2008年03月03日

森見登美彦強化月間

痛快作「夜は短し歩けよ乙女」を読んでから一年以上経っていたとは。なぜか突然「森見登美彦を読まねば」という思いに駆られて近所の本屋に向かい、とりあえずあるだけの在庫を買ってきた。別にひなまつりとは関係ない。最近はてなブックマークで話題になったのをきっかけに折田先生像をめぐる京大生のばかたれ加減を知ったことは多少影響している、かもしれない。

まずデビュー作の長篇「太陽の塔」、換骨奪胎の短篇集「【新釈】走れメロス 他四篇」を読み、「夜は短し」の狂騒的なトーンはこの人の作風ではむしろ例外なのかもしれない、と思った。後者の表題作を除くと、内省的な印象の方が勝る。
だが、京都の魅力・魔力を強く感じさせる文章はデビュー以来一貫しているようだ。

京都で学生生活を送ったら誰もがこんな日々を送れるわけではもちろんないが、どうやら京都という場には遊民らの跋扈を許す懐の広さがあるらしい。あまりフィクションと現実をごっちゃにするのもどうかと思うが、それにしても折田先生像と戯れる不届き学生らがうらやましいことではある。
翻って東大生が主人公だと、絶対こういう話が成立しない(と思う)のはなぜだろうか。同じようにおろかで想像力豊かな学生はいっぱいいるだろうに、東大生にはそういうイメージが似つかわしくない。やはり賢すぎると愛しにくいのか。これはあくまでもイメージの問題なのであまり気にしないでください。>東大の人

tower.jpg三年前に訪れた「太陽の塔」の写真を再掲。先の長篇の中でも「太陽の塔」は脈絡なく現れ、特に何かのシンボルということでもなく謎の存在として扱われているが、まあそれだけ圧倒的な存在感を府県境を越えて発信しているのであろう。実際あれはすごい。
最近また人気の奈良の鹿も含めて、関西をあなどってはいけないと思ったことだった。

ともあれ次は「有頂天家族」「きつねのはなし」だ。動物変化ものもこれまた京都には似つかわしい。楽しみである。
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2008年02月26日

中国ニセ食品のカラクリ(富坂聰)

正視に堪えない本、というのはなかなか出会えるものではない。個人的にはスプラッタ度数の高いホラーは非常に苦手なのだが、もともとそういう本には食指が動かないので読むこともまずない。私の平和で小規模な人生とは無縁な存在だ。
だが、食品絡みの話となると「俺とは無関係だから」と澄ましているわけにはいかない。外食に大きく依存している私の食生活をかんがみると、ことは死活問題かもしれない。というわけで、指の隙間から読むべく、このノンフィクションをこわごわ手にとってみた。
すごかった。これは並のホラーじゃ太刀打ちできない。読後しばらく茫然となるぐらいの衝撃だった。中国が嫌いな人も、食の安全が気がかりな人も、現状把握のためにはまず本書を読むべきだ。

帯にもあるように「おぞましい」としか言いようのない中国の食品偽装・汚染の実態が、これでもかこれでもかこれでもかと列挙される。
昨年の週刊誌連載を基にしているので(段ボール肉まん事件とかありましたな)もちろんまだ毒ギョーザの話は出てこないが、いやもう、中国では類似の事例ですでにばんばん人が死んでいるのだからして、日本での騒ぎにさほど驚く様子がないのもむしろ当然なのかもしれない。
養殖魚の薬剤汚染、ニセ卵に人造蜂蜜、毒入り粉ミルクに牛尿入り牛乳、雑菌入りニセ醤油にカビ梅、漂白カニ、鉛粉入り冬虫夏草、薬・酒・煙草の偽物、線虫入り巻き貝、と列挙していて気持ち悪くなってきたのでやめておくが、中国国内で報道された諸々の事例は、どんなに空腹時であっても一読すれば食欲を失うこと必定である。ダイエットのお供にいいかもしれない。

だが、読み進めていくうちに悲しみが湧いてくるのに気づく。
事態は絶望的だ。中国はあまりにも広くその人口もあまりにも多く、市場化の進展で共産思想もすでに規範としての力を失い、拝金主義以外に社会を律するものはないように見える。毒入り食品の流通と環境の破壊は中国国民のモラルハザードの顕在化そのものである。我が国が数十年前に体験した悲惨を何十倍何百倍にしたかたちで彼らは今体験しているのだ。まず弱い者を手始めに、大勢が病み苦しみ死ぬのも無理はない。「ルールを守ると生きていけない」社会で生き残った者たちが、どうして国を超えての他者との共存を実現できよう。

帯にある「脱『中国製品』は可能か?!」の問いかけに対する答えは自明だ。もちろん不可能である。我々は安全性に目をつぶり――安く買いたたいてもそう無茶はしないだろう、最低限食える物は供給されるだろう、と見くびって――ひたすら安さの実現を中国に要求した。日本だけの責任ではないにせよ、ある意味自業自得ではある。
食品を巡る惨状を踏まえてなお、本書の終章「被害者は誰か」で筆者は、「自分たちの生活環境を良くするのも悪くするのも中国次第」「生活を守るためには、身の回りにある『中国』を排除するのではなく、むしろ積極的に『中国』に関わり、中国の問題を共有して『中国』に変化を促さないといけない」と訴える。困難な道であることは間違いないが、もはやそれ以外に進むべき道がないこともまた事実だろう。
毒ギョーザ事件は日本の消費者を狙った謀略の可能性があるようだが、普段から毒入り食品の恐怖に怯える中国の消費者もまた一連の事件の被害者であることには変わりない。「ニセ食品のカラクリ」が生み出された背景には、安全より安価を求めて中国に進出した日本の食品業界(ことは食品に限らないが)の影響があることも否定はできないだろう。

amazonの書評ではこの結論を無視して(最後まで読まなかったのだろうか?)中国食品排除を訴えるレビュアーばかりだが、ことはそう単純なものではないはずだ。
まあとりあえず夏の北京五輪には行きたくないし行く用事もないしいろいろな意味で行かない方がいいとは思うが、中国大陸が汚染塗れになるのを放置した結果日本海が異常繁殖したエチゼンクラゲに占拠され都市という都市が黄砂に埋もれては手遅れなのだ。怖いからと言って目を背けているわけにはいかない。我々はこの厄介な隣人とこれからも付き合わなくてはならないのだから。

本書のわずかな救いは、中国のマスメディアの活躍ぶりだ。でたらめで気まぐれで時には虚報もやらかし当局の圧力も強烈にかかっているようだが、それでも幾多の事例を告発したはたらきは見逃せない。
ネットでの報道を通じて中国共産党の一党支配体制に風穴が開けば、旧ソ連がそうであったように変革は思ったよりも早く訪れるかもしれない。心ある中国のジャーナリストを応援したいと思う。

参考リンク:
善くも悪くも常識と想像を裏切る国それが中国 | mammo.tv
「中国ニセ食品のカラクリ」著者の富坂聰さんに聞く(夕刊フジブログ)
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2008年02月17日

象牙の舟に銀の櫂

予告されていた「ルピナス探偵団の憂愁」(津原泰水)が出ていたのに気づかなかったのは迂闊だった。毎度で恐縮だが、もっと早く読むべき作品だった。

ミッション系学園に通う女子三人プラス男子一人の高校生らが身の回りで起きた事件(すべて死人が絡んでいる)の謎を解く前作「ルピナス探偵団の当惑」は、もともと少女向けに別々に書かれた小説を改作してまとめたという経緯もあって、語り口を楽しむ愛すべき小品集という趣が強い一冊だった。だが、同じキャラクターらのその後の活躍を描いた四篇から成る本作は、明確な文学的意図のもとに構築された連作長篇へと姿を変えていた。
津原泰水の筆巧者ぶりは今更言うまでもないが、どんなすれっからしの読者も「こんな高校・大学時代を送りたかった」と思わずにはいられないであろう一級の教養小説である。

東京創元社のミステリ叢書の一冊としての刊行だが、謎とその解決は悪く言えば荒唐無稽ということになるのかもしれない。だが、むしろこれは人造の美として愛でるべきであろう。博覧強記の少年探偵の活躍は素直に楽しむのがよい。
前著の感想で「作者はキャラクターの書き込みにそれほど熱心ではないようだ」と失礼なことを書いたが、本作の三人の少女らはいずれも魅力的な人物になっていた。

四つの短篇は、高校卒業の直前に起きた殺人事件のエピソードへと収斂するように時系列を遡って配置されている。文字通り花園でもある学園からの門出をめぐる一篇を最後に置くことで、作者はこの四人の登場する物語全体に神話的な輝きを与えた。
ネタバレは避けるが、終幕でのシスターによる告解のような独白と四人が立てる誓いの場面は、きっと何か古典的名作の一場面を範としているに違いない。それが思い当たらない己の非才がもどかしい。

最後に表紙絵も褒めたい。長い影を落として佇む二人の少女と、帯を外すと現れるもう一人の少女の後姿。読後に改めて眺めて胸が詰まった。
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2008年02月06日

hon・nin列伝(吉田豪)

女優というのはすごい。抱えているもの背負っているものが違う。スーパーインタビュアー吉田豪の新刊を読んで圧倒された。
松尾スズキがスーパーバイザーを務める雑誌「hon・nin」に掲載された連続インタビューの単行本化。

吉田豪の徹底した事前リサーチに基づくインタビューについては、雑誌掲載後単行本に収録されなかったことでもはや伝説となった畑正憲インタビューを読めば誰もが感服するだろう。このシリーズも雑誌連載時から麻生久美子の回がブログ界では評判だった(たとえばhon-ninの麻生久美子さんインタビューが面白すぎる - さよならテリー・ザ・キッド)ので気になっていたが、果たして残りの四人も負けず劣らずすごい話ばかりだった。

インタビューイにそういう人ばかり選んでいるからだろうけど、彼女たちが芸能界での成功に至るまでに(引き換えに、とは言えないが)どれほど多くの欠落を味わってきたかを、吉田豪はじっくり引き出している。家庭崩壊、いじめ体験、精神や体の病、貧乏、離婚……。
と書くとひどく陰惨な印象を受けるが、合間合間の「ダハハハハ!」という笑い声が効いているのか、女優たちがそれほど屈託なく話している様子なのが救われる。吉田豪のインタビューは対象者にとってもしかしたらカウンセリングみたいな効果があるものなのだろうか。
しかし読み手に取ってはやっぱり重い内容であることには変わりなく、ページを閉じたときには溜息が出た。

一番年上の広田レオナのポートレートが異常に可愛くて「え?こんな人だったっけ」と虚をつかれた。しかし四年間寝たきりでしたか。うーむ。そして自分の著書を「ちゃんと読んでない」というわ(かつて松本伊代もそんなことを言ってましたな)「ぶっちゃけ『NANA』とかもあんまり好きじゃない」と嘯くわで飛ばしまくりの土屋アンナに呆れ、しょこたんの早逝した父親譲りの一筋縄ではいかないあまりの濃ゆさに感心し、今なお揺れ続ける荻野目慶子の多難な人生に「幸多かれ」と願った。
で、やはり白眉は麻生久美子。長い長い語りだけで原爆の災禍を現出させた映画「夕凪の街 桜の国」の熱演はこういうバックグラウンドから生まれた、ということがわかっただけでも収穫だった。家庭内で殺されたり、風俗の道に行ったりしないで本当によかったですね。

すべての女優がそうだとは思わないが、不安定さやよるべなさをエネルギーに変えて前に進むほかない人たちもいるんだな、というのが全体を通じての感想。吉田豪もきっとそういう女優に惹かれてこのシリーズを企画したに違いない。まあ、家庭円満幸せいっぱいの人格者の話は面白くないだろうけど。
彼女たちの前途が輝かしいものでありことを願ってやまない。輝くためのエネルギーは闇からしか調達できないとしても。
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2008年01月24日

愛読者――ファンレター(折原一)

今年最初の壁投げ本。つまらないだけでなく、いろいろ気になる内容だった。以前講談社文庫に収録されていた作品を、同じ著者の「……者」シリーズに合わせて改題し他社の文庫で再収録したわけだが、それほどの魅力がある小説だとは到底思えない。

折原一の作品では以前、文庫なのに箱入り2冊セットという「遭難者」を体裁の工夫だけに気を取られて買ってしまい壁に投げたことがある。あ、あと「沈黙の教室」はそこそこ面白く読んだ記憶がある。
本作は残念ながら前者と同類の叙述トリックもどきのミステリくずれだったわけだが、なんというか、つまらなさを度外視しても(ひでえ)後味がとても悪い。それは主に登場する女性キャラクターの扱い方に由来する。

別に小説は徳育の養成が目的でなくてもよいので(そんな小説はほとんどないだろうが)、作家は登場人物を不幸にしようが八つ裂きにしようが煮て焼いて食おうが木の葉にちょいとかぶせようが自由にしてかまわないのだが、しかし大事なことはそのコントロールがちゃんと文芸という「芸」になっているかどうかだ。

この本は「覆面作家」をめぐるいざこざを軸にした連作短篇集という仕立てだが、執筆の目的は単純にモデルとなった特定作家への(よくいえば)おちょくり(わるくいえば)あてこすりではなかろうか、とさえ思わせるものがあった。親交のある相手らしいので内輪のじゃれあいと見るべきなのだろうが、無関係な読者を楽しませるほどの「芸」にはなっていない。
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2008年01月11日

Graphication No.154

富士ゼロックスの広報誌「Graphication」、今号の特集は「ケータイ文化を考える」だった。
今更「ケータイ」と書かなくても、とは思ったが、携帯電話の域を超えたモバイル端末およびその文化総体を指し示すキーワードとしての「ケータイ」ということなのだろう。

未知の内容は少なかったが、斎藤貴男の寄稿「私がケータイを使わない理由」は、反ケータイ派の論理をコンパクトにまとめた良エッセイだった。文中に出てくる「脳ミソのアウトソーシング」現象は、別にオリジナルは誰でもいいけど私も以前のエントリでまさに同じようなことを書いたな、と大いに共感した。

しかしいつかはデスクトップPC以上の操作性(たぶん鍵は音声/視線のパターン認識とHMDだろう)と同等の通信速度と長時間利用可能なバッテリを備えた、もはやケータイとはいえない体の一部のような端末が出現するだろう。記憶の外出し完成だ。
空調服2.0とセットになって人間から排熱回収して動いたりするのかな。超小型スピーカーと骨伝導マイクを鼓膜のすぐそばあたりに配置して秘密の通話がたやすく可能になったりするのかもしれない。こうなるともうサイボーグまであと一歩という感じだ。

人と人との界面に割り込みコミュニケーションをブーストする携帯端末の未来を考えると、何やら物狂おしい感覚に襲われる。たぶんそれは、心の通わせ方の変質は、社会を作って生活する人間という種の本質にかかわる問題であることに由来するのだろう。肯定するにせよ否定するにせよ、議論が熱を帯びるのは当然だと思った。
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2007年12月21日

いろいろ読む

最近読んだ本や漫画。感想は随時追記予定。

「おそれずにたちむかえ――テースト・オブ・苦虫」(町田康)
週刊誌連載はたいへんだな、と思った。文章が暴走しきれず破壊力はややおとなしめだが、町田康一流の職人芸を堪能できる一冊。
しかしお茶大の某教授も、あれだけ連載が長く続くとつらかろう。と余計なことを考える。

「ずっとお城で暮らしてる」(シャーリイ・ジャクスン)
面白そうな話なのにすんなり頭に入ってこないもどかしさ。俺の頭が悪いのか作者か訳者が力不足なのか。

「ねにもつタイプ」(岸本佐知子)
行き付けのバーのマスターから「ほとんど記憶のない女」を勧められて以来気になっていた筆者(朝日書評「ベストセラー快読」での飛ばしっぷりも印象的だった)。今年のもっと早く読むべきでした本ナンバーワン。
強靭な妄想力と、それを文章に定着する技術の高さは、方向は全然違うけどつげ義春を訪仏させるものがある。フランスに行かせるなよ。
Wikipediaでプロフを見て思ったのだが、JG→上智→サントリー(宣伝部はたしか東京)、という四谷赤坂オリエンテッドな環境で育まれたことが、もって生まれた奇天烈な発想を矯めずに済んだ一因かもしれない。
というわけでこれからは佐知子で行こうと思った。どこへ。

「PLUTO(5)」(浦沢直樹他)
前にも書いたけど、既知の物語を枠組みとしていることで読んでいて安心感がある。サスペンスドラマを安心して読んではいかんのかもしれないが。
欲を言えば、ややストーリー展開に重心が寄ってきたのでもうちょっと手塚世界のなんやかやと戯れてほしい気もする。遊びがなくちゃね。

「デトロイト・メタル・シティ(4)」(若杉公徳)
ギャグ漫画にありがちな際限なく続く日常ではなくてジャンプ型エスカレーション路線を選んだらしい。この先不安だけど頑張ってください。>作者

「ブラッドハーレーの馬車」(沙村広明)
陰惨な物語を暗い絵で描いた作品。というと身も蓋もないが、つくづく救いのない話が好きな作家さんである。

「さよなら絶望先生(11)」(久米田康治)
ギャグ漫画地獄に落ちている作家がまたひとり。この勢いで毎週のネタ出しはさぞかし大変だろう。そして半年も過ぎれば意味不明な時事ネタの多いことよ。
行く所まで行きましょう。私はどこまでも付いていきますので頑張ってください。>作者

「オタクコミュニスト超絶マンガ評論」(紙屋高雪)
ブログで読んで知っていた内容だったが、紙でまとめて読むとまた別の味わいがあって面白かった。勧められている「子育てハッピーアドバイス」(明橋大二)はぜひ読んでみようと思った。1万年堂出版の本だからと言って馬鹿にしてはいけないのだな。
ところで本のつくりはいま一つ。硬派のマンガ評論であることが正しく評価されるといいのだが。

「国のない男」(カート・ヴォネガット)
最晩年のIn These Times誌への寄稿は本にはならないのだろうか。ともあれ、ヴォネガットはまさしく移民国家としてのアメリカの知性であり良心だった、と改めて思う。
本書は苦く悔恨に満ちた述懐と皮肉ばかりで、往年の軽やかさは影を潜めている(訳者が浅倉久志さんだったらまた少しトーンが違った?)が、それでもあの懐かしいヴォネガット節が随所で顔を覗かせる。

「指し手の顔 脳男II(上)(下)」(首藤瓜於)
大作。これは稿を改めて書こう。

「遺跡の人」(わたべ淳)
「失踪日記」に似ていると言うなかれ。「レモンエンジェル」みたいなスマッシュヒット(恥ずかしいので読んでなかったけど)を出した人でも、漫画家であり続けることは厳しいのだなあ。プロの世界ゆえ当然かもしれないが。それでも希望を感じさせてくれる内容で救われたのは事実。
吾妻ひでおほど零落はしなかったようで、すっきりした描線は健在だ。まだまだ一線で描いてほしい漫画家。ところで奥さん(高見まこ)とはどうなったんでしょうか。

「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」(森達也)
ゆるくてよかったです。まず結論ありきではない、書きながら考えるスタイルにも共感。

「キノの旅XI」(時雨沢恵一)
寓話に文句をつけるのも大人げないけど、斜に構えるのもほどほどにした方がいいのではないか、と思った。若いうちに世界を全部知ったつもりになるもんじゃないよ、と、誰に対してだかよくわからない(主人公?作者?読者?)感想を抱く。
例によってシリーズ物のうち一作だけの読後感ではあるが、たぶん残りの十巻+αもこういうトーンであろう、と想像する。
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2007年12月09日

伊坂作品と米国TVドラマ

朝日新聞に載った「ゴールデンスランバー」についてのインタビュー(信頼武器に迫真の逃走 伊坂幸太郎、2年ぶり書き下ろし長編)で、伊坂幸太郎さんがドラマ「逃亡者」に言及していた。
 作家の伊坂幸太郎さん(36)が、2年ぶりの書き下ろし長編小説『ゴールデンスランバー』(新潮社)を出した。国家的陰謀で首相暗殺犯に仕立て上げられた男の物語だ。迫真の逃走劇を通して、人間の最大の武器は信頼なんだ、という作者の思いが伝わってくる。
 仙台市内をパレード中の新首相が、奇想天外な手口で暗殺された。ぬれぎぬを着せられたのは、2年前に強盗からアイドル歌手を救い、マスコミで祭り上げられた男。証拠や証人がでっちあげられ、圧倒的に不利な状況の下で、逃走劇が繰り広げられる。400字詰め原稿用紙で約千枚。2000年に作家活動に入って以来、最長の作品となった。
 「エンターテインメントの王道的な枠組みを借りながら、本質では違う作品にしたかった。これまでの変化球ではなく、直球勝負です。最初は映画の『ダイ・ハード』が頭にありましたが、舞台が閉鎖空間なので動きに乏しい。それならば『逃亡者』でやろうと。逃げることをテーマにした小説や映画でイメージを高め、逃亡に関するアイデアを徹底的にぶつけました」
「魔王」では「冒険野郎マクガイバー」が引用されていたなあ、と思って前のエントリでは特に根拠なく元ネタ予想のひとつとして「逃亡者」を挙げたのだが、たまたま当たっていたらしい。こういうのは何となくうれしい。

伊坂作品に登場する日本人同士の日常会話とは(いい意味で)思えない登場人物の洒落たやりとりや荒唐無稽一歩手前の大胆なテーマ設定などについて村上春樹の影響を指摘する人は少ないないみたいだが、(これまでのところ)濡れ場を決して書かないこととか主人公のモラルのありようなどは、むしろアメリカ製テレビドラマの最良の部分を彼が吸収した結果ではないか、と思ったりした。人の善意を信じ親子の絆を肯定的に受け止める伊坂作品の主人公らの姿は、かつて親しんだ懐かしい海外ドラマの主人公らのそれと二重写しになって見える。

村上さんと伊坂さんは20歳以上歳が離れているのだから当たり前と言えば当たり前だが、村上世代では活字経由の比重が大きかった米国の影響が、伊坂世代ではテレビを中心とした映像からもたらされている。「ダイ・ハード」や「逃亡者」の世界を小説でやろうという発想がするっと出てくるのも当然だろう。
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2007年12月07日

つべこべ言わずにコード嫁

少し前に読んだ「たつをの ChangeLog」のエントリ[を] アホでマヌケな米国(アメリカ)ハイテク企業で、書籍からの引用として示唆に富んだ一節が紹介されていた。長くなるけど再引用。
SMS ソフトウェア企業が犯す最大の罪は何だと思う?
ジョエル・スポルスキ(JS) 製品を完全に書き直すことだな。既存のコードは複雑で巨大でバグだらけだから、ゼロからやり直そう、ってやつよ。
SMS ほう、それのどこがいけないんだい?
JS それが真実だってことはまずないからさ。コードは錆び付くようなものじゃない。新しいコードは古いコードより優れているっていう考え方は、まったくバカげている。
古いコードは実際に使用され、テストも済んでいる。そしてすでに多くのバグが見つかり、修正されている。どこも悪いところはないのさ。
SMS なるほど。じゃあどうしてプログラマたちは、よく管理職のオフィスに押しかけて、既存のコードベースは使い物にならないから書き直さなきゃだめだって主張するんだろう?
JS それはきっと、コードってのは書くよりも読むほうが難しいからだろうな。
プログラマは、不細工な関数があるとグチをこぼす。[...]
この関数を捨てて、ゼロから書き直すってことは、前述のような知識をすべて捨てることに等しい。せっかく加えたバグフィックスと、数年分のプログラミング作業が台無しになるんだよ。
なるほど、確かにそうだそうだ、と思うと共に「これ、何かに似てるな」と感じたのだが、それが何だか思いつかないままに他の考え(めしを食おうかとかそろそろ仕事に戻るかとかコーヒーでも飲むかとか、どうせろくでもない考えにきまってる)に頭が切り替わってしまった。
で、さっき唐突に気づいたので今更だけど書いている。これって憲法九条問題に似ているんだな。

憲法自体が国の在り方を規定するOSみたいなものだから、先の引用は比喩でなくまさに法と社会のかかわりそのものを論じていると読むことも可能だろう。自衛隊設立などの「解釈改憲」をバグフィックスと言っていいかどうかは微妙だが、運用の実態に合わせたパッチとして導入されたことは事実だ。
誕生時点では他に類を見ない斬新な設計思想だったが実用性を危ぶむ声はあり、またトラブル処理の外部化について「リソース不足を正当化するための便法」との批判もあった。そして長期の運用を経た今となっては「押し付けの仕様だった」「古すぎる」と酷評する人もいるシステムではあるが、とにもかくにも周辺機器も含めて60年以上動いてきた実績というものはそれなりに重視されるべきではないか。
九条と自衛隊の矛盾を積極的に評価する内田樹氏の憲法論と似通った部分もあるが、修正であれこれ手を加えて当初の仕様から離れた感も強いものの、とりあえず実用的に問題がないのであればそのソフトウェアは「使える」のでは、という考え方もありだと思う。

このソフトウェアのソースコードを読んで仕組みを理解するのは非常にめんどい。中にはどうとでも取れる曖昧な記述もある。コードの中にコード書き換えを難しくするコードも再帰的に書き込まれている。やってらんねえ、と短気なプログラマなら投げ出したくもなろう。でもプログラムを最初から書き直してみたところで、ちゃんと機能するかどうかはわからない。

私はソフトの書き直しを全面的に否定するものではない。近い将来火星人が月に橋頭保を築いて地球侵攻の意を露にしたら先制核攻撃の必要性を声高に主張するようになる、かもしれない。ただ、どんなに厄介でも既存のコードをしっかり読み直して欠けているコメントを充実させ、現システムの長所短所を正しく評価する努力は怠ってはならないのではないか、と思う。すべてはそれからだろう。

追記:
なんかあまりいい標題ではなかったな、と反省。でも出しちゃったものはしょうがないからこのままで。
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2007年12月06日

ゴールデンスランバー(伊坂幸太郎)

待つこと久し、ようやく届いた伊坂幸太郎久しぶりの長篇は、期待に違わぬ傑作だった。ケネディとオーウェルとビートルズと逃亡者を元ネタに、途轍もない大風呂敷を広げてダイナミックに楽しませてくれた。

伊坂さんのここまでの創作の集大成と言ってよいほど、あらゆる要素が盛り込まれていたように思う。時空を超えた人と人の繋がり、世界を動かす見知らぬ他人の善意、学生時代の挿話の再現、権力と対峙する個人、小説による仙台案内、親子の絆、マスコミ批判、音楽、記憶、トリック。

と余計なことを書いたが、例によって予備知識抜きで読んだ方が絶対に面白い種類の作品なので、サイトのレビューなぞには目もくれずに本屋に行くなりamazonに行くなりして早急に購入の上コーヒー片手に徹夜で読みふけるべきである。伏線の貼り方と回収の見事さは相変わらずの伊坂クォリティだから、読者は物語の合間に見え隠れする小道具の行方を頭の片隅に置いておいて運命に翻弄される主人公の物語に耽溺していればよろしい。
舞台が近未来ということもあってか他作品とのリンクは希薄だが(「足の不自由な田中」とリョコウバトのエピソードなどぐらいしか気付づかなかった。見落としいろいろありそう)、重要な登場人物である「キルオ」らの物語はまた別の機会に改めて綴られる、と期待していいだろう。きっと。

大江健三郎らがかつてそうであったように、創作を通じて現在の情況に異議を唱える伊坂幸太郎の姿は危なっかしくも頼もしい。惚れたはれた孕んだばかりのケータイ小説に飽き足らない若い人たちにもぜひ読んでもらいたいと思った。

早くも次作が楽しみだ。河北新報連載の「オー!ファーザー」はいつ本になるのだろう。
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2007年11月10日

凍える森(アンドレア・M・シェンケル)

「2007年独ミステリー大賞受賞作」という売り文句にことさら期待したわけではないが、ま一応ミステリーならばミステリーらしい話なのだろうと思って読んだわけです。ドイツものミステリーというイメージが特にあったわけでもなかったけど、きっとそれなりに論理的なのかな、と。

全然違いました。土着犯罪実録ものというか、暗くて寒くて貧しい森の中で因習としがらみに絡め取られた男女が死んでいく陰惨な物語。徹頭徹尾救いのない話だ。
精緻な工業製品や音楽や哲学とは無縁のドイツ農村の闇を好きな人にお勧めといえよう。そんな人がどれだけいるのかは知らないけど。
それにしても、名探偵が出てこなければどんでん返しも鮮やかな推理もないこの作品がミステリー大賞とは。ドイツの読書人は渋すぎる本がお好きなようだ。

もっとも当たり前の話だが、ドイツにしてもフランスにしてもイギリスにしても華やかな都市は一部に過ぎず大半は農村なわけで、たぶんわれわれが日常見聞きしているヨーロッパ像は極度に歪んでいるに違いない。県庁所在地を中心に各地でミニ東京化プチ新興団地化が進んでいる日本のたたずまいの方が世界的には珍しいのだろう。
と、どうでもいいことをいろいろ考えさせられた。
タグ:凍える森
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2007年11月07日

虐殺器官(伊藤計劃)

モンティ・パイソンのマニアのために書かれた作品としか思えない。「世界一面白いジョーク」を近未来に変換したら陰惨極まりない地獄絵図が出来上がりましたとさ、という話だ(ひどい要約)。
ネタばらしは作中で行われており、この他にも装着されると体が勝手に動き出す「シリー・ウォーク・デバイス」とか、胴体を切断されても生きてる騎士さながらの兵士たちとか「スペイン宗教裁判」とか借用例は多々あるのでパイソニストは必読。

肝心の「文法」がどういうものか具体例について少しでも触れてくれればよかったのだが、それをやると日本が壊滅するのでやむをえず割愛したのだろう。久しぶりに思弁小説ならではの大風呂敷を堪能した。SFはこうでなくては。デビュー作でここまでやっちゃったら次に何を書くのが心配になるぐらい次作が楽しみである。
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2007年11月03日

不祥事(池井戸潤)

以前読んだ同じ作者の「シャイロックの子供たち」は、情報小説としては面白かったけど銀行の中のぐろぐろでどろどろな部分をこれでもかこれでもかと強調して書いている様子が見受けられ、ああきっとこの人は銀行が嫌で嫌でたまんなかったんだろうなあ、と思ったものだった。
本作の執筆時期は「シャイロック」より若干先行する。KIOSKで文庫棚にあったのを手見かけ、電車での遠距離移動中の暇潰しのつもりで手にとってはみたのだが、タイトルからしてきっとこれも元銀行員作家ならではの恨み節炸裂大会なのだろう、と思って読み始めたらあにはからんや。予想とぜんぜん違ってスーパー女子行員大活躍のさわやか企業小説だったのだ。ショムニ路線一直線(あそこまでひねてはいない)。乗車中にさくさく楽しく読み終える。

女子行員・花咲舞(仇名が「狂咲」というのはちょっとどうかと)が主人公の連作短篇集で、話はそれほど込み入っていないのでドラマ化に最適であろう。今さら主演江角マキコ、では少々薹が立ち過ぎているので、きっと花咲役に仲間由紀恵あたりでドラマ化の企画案が出て、「でも銀行ネタだしい」「なんか、なあ」と誰言うともなく腰が引けてボツになってオクラ、という経緯があったのではないかと想像する。想像しすぎだ。NHKでドラマにしないかな。

勧善懲悪サラリーマンものといえばもう少し景気のよい売り方をしてもよさそうなものだが、タイトルと表紙絵で売り上げを思いっきり損している感じがした。きっと続篇が出そうな話なので、関係者はご一考下さいませ。
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2007年11月01日

萩原浩の近刊二冊

長篇と短篇集を読み比べて思うのは、やはり荻原浩は長いものの方がいいなあ、という、前回「押入れのちよ」を読んだときと同じ感想だ。

今にして思えば傑作「押入れのちよ」は明らかに、目下新聞連載中の「愛しの座敷わらし」(asahi.comにオフィシャルサイトぐらいあってもいいんじゃない?と思って検索したがやはりなかった)の原型だったが、家族が田舎に引っ越して苦労するという設定は、この短篇集「さよなら、そしてこんにちは」所収の「ビューティフルライフ」でも取り上げられている。短篇で試した結果はしっかり長篇に反映されているのだ。

もちろん長篇同様、短篇にも様々な薀蓄が盛り込まれているが、やはりディーテイルの面白さを生かずには相応の長さが必要だと思った。「寿し辰のいちばん長い日」にしても「スーパーマンの憂鬱」にしても、描かれているそれぞれの職場の風景が魅力的なのに対して、正直言ってオチは凡庸だ(というか同じだし)。無理にオチのある話にしなくてもいいのに、とさえ思う。
もっとも、これらの短篇が次に書かれる魅力的な長篇に結実するのであれば――「愛しの座敷わらし」はまだ連載途中だが傑作間違いなしだ――ファンとしては納得できる。もちろん短篇集としても世間一般以上の水準には達している。

「サニーサイドエッグ」は、大傑作だった前作「ハードボイルド・エッグ」(こっちは中点が入っている)に比べるとちょっと落ちるかな、という印象。そもそもハードボイルドもどきのようでいて実はハードボイルド風の作品(冴えない中年探偵のところに美女が依頼にやってくる、その手の定型的小説)が世の中に多すぎるところに問題があるような気がする。
ただ、それでもこの作品はペット探しの細部をリアルに描きこむことで凡百の類作より十分秀でた物になっている。逃げた猫の足取りを追跡する描写が迫真している、と書くとなんか馬鹿にしているように見えるが本当にそうなのだから仕方ない。どうしてここまで「らしく」書けるのか、賛嘆する以外の言葉を知らない。

執筆に先立ってこの作家がどのような取材活動をしているのか、一度ドキュメンタリーか何かでその現場を見てみたいと思った。きっとすごく綿密なんだろうな。
奥田英朗もそうだが、コピーライター出身で大成した小説家は、仕事の現場を長々しく説明せずともキーワードでうまく掬い取る視点を持ち合わせているような感じがする。
タグ:萩原浩
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2007年10月30日

サウダージ(垣根涼介)

文庫で入手。シリーズものの一編らしいが、この本の主人公は日系ブラジル人の男とコロンビア人娼婦。男は暴力団のコカインと現金の取引があることを知って横取り作戦を思いつく。だが、決行のときとんでもないことが起きる。あらすじおわり。

おそらく作者は本作で、徹底的に頭が悪くて役に立たなくて男の足手まといになる女と一緒になったら人生一貫の終わり、とのメッセージを発したかったのだとしか思えない。
迫真のカーチェイスも綿密な犯罪計画もぶっ飛んでしまい、読後頭に残るのは、どうしようもない女に惚れてしまった男の悲劇、というより単に「馬鹿女」の三文字だけ。その最低っぷりを楽しむべき話なのだろう。女がわめき散らす異国語を表記した戸梶圭太風の文字列は滑稽さの演出に違いない。
ということで史上最低の女性キャラクターを読みたい人にぜひおすすめしたい。いやもう本当、俺にはそうとしか読めない。この最低っぷりは群を抜いてすごい。

追記:
上は読後かなり一気に書いた感想だけど、何だか単に褒めてるだけみたいに見える。ちょっと違うので補足。
ヒロインは究極の迷惑キャラクターなのだが、おそらくこれを日本人の役にしたら「ぜったいありえねー」と思われること必定な、そんな設定だ。裏社会相手の命を張った仕事の打ち合わせにのこのこ付いてきて口を出すばかりか、決行現場にまでやってきてあげくの果てには、という展開は、アタマの悪いコミュニケーションの不自由な「コロンビア人娼婦」だから仕方がなかった、というエクスキューズがあるように読めた。同じ娼婦でも日本人キャラだったらそうは書けなかっただろう。
作者は男の台詞として女に「売女」「痰壺女」「単なる雌豚」「のうたりん」などと様々な罵声を浴びせかける。男性読者はたぶん男に感情移入して、この評価を至極もっともだと思うことだろう。私も半分作者の手に乗りかかったけど、同時にある種の後ろめたさをも覚えた。
小説は別に公平や正義を実現するための器ではないので、偏見や差別表現や破壊的世界観も含めて面白ければ何でもありだ。でもここで書かれている女性像になぜか微かな痛みを感じたことは記しておきたい。
タグ:垣根涼介
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2007年10月24日

追伸(真保裕一)

書簡体小説が好きだ。本来読み得ない、特定の読み手を想定して書かれたスタイルの文章を盗み読む禁断の快感。当事者の間では当初から自明の事実が、物語が進むにつれて行間から少しずつ漏れ出して像を結び始めるとわくわくする。
日本文学で書簡体小説の傑作と言えば、あまり有名ではないけど井上ひさし「十二人の手紙」をぜひ挙げたい。井上ひさしは戯曲と大作長篇ばかりの人ではないのだ。
題名の通り手紙を巡る連作短篇集で、当然ながらそれぞれの作品はちゃんと手紙で語られなければならない必然性を保っていた。個々の作品のクォリティの高さもさることながら、グランドホテル形式というのか最後の一篇ではそれまでの登場人物が事件現場に勢揃いし、見事な謎解きで読者を驚かせるという、まさしく文章による曲芸を成功させた一冊だった。

読者諸賢におかれては長い前振りで想像がつくと思うが、私がこの「追伸」に満足できなかったのは、この作品が書簡体小説で書かれなければならない理由が納得できなかったことが大きい。というか、主人公らのやりとりを読んで「なんか夫婦間の手紙らしくないな」と思ったのが違和感の始まりだった。ひどく説明調に過ぎるのだ。二人の相似た女性が時代を超えて辿った運命についても、早い段階で仕掛けが見えてしまう。期待はずれだった。

読者に説明するために、やりとりしている双方が知っていることについてどちらかが改めて手紙に書いて回想するという書き方自体にかなり無理があったのではないか、と思う。週刊誌連載ゆえ、書き下ろし作品よりもあえて冗漫な書き方を選んだということもあったのかもしれないが。
不義密通ということの重さについて私が鈍感過ぎる可能性も多分にあるが、ヒロインの選んだ行動に「何もそこまで」と感情移入できなかったのは、やはりスタイルの消化不良も影響していると思う。

いろいろ書いたものの値段分の価値は十分ある一冊だし、わかりやすく泣けるミステリが好きな人には向いているかもしれない。でもこれまで「ホワイトアウト」「繋がれた明日」など数多くの佳作を書いてきた真保裕一には、もっと高いハードルに挑んでもらいたいと思った。勝手言ってすみませんが。
タグ:真保裕一
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2007年10月23日

ルピナス探偵団の当惑(津原泰水)

春に引き続き津原泰水を読み進める。もともと少女小説文庫向けに書かれた作品を改作したらしい中篇集。

「終わっている」感じが強い。小説としてダメ、という意味ではない。推理小説の幸福な時代が終わった後にやってきた推理小説、とでも言おうか。
第一話「冷えたピザはいかが」の一行目は「犯人は意外ではなかった。」であり、二行目に加害者と被害者の名前が登場する。一応犯人探しの形式で物語は進行するものの、興味を繋ぐのは犯人及び犯行の動機ではなく、「なぜ殺人者は犯行後冷えたピザを食べたのか」という細部へのこだわりだ。よりオーソドックスなミステリに近い第二話、三話にしても、犯人探しは事件現場を巡る謎を解いた結果付随して達成されるテーマに過ぎないように見える。
作者はキャラクターの書き込みにもそれほど熱心ではないようだ。高校生の少女三人+ミステリアスな天才少年による探偵団という設定は、話を膨らませようと思えばいかようにも料理可能だろう。しかし、うちひとりが登場人物紹介で「さして取り柄のない美少女」と片付けられているように、個々のキャラクターに感情移入させることをむしろ避けるかのような書きぶりである(解説子はキャラクター造形を褒めているが、これは評価が過ぎるのではないか、と思う)。

だからつまらない、ということではない。定められたページ数の中で事件が起きて探偵が登場し事件が解決することの退屈さ、というよりむしろ悲しい定めと言った方がいいかもしれないが、そういったミステリの定型からこの作品はよく逃れえている。ミステリの枠組みでミステリにあらざるものを書いた結果、ユニークなミステリが出来上がった、というと言葉の遊びすぎか。

飄々とユーモラスな文体(主人公の姉である刑事の言動は荒唐無稽過ぎると思うが)の影で、淡い哀しみのようなものが感じられたのは、おそらく現在ミステリを書くという行為自体が何がしかの悲哀をはらんでいるからではなかろうか。別にミステリに限定しなくてもいいのかもしれないが、すべての謎が解かれすべての犯人が捕まった後もミステリはミステリとして存続していかねばならない。Life continues.
溌剌や才気煥発といった言葉が似合わない少女らのゆるゆるとした活躍は、本格推理小説の夕暮れの景色に似つかわしい、そんな気がした。

近く続篇「ルピナス探偵団の憂愁」が出るらしい(雑誌連載していた模様)。文庫のオビの広告では「2007年秋刊行予定」となっていたが、東京創元社メルマガによると12月刊らしい。楽しみに待ちましょう。

ところで、前回評価しなかった「アクアポリスQ」は、大掛かりな連作プロジェクトの一環だったと知った。⇒特集『憑依都市』
設定が本の外であらかじめ決められていたため、「そのへんの詳しい説明は省略」という感じで物語が進められたのだろう。初読時の疑問がいろいろ氷解。今後の展開に注目したいところだけど、果たして続く作品は出るんだろうか。
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2007年10月10日

悲劇週間(矢作俊彦)

引き続き未読本を大急ぎでずんずん読む。
本書は詩人・翻訳家の堀口大學の若き日を描く冒険ロマン。と言っていいのかどうか。しかし最近内戦の話ばかり読んでいるような気がするな。

堀口大學については詩集「月光とピエロ」やフランス詩のアンソロジー「月下の一群」の翻訳者であることぐらいしか知識がなく、実父堀口九萬一が外交官で、閔妃暗殺事件にかかわっていたという話はまったく知らなかった。
かなり史実に則った作品のようだ。作中のロマンスは創作だろうと勝手に思っていたが、Wikipediaの堀口大學の項目には
19歳の夏に、父の任地メキシコに赴くため、慶大を中退。メキシコでフランス語を学んでいた時、メキシコ革命に遭遇。メキシコ大統領フランシスコ・マデロの姪と恋愛を経験。
とあった。そうか、本当にいたのか、あの魅力的なフエセラ・ポラドーラは。

20世紀初期のメキシコを舞台にした「気分はもう戦争」を期待して読み進めたが、実はさほど活躍はしていないのだ、我らが主人公の大學君は。市街戦に巻き込まれて這う這うの体で逃げ回るのが精一杯。史実を舞台にして実在の人物が登場するとあっては、やはりそう突拍子もない冒険をさせるわけにはいかないのだろう。それでも動乱の時代のメキシコを彩った巨星たちが次々大學君の周りに登場する様子は「あ・じゃ・ぱん!」で田中角栄を登場させた趣向に通じるものを感じてわくわくした。

しかしまあ何と言ってもフエセラの魅力的なことよ。矢作俊彦の書くヒロイン像はいつも同じといえば同じで、彼女らは皆美しくミステリアスで非合理的で必ずやってくる別れを恐れず激情を裡に秘め凛々しく愛らしく、恋人の心をひたすらかき乱すのだ。でも別にそれでいいではないか。いつか矢作ヒロインと叶わぬ恋に落ちてみたいものだ、無理だが。

冒頭の一文がポール・ニザン「アデンアラビア」の変奏であること、「月光とピエロ」の「ピエロ」がキーワードとして使われていること、大學の文章に頻出する体現止めの多用は誰の目にも明らかだが、多分フランス文学を真面目に修めた人ならばきっと無数の引用・パロディ・くすぐりに気づくのだろう。学生時代にちゃんと勉強してないとこういうところで差がつくのだ、悔しいことに。

今の日本では詩も命がけの恋も、もちろん戦争も彼方の存在でしかない。それを不幸だとは誰にも言わせまい。だがこういう本を読んでしまうと、仕事で予約済みの数ヶ月を目の前にしたサラリーマンはまた少し日常が嫌いになるのだ。
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2007年10月08日

犯人に告ぐ(雫井脩介)

文庫上下二巻を一日で一気読み。いやあ、単行本の時に読んでおくべきだったなあと後悔しきり。傑作ですわこれ。

いつものことだけど、連続殺人事件で警察側が「劇場型捜査」にテレビを利用する、という大枠だけを聞いてだいたい想像できたようなつもりになっていたのがよくなかった。プロットよりも文体で読ませるタイプの小説だったのだ。別にプロットが悪いというわけではなくて(十分以上に面白かった)、細部を書き込みつつスピード感が損なわれない絶妙のペース配分が実に抜きん出ている。

旧作「火の粉」(登場人物が発声する「ふんっ」が怖くて面白かった)でこの作者の文章能力の確かさ、ストーリー展開の大胆さは認識していたはずなのだが、世間の評判が先行すると手を出さないいつもの悪い癖が出てしまった。やっぱり馬には乗ってみなくてはねえ。

メディアが注目の事件の捜査過程をスポークスマンを通じて可視化するということ自体は既に米国では現実のものになっており(被害者関係者はおろか被疑者までがテレビに出演しているのに驚いたことがある)、ここに書かれているような捜査手法も実はそうあり得ないものでもないのかもしれない。裁判員制度が導入されれば、日本の捜査当局としても犯罪の極悪ぶりをいかに世間にアピールするかが大きな課題になるだろうし。実際にこういう番組があれば確かに見るだろうなあ、と思いながら読んだ。

Amazonのレビューなどを見ていると犯人像に不満を持つ人が少なくないようだが、私はむしろこの方がリアルでよかったと思う(捕まえてカタルシスを味わえるような極悪人という方が現実離れしているだろう)。内通者をめぐるコン・ゲーム部分が最大の山場という構成は、これまでのミステリではあまり扱われていなかった部分なので大正解。
趣は全然違うけどちょっと「ハンニバル」を連想したりして。

キーワード的に出てくる「宮崎勤のアジト発見」虚報については以前のエントリで取り上げたこともあるが、この小説で書かれているような背景が本当にあったとしたらとても興味深い。これまた以前に読んだ横山秀夫の「震度0」にはあまり共感できなかったのだが、警察の最大の敵は実は内部である(今回は権力争いではないけど)という話は結構一般常識だったりするのだろうか。横山さんすみません。

テンポのよさ、テレビを舞台にした収まりのよさはきっと映画向きだろうな、と思ったら何のことはない、既にそういうことになっていた。情報遅すぎ。しかもプレビューで既にテレビ放映されていたらしいし。というわけで映画のウェブサイトはこちら。⇒WOWOW ONLINE
豊川悦司出演でミステリと言えば個人的には怪作「ハサミ男」以来なのだが、これは結構ハマリ役かもしれない。
同日公開の「自虐の詩」(こっちにはこれまた「ハサミ男」で怪演した阿部寛が出ている)とどっちに行こうか、同行相手も含めて思案中。両方行ければいいんですけどねえ。
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2007年09月29日

裸者と裸者(打海文三)

自室救出計画で崩落した本の山を解体していくうちに発掘した作品。上下巻を買ったまま数年放置していたんだから救われない。
ページ数はあったものの一気に読めてしまった。救いのない展開に、頭の中が大いにささくれ立った。

世評の高かった「ハルビン・カフェ」よりはこちらの方を好ましく感じたのは、ひとえに読みやすさのためだろう。内乱状態の近未来日本を舞台にしたドラマという共通項はあるものの、多様なキャラクターや勢力が入れ替わり立ち代わりぐちゃぐちゃに入り乱れて陰謀策略の限りを尽くす「ハルビン・カフェ」に比べると、視点が固定されているため混乱が少ない。
「裸者」も登場人物はやたらに多いが、ふたりの主人公(片方は双子だから三人ということになるのかもしれないが、事実上同一人格として扱われている)がそれぞれ上下巻の主役を務めるという構成が、キャラクターへの感情移入を容易にしてリーダビリティの向上に大きく寄与している。

内戦に陥った日本における少年らの物語と言うと佐藤亜紀「戦争の法」を思い出すが、佐藤作品が大人と子供の境界線で戦争に巻き込まれた少年らが戦士として成熟していく過程を巡る悲喜劇であるのに対し、打海作品はどうやら「成長」を巡る物語ではない(既に出ている続刊「愚者と愚者」はそういう話になっているのかもしれないが)ようで、趣は大きく異なる。
未成年の少年少女である主人公をあらかじめ圧倒的に多くのものを奪われた孤児として設定したため、教養小説の必須成分とも言える「成長の過程で代償に何かを失う」という要素は希薄だ。彼らはほぼ最初から完成した戦士として現れ、自分と世界の関係について疑うことを知らない。それゆえ逡巡することなくポジティブに殺しや略奪に手を染め奔放な性を享受する。

古川日出男の陽性な乱暴さともまた違う、荒涼感漂う世界の造形がこの作家の持ち味なのだろう。決して好きにはなれないが気にはなる、そんな感じだ。続刊は早くも12月に文庫化されるらしい。買うかどうかは部屋の片付き具合次第。

追記。下巻で戦闘の舞台となっている多摩地区について土地勘があるのが、地名の頻出にもかかわらず読み進められた一因だろう(挿入された地図の駅名表示に間違いがあることにも気づいた)。舞城王太郎が描く調布とはまた違った多摩川沿いの景色。個人的にはもっと「らしさ」が出ていてほしかったんだけど。
もしかしたら多摩ニュータウンに展開するソープ「クリスタル」の街道沿いの大看板が作者の妄想を刺激したのだろうか。
タグ:打海文三
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