痛ましくも美しく映る。というか学生時代の俺よりも斑目の方がよほど立派なので本来比べてはいかんのだが、オタクであることと、作中では三次元の存在であるサークル仲間の女子学生への恋心を断ち切れないことの狭間でたたずみうつむく斑目の姿は、これまた普遍的な青年像を体現してると思う。この作品が直球ど真ん中だと思う所以だ。

月並みだが、日本の漫画文化はすごいな、と改めて思った。生半な青春小説では到底届き得ない高み・凄みに達している作品だ。いいものを貸してくれてありがとうございます。>人妻友人
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2007年07月10日

土俵を走る殺意(小杉健治)

タイトルに惹かれて出張のおともに買ってみたらごつごつの社会派ミステリだった。カバー裏(見なかった)にもそう書いてあったから文句は言えないが、むむむ。

分量が結構ある割には筋運びがせわしい。舞台になっている昭和30〜40年代の風俗をもっと書き込んだら面白くなったのに、と思う箇所がたびたびあった。登場人物が事をなしたそれぞれの動機も、ちょっと無理がないでもないなあ、という感が強い。
ミステリとして特に際立った趣向があるわけでない。最後の大掛かりなツイストは不要だろうと思った(物語の構図をぐだぐだにしてしまっている)。
ただ、謎解きを離れた小説としてはそこそこ楽しめた。先の感想とも関連するが、ミステリという枠組みにこだわらずに地方から上京して力士を目指す少年の成長物語と戦後日本の風景をじっくり記録的に描いた方が、より滋味深い小説になったのではないか。ちょっと惜しい。

しかししかし、本書最大の問題はゆかいな題名と内容が乖離していることで、要するに「殺意」は「土俵を走」らないのだ。これはいけません。絵を想像して受け狙いかと思って手に取った読者(俺だ)を失望させてはいけない。
別に「どすこい」までのたわけた内容を期待していたわけではないが「土俵の中で力士が走るんかい」とか何とかいろいろツッコミを用意して待っていた身としては肩透かしを食らって打っちゃられた感じ。ごっつぁん。
題名が作者の意図なのかどうか知らないが、担当編集者は反省した方がいいと思った。

それにしても元本が1989年5月刊ということは平成元年の本だったわけだ。昭和は遠くなりにけり。来年は平成生まれの成人式。早いものだ。
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2007年06月27日

最近読んだ本

相変わらず方向性も何もない濫読の日々である。

■うめめ(梅佳代)
2006年度の木村伊兵衛写真賞受賞作品。を期待してめくると拍子抜けする。無造作。
若い感性が写真に花開く、とか、現代が息づいている、とかいろいろ理屈付けはあったのでしょう。ただの面白スナップじゃない、と言いたいんだろうけど、うーん。
個人的にはも少しVIP板で修行してこいってな感じ。写真の歴史を担うようなプロならばもっとプロらしさをトーシローに感じさせる何かで圧倒してほしい。まあ賞はやる側の思惑次第であって撮影者に罪はないんですが。

■小生物語(乙一)
乙一作品の「軽さ」(いい加減という意味ではない)は、どこか星新一に通じるものがあるな、と思った。生活感と切り離された構築物としての虚構。そういうお人が生活感溢れる日記を書くわけがないのは当然のことだった。
悪趣味でない洗練されたグロテスク(というのも矛盾しているが)小説を書くのと同じ方法で、日常をネタに淡々と書かれた馬鹿話。要するに変なのだ。今後も低体温で愛したいと思った。

■デクスター 幼き者への挽歌(ジェフ・リンジー)
途中まではまあまあ興味を持って読んでいたのだが、結局共に心に傷を負った××だからシリアルキラーの行動が手に取るようにわかってしまった、という安直さに失望。金返せ本。
まあある種のギャグとして読むべきだったのかもしれませんが。米国でのドラマ化もその方向で行われているらしいし。

■孤独のグルメ(久住昌之+谷口ジロー)
長らく品切れだったのが増刷されたらしい。予想にたがわぬ名作。東京で飯を食うとはこういうことだな、と大いに共感する。
谷口ジローの漫画はあらゆるものにフォーカスが合っている精緻な描線と引き換えに(変な言葉だが)動感を犠牲にしていると前から思っていた。コマとコマの間を結ぶ流れが欠けているのだ。本作には1ヵ所だけアクションシーン(!)はあるがここの描写も流麗さとは程遠い。
だが、食へのこだわりを抱えた中年男のフェティシズムの対象として登場する料理の数々は、まさに谷口ジローしか描き得なかった絵になっている。個々の瞬間を静止画として成立させるタッチが必要だったのだ。ぎこちなさが作品の要請として機能しているというか。
興味のある人はまた品切れになる前に今すぐ購入すべきであろう。まあすぐ増刷されるとは思うけど。

■いけちゃんとぼく(西原理恵子)
長年の夢だった童話絵本作家になったのだな。>西原
正直、内容は感動的ではあるが西原作品としては並だと思う。「うつくしいのはら」のような大傑作と比べてはいけない。冒頭のエピソードで「ひょっとして主人公は××では?」と思ってどきどきして読み進めたが、あいにくそういう本ではなかった。
だが、鴨志田穣さんの訃報を知った上で読むと、ここに描かれている景色はまるで違ったものになる。出版は鴨志田さんが存命中の昨年9月なので彼の死病を前提に書き始められたとは思えないが、遠からず訪れる死別の予感がこのような物語に結実したのかもしれない。執筆の背景を知らなくては理解できない種類の作品ではないが、そう思って読むとまた別の感慨がある。
西原作品に色濃く表れる独特の死生観は彼女の私生活にもまた反映されているのかもしれない。
posted by NA at 14:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月22日

津原泰水強化月間

GW前後から集中的に津原泰水ばかり読んでいる。もう結構なベテランで、評判は前から気になっていたのだが、なぜか読む機会がなかった。

きっかけはこの「ピカルディの薔薇」だった。キッチュな装丁がハードルを越えさせてくれた。
この本は既に他作品に登場しているキャラクターが活躍するらしい連作短篇集だが、すんなりと物語世界に入ることができた。というか、こういうグロテスク趣味の物語にすんなり入っちゃいけないんだけどな。

小説を褒めるのに「文章がいい」と書くと馬鹿と思われそうだが、津原作品はぶっきらぼうでいて繊細でもあり、短いセンテンスが軽妙にリズムを刻んでいる。これはやはり私の貧弱な語彙では「文章がいい」としか書けない。行間から匂う折り目正しさ、品のよさが残酷な描写をもすんなり読ませてしまう。

続けて読んだ短篇集「綺譚集」も、出来にはでこぼこはあるものの概ねよろし。でもどう間違ってもベストセラーにはならない種類の小説だとも思う。

それにしても作家仲間(しかも女性ばかり)がやたらに帯でエールを送っているのはどういうことなのか、と思う。けっこう腐女子には人気なのだろうか。正直、ちょっと目障りではある。

さらにその次に手に取った長篇「アクアポリスQ」が初のはずれ本だった。壁に投げるまでは至らなかったが、広げた風呂敷の大きさに対して本の束がこれでは圧倒的に足りない。

初出は複数誌に掲載されるという成り立ちの小説だったようで、たぶん何かの間違いがあったのではないか、と勝手に想像している。で、ふだん付き合いのない出版社が「いいから出しちゃいましょう」と単行本にしてしまったとか。
まさかね。

少年が主人公で人工島が舞台のSF教養小説といえば山田正紀の「アフロディーテ」を思い出す。子供の頃読んだからだろうけど、なかなか印象深い一篇だった。少年の成長と人工島の黄昏というのは作家の想像力を刺激する組み合わせなのだろうか。

ただ津原本はといえば、道具立てが多彩な分イメージが像を結び切れずにあれよあれよという間に終わっちゃったよどうしよう、という感じだった。白髪の女性キャラクターなど人物設定は絵にしたらなかなかよさげ(見返しでちゃんと漫画化されている)なので、漫画原作などを想定してシノプシスを作っていたのかもしれない。

ともあれ次は「赤い竪琴」が待っている。
強化月間はまだまだ続く予定。
ラベル:津原泰水
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2007年05月14日

Graphication最新号が面白かった

富士ゼロックス 企業広報誌GRAPHICATION
今号で150号ですか。隔月刊の無料広報誌だけど、ここまでのクォリティのものは有料雑誌でもそう多くないと思う。で、今回は特集がさらに充実していたのが印象深かった。

「絵本の愉しみ」と題された今号の特集は、この分野に疎い私に数々の発見を齎してくれた。
例外的に知っていた長新太「ごろごろ にゃーん」が扉の写真にあったのでうれしくなってめくり、スズキコージという日本人離れした類稀な色彩の使い手の存在や、かの柳田邦男が絵本の紹介に力を入れていること、ロシア・アヴァンギャルドの絵本で図柄が和田誠そっくり(時系列で言えば逆だけど)なものがあること、ついでに坂本龍一のB-2 UNIT のジャケットがエル・リシツキーの絵本の模倣であることなど、多くの美しい図版で様々な驚きを与えてくれた。

ラフな絵柄の時事風刺イラストレーター、という印象しかなかった貝原浩(2005年没)が晩年手がけた繊細な描線による「鉛筆画集」の抜粋もグラビア5ページにわたって掲載されていた。498×650mmの実寸で見たらさぞかし圧倒されるだろう、という傑作ぞろいで、私の認識を改めるには十分な内容だった。
特集関連で、池内了の連載が「科学絵本というジャンル」としてなつかしい加古里子の図版を掲載していたほか、特集以外にも今号は高橋敏夫の連載「時代小説の中の現代」が、ノワールとしての股旅ものを取り上げていてこれまた面白かった。

凡庸な感想ばかり並べ立ててしまったが、通読して思ったのはなぜか「PCのインターフェースってまだまだだねえ」ということだった。絵本をひとつの極とする紙文化も、どうしてなかなか捨てたものではない。
印刷物とディスプレイの質感の違いもさることながら、冊子という情報パッケージの形態は2次元平面であるデスクトップを1次元的なマウスポインタでコントロールするよりも遥かに情報にアクセスしやすいと思ったからだ。もちろんテキスト全文検索などによる情報アクセスの容易さや二次加工可能性の大きさがメリットであることは確かだが、マウスで机を撫で回す以外の方法でコンテンツと戯れることの愉楽というものも確かにあると思った。
パロアルト研究所を創設したゼロックスだから、きっと文字と人間を繋ぐ新しいインターフェースを何か考えているに違いない。と無理やり関連づけておしまい。
posted by NA at 10:50| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月08日

メイプル・ストリートの家(スティーヴン・キング)

つまらない本というのもいろいろあって、怒りと共に壁に投げつける、いわばごく当たり前のつまらない本ばかりでなくて、「なんでこの本は面白くないんだろう」と不思議になってしまうつまらない本というものも中にはあって、この短篇五篇が収められたキングの「メイプル・ストリートの家」がまさにそれに当たるのだ。女性の人に失礼なたとえになってしまうが、不美人な人の中にもしげしげ眺めたくなってしまうような不美人がいるようなものだろうか。

長めの短篇「十時の人々」に特にその感が強い。中途半端な導入から始まる物語の奇天烈さ、内容にそぐわない中途半端な長さ、収拾に失敗したとしか思えない結末。それらすべての不恰好な要素は足し合わせてもやはり面白くはならないが、だがバランスの悪さゆえに曰く言いがたい読後感を残す。「何でこの小説はこんなかたちでアウトプットされてしまったんだろう?」と。
ランゴリアーズ」がそうだったように、映像向けのプロットに余り肉付けせずに(しかし部分的には妙に書き込んであったりする)文章化してしまったようなものなのだろうか。喫煙礼賛の物語が今のアメリカで映像化されるとは考えにくいが、そう考えてみると映像作品にした方が確かに座りがよいようにも感じる。

キングの小説を読むと、いつも「呼吸するタイミングが何か違うな」という感触を覚える。先の「十時の人々」は壮大すぎる物語を小さすぎる器に押し込めたような印象だったが、ほかでは概して小説を引き伸ばす方向に作用するようで、残りの四篇はほとんどワンアイデアを膨らませて短篇の長さに仕立てたような作品ばかりだ。そのワンアイデアも別に斬新でも何でもない、いずれもありふれたもので、だがキングはその陳腐な物語を臆面もなく正面から書き切ってしまう。まるで自分が初めて思いついた筋であるかのように。これも作家の芸ということなのだろうか。

素敵につまらないキング。本当に変な作家だと思う。
posted by NA at 04:32| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月25日

福家警部補の挨拶(大倉崇裕)

今年度最初の壁投げ本。わたくしはもしかしたらミステリというジャンルは読まない方がいいのかもしれない。少なくとも和物は。
しかし「刑事コロンボ」フリークの作家が手がけた倒叙物、と解説にあるとやはり期待してしまうではないか。

解説をよく読めば合間に「まだまだ生まれたばかり」とか「もう少しキャラクターに色気がほしい」といった言葉が見え隠れしていたことに気づくのだが、とにかく人物が平板なのだ。女性刑事の主人公もさることながら、殺人を犯す側の造形がぜんぜん魅力的でないのが、「コロンボ」へのオマージュとしては決定的に失格であると思う。
名作TVシリーズに挑んだ意欲はいいが、最初に登場して物語の方向付けをする犯人が、それぞれまったく「らしさ」を感じさせないのはどうしたものだろうか。多くがセレブリティだった(ような覚えがあるが違いましたっけ?)「コロンボ」の犯人らは、テレビでは誰が見ても「ああ、こいつはこういう人でこういう事情で邪魔者を消すのね」と納得できる説明がきちんとなされていた。というかテレビだから説明の多くは絵で見せればいいわけで、文章描写で魅力的なキャラクターを浮き立たせねばならない小説は最初から大幅なハンディを背負っているのに、この小説はそこらへん非常に無頓着である。
格差が拡大しつつあるとはいえ野放図な金持ちや上流階級を設定しにくい日本社会を舞台にしたことの問題もあろうが、全体に犯人像がみみっちい。コロンボとの駆け引きの中で証拠や動機を糊塗しようとしてかえって犯人が墓穴を掘る、というような心理描写の妙もなく、刑事役(欠点が何もない)が最初から知っていたかのように真相に一直線に辿りつくばかりでは、倒叙ミステリならではの面白みはまるで感じられない。

昨年読んだ「林真紅郎と五つの謎」「パラドックス学園」よりはましだとは思うが、Amazonの書評がみな絶賛ばかりなのは解せない。どうも「コロンボ」マニアでなければわからないくすぐりなどが仕込んであるようだが、単体のミステリとして鑑賞するに堪えない作品であるのならば最初からマニアご用達である旨をうたってほしかったと思う。
期待が大きすぎた分失望も大きかった。
posted by NA at 04:37| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月16日

千年樹(荻原浩)

何かがおかしい。どこか変だ。
荻原浩の最新の短篇連作集を読んで、そんな思いに取りつかれた。
本当にこれは生と死をめぐる感動の物語なのか? 違うもの読んでないか?

刊行直後に購入して世に書評の類が出てくる前に読んで、最初は「うむ、そういう趣向か。火の鳥火の鳥」などと(後半は無意味なので無視して下さい)納得しながら読み進めたのだが、どうも様子が違う。
もしかしてこれは壮大な騙し絵なのではないか?との疑念が拭えない。ネット上のレビューを見てまわると皆さん基本的には感動しておられるようだ。でも、それが本当に正しい読み方なのだろうか。
わからない。

ということでもう一回気合を入れて読み直すことにする。その後で改めてレビュー書きます。
あ、ちなみにどういう解釈であれ基本的に面白い本であることに違いはないので、買うかどうか迷っている人がいたら迷わず背中を押してあげて結構かと。
ラベル:荻原浩
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2007年04月11日

エンプティー・チェア(ジェフリー・ディーヴァー)

都民でないので特に選挙演説なども聞かず、週末は読書三昧で過ごす。

個人的には4年前読んだ「青い虚空」以来のディーヴァー本。「青い虚空」はシリコンバレー(vの表記不統一だなあ)出張中に読んで、周辺の風景と見比べたりして楽しんだものだった。サイバースペースを小道具にしたサスペンス作品で、娯楽小説にありがちなコンピュータに関する杜撰な描写もなく、ただただ密度に圧倒された。彼の作品が面白いとわかっていながらもなかなか次の本に手が出なかったのは、その物語の濃ゆさゆえだろう。

「リンカーン・ライム」シリーズは既にかなりの巻を重ねているらしいが、第3作目である本書から読んでも設定や人間関係をちゃんと不足感なく理解できるのは一見の客をもしっかり楽しませる米国産エンターテインメントの王道といえよう。
カバーに書かれた文春文庫編集部による無神経なサマリー(下巻のは特にひどい。プロットの一番盛り上がるところをバラすとは!)を読んでしまったため妙味が2割ほど減少したものの、それでも低下分以上の価値は十分ある。ストーリーに振り回される快感を存分に味わわせてくれたので、多少の御都合主義は許す。というか御都合主義でないと味わえない楽しみというものは確かにあるのだ。
終盤出てくる米国の司法取引の乱暴さに毎度のことながら呆れつつも、当事者が自ら主張して条件を示し運命を切り開くという法のあり方はわが国でも実現してもいいかもな、と今朝新聞で読んだ裁判員制度の記事(結局裁判官の意のままに誘導して結論出させるのかよ、みたいな内容だった)を思い出したりもした。
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2007年04月07日

これは買わねば>ココロミくん2

早くも2冊目登場。
ココロミくん2
ココロミくん2
posted with amazlet on 07.04.07
べつやくれい
アスペクト (2007/04/25)
売り上げランキング: 823
誰かを褒めるため他の人を貶めるのはあまりいい趣味ではないが、デイリーポータルZ連載の中では彼女の記事が群を抜いて面白い。月とすっぽん、掃き溜めに鶴。←もとのことわざについて言うと、そういう所にいる鶴にも若干問題があるとは思う
他のコラムを差し置いて単著化されているのもむべなるかな。
円グラフによるべつやくメソッドも普及の兆しを見せているし、今年はべつやくれいが来そうだね。
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2007年03月23日

もっと、わたしを(平安寿子)

初めて読んだ平安寿子の小説は「なんにもうまくいかないわ」だった。シングルの女性を描く田辺聖子、群ようこらの系譜に連なる作風と思いつつもどこか違うと感じていたが、文庫入りしたこの連作短篇「もっと、わたしを」で何となく正体がわかったような気がした。とにかく洒落ているのだ。

現実離れしてはいないもののこんなにいかした台詞を日本人が日常会話でやりとりはせんよなあ、という会話が頻出する。それが実によい。冴えないサラリーマンやこぶつきOLなど、どんな登場人物を描くにしても、上質の恋愛映画を見るようなセンスのよさは常に共通している。横溢するユーモアと要所のペーソス(実に適量)、説得力あるディテール、前作の脇役が次作の主人公になるロンド形式も綺麗に決まっていて言うことなし。うまい小説、品のいい小説を読みたい人にはとにかくお勧めだ。
都会的、と言ったら地方を貶めるように聞こえるが、「都会」はきっと人が皆趣味のよい言葉を使って暮らしている理想郷のことを指すのだろう。それは決して現実の日本ではない。

よせばいいのに平安寿子以外の全女流作家を敵に回すかのような奥田英朗による解説も失笑必至なので、単行本で読んだ人も立ち読みを推奨。後味のいい小説を読みたい人は必読。いや、本当にいいんだから。
ラベル:平安寿子
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2007年02月20日

キートン動物記(勝鹿北星+浦沢直樹)

今地震が来たら本に埋もれて死ぬことに気づき、読了したもの読みかけで放棄したもの取り揃えて70冊ほどBookOffへ担いで行く。
自分では古本を買うことはまずないのだが、蔵書の古本市場への放出は作者にとってどうなのか日本の出版文化にとってどうなのか、といつもの疑問に頭を悩ませる。より多くの人目に触れてほしい半面著者の印税収入を疎外したくないし。ベストセラーだったら何のためらいもなく叩き売るだろうが。持って行った本は、結局四千円少々にしかならなかった。

その泡銭で柄にもなくつい買ってしまったのが、棚に並んでいた「キートン動物記」定価1,400円のところ750円也だった。絶版になって久しい「Masterキートン」シリーズの番外編だ。
「Masterキートン」絶版騒動についてはかつて週刊文春が取り上げ、経緯はサイト勝鹿北星と浦沢直樹と長崎尚志に詳しい。

緻密な絵でウェルメイドな短篇連作漫画を読ませていた浦沢直樹が壮大なスケール(大風呂敷ともいう)で物語を紡ぐ作家へと脱皮するには、旧来の原作付き漫画という制作スタイルと訣別しなければならなかったのだろう。「Masterキートン」以前の浦沢直樹の作風も好きな私としては残念だが、その後の進化の代償としては仕方ないだろう。

雑誌に載っていたときにもたまに見かけていたこの「キートン動物記」をまとめて読んで、改めて旧浦沢の到達した高みに思い至った。丹念に描写された動物の毛並みなど、絵本としても十分なクォリティの4色カラー、おなじみのキャラクターが活躍する1エピソード4ページのまとまりのよさ。連載の余技でこれだけのものを作れる画力の高さは見事だ。私はもう買ってしまったから復刊しなくてもいいけど(笑)、もっと多くの人に愛されていい作品集だと思った。
そして、巻末の故・勝鹿北星のあとがきが印象的だったことにも触れておきたい。実際の漫画作成への貢献がどれほどのものだったかは当事者しかわからないが、自然愛好家としての彼の視点が「Masterキートン」の作品世界を豊かにしたことは間違いない。惜しい原作者を亡くしたものだ、と今更ながら思う。
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2007年02月13日

夜は短し歩けよ乙女(森見登美彦)

痛快でたらめ恋愛小説。あまりの面白さに悶絶した。不真面目な小説が好きな人は必ず読まねばならない。

京都を舞台に大学クラブの先輩後輩(文中に記載はないがきっとSF研か何かだ)の恋模様を描く小説、という枠組みでどうしてこんなめちゃくちゃな内容になるのかわからないぐらい、全編にわたって奇想が横溢した連作長篇である。
主人公ふたり(自意識過剰でストーカー気味な語り手「先輩」と、対照的に無意識過剰な「黒髪の乙女」)の予定調和的追いかけっこもさることながら、鰻をまねた詭弁踊り(「それにしてもどこの阿呆だ、こんな踊りを考えたのは。末代までの恥だ」)をくねくね踊る詭弁論部(とそのOB)や学祭に出没する馬鹿学生の面々などなど、登場する群集の扱いが特によろしい。常識に欠ける主人公らが常識を逸脱した脇役らを巻き込み巻き込まれて混乱を拡大する筆の運びは、全盛期の筒井康隆を彷彿とさせる。しかし面白い小説を読むとすぐ筒井を引き合いに出す私も困ったもんだまったく。

京都小説(何それ)を京都人から解放したという意味でもこの小説は画期的だと思う。古都の地理に詳しいか観光案内を片手に読まなければ楽しめないような京都にもたれかかった小説でなく、なおかつ歴史渦巻き学問などにかまけて浮世離れした人士の集う京都でならこういうこともありそうだ(あるわけないが)と思わせる設定が絶妙である。京都の魅力は何より京都の人間にあるのだ。

今更かなうはずもないのだが、読了後、大学時代を京都で過ごせばよかったなあ、と思わされた。この小説に通じる空気が今も京都には流れているのだろうか。
気が早いが、映画化するなら気が弱くてそのくせ大胆な先輩役はオダギリジョーかなあ。緋鯉のぬいぐるみを背負って様になる黒髪の乙女役女優が果たしているのかどうかが問題だ。
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2007年02月12日

ミステリアスセッティング(阿部和重)

いまどき吟遊詩人を夢見る少女が主人公、というのがそもそも人を食った設定だと思う。その上音痴で他人を信じやすく騙されやすく涙もろいのだからヴァルネラビリティ最強である。
そんな聖痕を受けた主人公ゆえ、友人や家族、上京して出会ったバンド仲間による受難の場面はある意味予想通りの展開なれど、痛々しさを推進力についつい先へ先へと読み進めてしまう。だが油断ならないことに、物語は後半で突然思いがけない転調を迎えるのだ。いや、受難する聖者の物語としてはこれ以上ない直球勝負なのかもしれない。あとは読んでのお楽しみ。

一冊の単行本としてまとまったものを読んでも面白かったが、やはりこれは当初発表されたスタイルの通り、携帯電話上で受信すべき文字列だったな、と思う。
「ミステリアスセッティング」(本来の意味は公式サイト参照)の含意はあからさまに明らかだ。終幕に描かれる、本来ありえない状況で発信された携帯メール(本当に電波通じるのか?)のやりとりを自分の端末で読むことは、そのまま主人公らの置かれた状況に自らを否応なしに置くことになる。配信時間が小説内時間とシンクロしていれば最高の効果が得られたことだろう。ここに至って読者はようやく、この物語が最初から自分ひとりに向けて発信されていたこと、孤独な少女の魂の物語は自分の耳元で囁かれていたことに気づくのだ。

既にサイトでの配信は終了している。単行本買った人には再送信サービスをしてくれるとか、そういう趣向があればなおよかったんだけど。
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2007年02月07日

荻原浩の夕刊小説に期待

朝日夕刊で連載が始まった荻原浩の「愛しの座敷わらし」が面白そうだ。
毎回サブタイトルがついており、語り手が日々代わっている。連載一回の原稿用紙三枚分(ぐらい?)で一章ということだろうか。一回分のエピソードでちゃんと話がまとまっているのが、つい読みすごすこともある新聞連載ならではの工夫という感じがする。

それぞれの思惑を抱えて分解しそうな家族の間に座敷わらしが出現して果たしてどうなるのか、展開が予想できてなおかつ楽しみなのが荻原小説の醍醐味だと思う。吉田修一による前作も面白かったが、今回も大いに期待できそう。

ファンサイトなかよし荻原組へトラックバック。ご本人の公式サイトはないのかな。
ラベル:荻原浩 朝日新聞
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2007年02月02日

相剋の森(熊谷達也)


名は体を表す。現代日本における熊小説の第一人者である熊谷達也の「森」シリーズ第一弾を逆順で読む(執筆はこっちが後なのでは?)。
こちらは現代小説だが、時代をずっと遡った「邂逅の森」の登場人物の子孫が登場し、作品の舞台もちゃんとリンクしている(未読のデビュー作「ウエンカムイの爪」は本作に登場する写真家が主人公らしい)。「邂逅」「相剋」と来たら次は「宥和」か「妥協」かはたまた「斃殺」か。同じく仙台在住で熊谷達也と親しいらしい伊坂幸太郎も作品世界にスターシステムを導入しているところからすると、共通するキャラクターで壮大なロマン世界を構築する「東北派」という文学潮流が今まさに起こりつつあるのかもしれない。二例で大風呂敷広げるなよ。

とはいえ、本作の主人公のひとりである女性フリーライター佐藤美佐子(「佐」の字を二度も入れるとは、脇役に甘んじるべき存在という含意なのか)は正直言って私にはあまり好感の持てる存在ではなかった。ごめんなさい。でも取材先に迷惑かけてはいけませんよまったく。どんなに優秀で美人であっても、現実世界で出会ったらちょっと敬遠したいタイプ。「邂逅」ほど楽しめなかったのは現代社会と森をめぐる「相剋」というテーマの重さもさることながら、キャラクターが今ひとつ魅力的でなかった点も関係していると思う。
作者の主張は中頃で脇役のひとりの口からストレートに語られていて、メッセージ自体は至極納得のいくものだったが、それを伝えるには小説のかたちでなくてもよかったかも、と思わなくもない。

しかし五百ページを超える長編にもかかわらずすらすらと読めるリーダビリティの高さは相変わらずだった(出版はこっちが先ですが)。筆力は本当に素晴らしい。「森」を離れた小説もいくつか出しているようなので、そちらも読んでみようと思った。
ラベル:熊谷達也
posted by NA at 10:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月28日

邂逅の森(熊谷達也)

邂逅の森
邂逅の森熊谷 達也


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直木賞山本周五郎賞をダブル受賞という話題作ながら単行本発刊時には読み漏らしていたため、文庫落ち(って言い方には抵抗あるんだけど)を機に購入しかなりのページ数にもかかわらず一気に読了。本格的な動物小説かと思っていたら若干肩透かしだったけど、面白く読めた。

伝統的なマタギの世界を舞台に描いた作品ではあるが、わかりやすすぎるぐらい平易に書かれている。漫画化しやすそうだな、と思っていたら案の定既になっていた

基本的に主人公はスーパーマンであって常人以上の活躍が保証されており、主要な登場人物の幾人かはしかるべき理由により東京言葉を話したりするなど、極めてサービスの行き届いた長編だった(濡れ場の描写や配置もそうかも)。それが悪いということではもちろんなくて、リーダビリティの高さ筋立てのわかりやすさはエンタテインメント小説としては大いに賞賛されていいと思った。まあこうでないと、選考委員が碌に候補作を読んでいない(特に長編)と思われる直木賞では到底生き残れなかっただろう。

熊が全編の9割方で単に熊の胆を取るためだけの存在として描かれていたのは何だかなあで、ラストに配置された「ヌシ」との死闘も何か唐突な感じはぬぐえないのだが、まあ神格化された熊を描くための小説ではないのだということで納得。
安心して読める小説、というとどうも貶めているような言い方に聞こえるが、大戦間の東北を舞台に冒険活劇場面を含む教養小説を成立させた作者の手腕はなかなかであると思う(←なんかえらそうな書き方だな)。
ちょっと手塚治虫の「シュマリ」に似ているかな、と思ったのも事実だけど。
ラベル:熊谷達也 マタギ
posted by NA at 00:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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