2008年08月02日

チックタック(ディーン・クーンツ)

帯には確かに「サスペンス・ホラー」と書いてあるが、この本はコメディーであることを明記して売らないと詐欺になるのではなかろうか。上巻途中で嫌な予感を覚えながらもつい最後まで読んでしまった私のような馬鹿が他にいないとも限らないので、書店関係者にはぜひ再検討をお願いしたい。単に返金してくれればそれでもいいけど。

まあ、小説は自由でいいよね、というか何というか。超常現象なんでもオッケー、何せベトナム人が主人公で宇宙人も関係してるし、というすげえいい加減なお話。創作の道を志して壁に当たっている人に読ませてあげたらいいかもしれない、と思った。これがありなら何でも大丈夫、と。あまりの内容に怒り出すかもしれないが。
主人公男女の会話の軽妙さはそこそこ面白いので、物語のでたらめさに目をつぶれる人はそこだけ読めばいいのではなかろうか。
ラベル:クーンツ ホラー
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2008年07月02日

そこをなんとか(1)(麻生みこと)

意外な掘り出し物、と言ったら実績ある漫画家さんに失礼か。「また弁護士漫画か?」と本屋で何の気なしに手にとって(表紙は今ひとつだったが)ぱらぱらめくったら面白そうな予感がしたので即購入。果たして期待は裏切られなかった。

元キャバ嬢の駆け出し弁護士、という設定は相当無理がありそうだったが案外なじんでいるのが不思議。お仕事もの漫画の鉄則だが、細部がきっちり描かれているのが成功の要因であろう。女性誌連載だからと侮ってはいけない。
作者傍白を見る限り企画先行で作られた作品のようだが、作者も法廷を傍聴してネタ出しをしている模様で、扱われている事案もリアル。取材が行き届いているのを感じさせる。漫画に理解のある専門家ブレーンらが手厚くサポートしているらしく、接見や法廷の場面も安心して読める。

この調子で単行本三巻分ぐらいたまればドラマ化もあるかもしれない。楽しみである。らっこちゃんがんばれ。
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2008年06月06日

「銀河のワールドカップ」(川端裕人)

ひたすら楽しいサッカー小説。文庫入りをきっかけに読んだが、元本は2006年刊。ドイツW杯前に読んでいたら、大会の見方も変わったかもしれない。そして作中の小学生チームの到達した地点と、現実の日本代表の有様のあまりの落差に深く溜息したことだろう。

小説自体は実にゆかいなつくりになっている。最初からぬけぬけと手の内をさらす書き方に読んでいるこちらの顔もつい綻ぶ。何せ、実在のプロチームの選手が実名で小学生らの話題に登場する中で、レアル・マドリッドを手本にした銀河系軍団「レアル・ガラクシア」のメンバーだけが架空のキャラ扱いされているのである。これはもう、最後には小学生らがこやつらと会って何かするに決まっているではないか。何かって、そりゃまあひとつしかないよな。
ということで、この結構分厚い本は最初からどこに行き着くかがわかっているので、安心して作者の展開する現代サッカー戦術論に没入することができるのだ。

元Jリーガーのコーチ、龍鳳虎の一文字を名前に持つ運動神経抜群の三つ子、脚の速い女の子、テクニックはないけど真面目なリーダー格……と登場人物は多彩だが、小学生チームの主要キャラクターがコーチを含めて九人というのはいかにも多い。個々のキャラクターに感情移入して読むタイプの小説ではない。
この小説の主人公はサッカーという競技そのものだ。弱者が最強の存在を倒すための戦略とは何か、が小説を貫く軸になっている。登場人物の数は、むしろサッカーの戦略を語るための必要最小限の要素として捉えるべきなのだろう。そのためには一チームのプレーヤー八人が必要だったのだ。
そして、日本の小学生と世界のクラブチームの頂点がピッチで顔を合わせるという、このまとめだけ読まされたら一笑に付されて終わり、のある意味むちゃくちゃな設定を、作者は力技で見事に実現させてしまう。強引極まりないが、小説ならではの面白さとは本来そういうものだよな、と思ったりもした。
私はサッカーの戦術についてはまったくの門外漢だが、川端氏の描く試合のディテールは十分以上に魅力的だった。プレーヤーの軌道があらかじめ限定されている野球とは違って、GKを除くフィールドプレーヤーが縦横無尽に位置を変えるサッカーの模様を字で表現するのは非常に困難だと思うが、この小説はピッチの熱気、瞬間瞬間の各人の思惑も含めて「サッカー的」な場面を紙上によく定着し得ていると思う。

で、連想は無念な結果に終わった現実の06年W杯へとどうしても向かう。フィジカルで劣る者たちが世界の最強軍団にどう渡り合うか、という主題を通じて作家が何をアピールしたかったかはあまりにも明白だ。そして実際の日本代表がろくな戦略もないまま出場して他国代表に苦杯を舐めさせられた経緯も今更言うまでもなかろう。
面白うてやがて悲しきサッカー小説。多くの日本代表ファンや心ある指導者らに読んでもらいたいと思った。
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2008年05月26日

気になる部分(岸本佐知子)

先日、朝一番に本屋に行ったついでに前から読もう読もうと思っていたこの本も買ってくる。この後に書かれた「ねにもつタイプ」の常識破壊力の凄まじさには圧倒された。各所で見かけた「電車内で読むな」などの警句にわくわくしながら満員電車で紐解く。

期待に違わず本書は激面白かった。超面白かった。表題作「気になる部分」や「じっけんアワー」「『国際きのこ会館』の思ひ出」のような実話ベース(と思われる)のエピソードも秀逸だが、妄想炸裂で箍が外れっぱなしの「日記より」「私の考え」シリーズはこの後「ねにもつタイプ」でさらに拡大展開されているところからすると、筆者自身も気に入ったスタイルなのだろう。

だが、意外なことに読後に残るのは淡い哀しみの感情だ(このパターン、前にも使った気がするな)。
描かれた場面はいずれも笑いに包まれてはいるが、ほかの子供と同じように振舞えなかった少女の日の疎外感やOL時代の挫折感(彼女がダメ社員だったとは思わないが、きっと実力を存分に発揮できる仕事には恵まれなかったのだろう)がその根底にあるように思えた。彼女の妄想世界の裏側には、ひとりはぐれてしまった幼い子のような寄る辺なさが張り付いている。

岸本さんは決してお涙頂戴風には書いていないので以上は私の勝手読みに過ぎないが、子供時代に夕暮れの公園に取り残された寂寞や、執務フロアの大半で電灯の落ちた夜の職場の孤独を知っている人の方がこの本をより深く楽しめることだろう。
妄想の世界に遊ぶ自分を客観視して笑いのネタにするのは、孤独に慣れた人ならば誰もが身に覚えのある作法だと思う。

本書にほとんど出てこない翻訳をめぐる話題についてはExciteブックスでの大森望・豊崎由美との対談で語られている内容が真面目だが参考になる(その「だが」はどういう意味だ)。ほかの文脈に置かれていればごく当たり前に見える
自分を消すのが好きという人の方が翻訳家には向いていると思います。
という言葉も、上記のような感想を抱いた後で読むとまた別な印象を映す。

あー、必要以上に湿っぽい感想文になっちゃったな。まあいいか。きっと次の本ではこんな汚染値(おっと誤変換)な勝手読みを吹き飛ばす当社比百倍ぐらいの妄想博覧会を展開してくれることだろうから。
ラベル:岸本佐知子 妄想
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2008年05月24日

愛の保存法(平安寿子)

短篇恋愛小説集。
平安寿子のうまさには以前も舌を巻いた(ところでなんで感心すると巻き舌になるんだろう?⇒ふむふむ。感心した時なぜ「舌をまく」というのでしょうか? 語源由来辞典になし。 - Yahoo!知恵袋)ことがあるが、この作品集に描かれた恋愛模様もバリエーションあり笑わせどころ泣かせどころあり意外な結末ありで読者を飽きさせない。たいしたもんだ。値段以上の価値ギャランティード。趣味のいい恋愛小説をお好みの向きはぜひぜひご一読を。

しかし一番笑えたのが文庫版巻末のあとがき。彼女は文壇関係者から敬遠されているのだろうか。
 普通、文庫本のこの部分には解説というのがつく。名のある作家や文芸評論家がこの作品と作者がどんなに素晴らしいか、通りすがりの読者にレクチャーしてくれるありがたい「おまけ」である。中には、解説を読んで購入するかどうかを決めるという読書家もいるらしい。
 だのに、本書には残念なことに解説がない。書いてくれる人がいなかったのである。仕方ないから、著者自ら解説をいたします。
なんということだ。彼女の本ならば解説を書いた人間の方に箔がつくというものなのに。

解説じゃないあとがきにいわく、作中で様々な恋の試練(か?)に遭う六人の男にはすべてモデルがいるそうな。自分の身の周りを見る限りにわかに信じがたいのだが、おそらく彼女がそういうエピソード持ちの男を引き寄せるフェロモンを発しているか、あるいは近くにいると恋愛ダメ人間になってしまう毒電波を彼女が発信しているかのどちらかであろう。後者だとすると誰も解説を書きたがらないのもむべなるかな。
ともあれ平安寿子、次も読もう読もう。
ラベル:平安寿子
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2008年05月19日

鎮火報(日明恩)

出張のおともに長い小説を探していて手に取った。この作者の本は初めて。

ハードボイルドの変種ということになるのだろうか。わけあってハスに構えて消防の仕事をやっているガタイのよい20歳消防士が、事件を契機に成長していく姿を描いているので、教養小説のバリエーションともいえる。しかしまあ簡単に言えば消防小説っすね。<簡単すぎ

消防士の仕事についてのトリビアルな知識がいろいろ身に付く。いろいろな現場の模様も活写されておりふむふむと読める。もうちょっと消火の模様を詳しく読みたい気もしたが、小説で描かれている10日間にやたら火事が多発するのもリアルでないということなのだろう。デントン市ではなくて現実の東京城北地区が舞台だし。

本巻では主人公を取り巻くいわくありげなキャラクター(魅力的な未亡人の母、幼馴染、謎の銀髪引きこもり男……)についてはあまり語られない。おそらく当初からシリーズ化を前提として書かれているのだろう。そして一人称(俺)の主人公の語り口は、ちょっとはらはらさせられる。「るっせえな、判ってんだよ!」式の書き方はラノベならともかく、リアルさが失われては興ざめのこの手の小説では非常に危険だ。風呂敷ちゃんと畳めるのか。
しかし、少なくとも私は本文597ページを興味を保って読み切れた。作者の語り口をめぐる冒険は大きな破綻をきたさなかったと思う。

ハッカー役の男が何でも必要な情報をどこからともなく入手して提供するという物語の薦め方はいい加減どうにかならんもんかなあ(ある種の魔法みたいなものだな)、とも思う。伊坂幸太郎もやってたな。拗ね者の振りして実は熱血漢、という造形もよくある話ではある。細かいことを言ったらきりがない。
でも、消防現場を舞台に新しい小説世界を作ろうという意気は大いによろしいのではなかろうか。多少の無理は承知で骨太に書き綴る筆力は大したものだ。続篇も出ているらしいのでフォロー決定。
ラベル:消防士 日明恩
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2008年05月16日

「ゴールデンスランバー」が山本周五郎賞

おめでとうございます伊坂さん。「ゴールデンスランバー」が山本周五郎賞を取ったそうな。記事はasahi.comから。
 第21回三島由紀夫賞・山本周五郎賞(新潮文芸振興会)の選考会が15日、東京都内のホテルで開かれ、三島賞は田中慎弥さん(35)の「切れた鎖」(新潮社)、山本賞は今野敏さん(52)の「果断
隠蔽捜査2」(新潮社)と伊坂幸太郎さん(36)の「ゴールデンスランバー」(新潮社)に決まった。
知名度では一歩も二歩も直木賞に劣る山本周五郎賞ではあるが、過去の受賞作品を見てみると、それなりに印象に残る作品がきっちり取っている感じ。現在の選考委員も真っ当な顔ぶれなので、この人たちに選ばれたことは大いに喜んでいいと思う。ってたぶん喜んでおられるでしょうが。

次は直木賞だなあ。別に賞を受けようが受けなかろうが作品の価値に違いはないけど、今まで伊坂作品を知らなかった人たちがこれをきっかけに読むようになればそれに越したことはない。がんばれがんばれ。引き続き応援態勢。

追記:
先月新刊が出ていた。またまたコラボものらしい。以下はamazonの宣伝文句から。
新作小説と新作映画がコラボ!
熱狂的人気を誇る2人が場所やキャラクターをリンクさせた奇跡のコラボレーション作品集
Theピーズの名曲『実験4号』に捧げる、青春と友情と感動の物語!
祝 2008年本屋大賞受賞

舞台は今から100年後、温暖化のため火星移住計画の進んだ地球――。
火星へ消えたギタリストの帰りを待つバンドメンバーの絆の物語(伊坂幸太郎『後藤を待ちながら』)と、火星へ旅立つ親友を見送る小学生たちの最後の2日間(山下敦弘『It's a small world』)が、いま爽やかに交錯する!
共作ものは「絆」がキーワードなのかな。オリジナルの楽曲も山下敦弘監督の映画も見聞きしたことはないが、相変わらずのマイペースな活動振りがうかがわれて何より。
受賞で騒いでいながら言うのも何だけど、雑音に惑わされずに東京から離れた仙台で独自の活動を続けてほしいものです。
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2008年05月04日

荒涼の町(ジム・トンプスン)

食生活だけでなく読書も好き嫌いは良くないので、ふだんあまり読まないノワール(という言葉を聞くたびに朔太郎の「のをあある とをあある やわあ」が脳裏に響く)ものに手を出してみる。
なんか有名な作家らしい、という程度の予備知識で読んでみたのがトンプスンのこの作品。ただ、どうも最初に読むトンプスンものとしては適当でなかったようだ。

タイトルこそ「町」(原題Wild Town)だが、実際にはもっと舞台が狭い。物語は、石油を掘り当てにわか景気に見舞われたテキサスの田舎町に建った14階建てホテルの中でほぼ完結している。必然的に人物の動きは少なくなり悪辣な企みも規模が限定され、他の作品では「最凶」とうたわれている訳ありげな保安官助手も多少嫌味なだけでごく当たり前の探偵役として機能している。なんだか普通の謎解き小説じゃん、という読後感だった。もっとのわのわした小説を期待していたのだが。

とはいえやはり読みつけないジャンルを読むとそれなりに発見はある。もちろん小説の中の話ではあるが、アメリカでは小悪党も立派な口をきくもんだ、というどうでもいいこととかだ。
日本の小説の会話がつまらないのは我々日本人の日々の会話がつまらないからなのだろう。でも変に工夫するとリアルじゃない。伊坂幸太郎の小説は好きだが、登場人物のあの喋り方はちょっとくすぐったい。
一方で、登場人物がみな雄弁で状況を余すことなく説明し得る言語能力を持っていることにも違和感を覚える。すべてが言葉で語り尽くされるのであればそれは漆黒たり得るのだろうか、とも思ったり。真の闇は言葉を超えたところにあるのではなかろうか。言葉足らずですみません。

ともあれ、本当のノワール(って何?)をまだ読んでない人間がえらそうなことを言ってはいけない。読んでも言っていいわけではないが。
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2008年05月01日

CAVE CANEM

ジーン・ウルフの難物だが魅力的な連作長篇「ケルベロス第五の首」のRobert Borski氏による解説サイト「CAVE CANEM」が長らく404状態だったが、Wiki上で再構築されていたことを知る。
WolfeWiki - Index
「新しい太陽の書」シリーズ再刊でまたウルフを読み直そうと思っていたところだったので好都合。

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2008年04月23日

賭博堕天録カイジ 13(福本伸行)

「堕天録」編も例によって13巻で締め。というか今シリーズはふつうのいかさま麻雀漫画でしたが。それでもちゃんと麻雀に詳しくない読者を惹きつける筆力はさすがではあった。漫画なので、偶然があまりにも重なったことに文句を言ってはいけない。面白ければ。

次シリーズはいつになるのか。たぶん賭博覇王伝零の完結を待って、だろうなあ。パチンコ、麻雀と続いたので今度はぜひとんでもないものを巡る賭博であることを期待したい。
ラベル:福本伸行 カイジ
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2008年04月15日

巨船ベラス・レトラス(筒井康隆)

出版から一年過ぎてしまった「巨船ベラス・レトラス」を読んだ。例によって当惑している。

往年の大傑作「大いなる助走」と対にして語られることが多いこの作品(驚くべきことに、作中に作家本人の分身・化身が現れて私怨を晴らす構造までも同じだ)だが、「大いなる助走」は既存の文壇権威を敵役にすることによって物語が一点に収束していたのに対し、今や自身が文学界でのエスタブリッシュメントとなってしまった筒井康隆は、今作では文学の価値を認めない現代そのものに矛を向ける。
しかし、その敵はあまりにも曖昧模糊としており、攻撃すべき対象が拡散してしまった感は否めない。文学賞選考委員全員抹殺というカウントダウンがもたらすサスペンスとは、当然この小説は無縁だ。正体も行き先も不明な揺れ動く船の中で当惑する登場人物たちの物語に、読者である私もまた当惑する。

作者が小説の中で取り上げた著作権侵害事件にしても、本人の怒りが十分伝わらないもどかしさ(思えば断筆宣言もこの構図ではなかったか)がある。筒井氏本人が「表現の危機」と憤っても、傍目からは「評価の定まった大家vs.金儲けに手段を選ばないおろかな小出版社」の決着の見えた勝負でしかない。新聞報道などもなされた事件が、二百ページ少々の短めの長篇の16ページ分を割いて訴えるべき話なのか(もちろんそれが小説として面白ければ許容されよう)は意見の分かれるところだろう。現実の虚構への侵入という異化効果は感じられなかった。

物語の最後、筒井康隆の分身役の作家(本人役の本人とは別。ややこしいな)が「文学的実験」への反省の弁を述べ、筒井文学には定番のイデアの具象形である少女の作家がそれを拒んで自らを「文学のための文学」のシンボルと化すところで唐突に話は終わる。私はこのエンディングを、筒井康隆の前衛への別れと受け止めた。それでこのあとにラノベ作家宣言をしたのだな、と勝手に納得。それは作家にとっては新たな冒険の始まりであるに違いない。
二十年前ならば私は筒井康隆の冒険にどこまでも付いていっただろう。今はその後ろ姿を見送るしかないのが残念だ。
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2008年04月08日

「ひとまねこざる」のモデル

CuriousGeorge.png岩波の児童書で育った子供ならば、多かれ少なかれ「ひとまねこざる」ことおさるのじょーじ(Curious George。昔はひらがな表記だった)にはなじみがあるだろう。
少し前の「あけてくれ」で、おれカネゴンさんが「ひとまねこざる」(原題Curious George Takes a Job。シリーズ二作目だが、日本ではこれが最初に訳された)のモデルについて紹介されていた記事があった。読んでいるうちにいろいろどうでもいいことを考えたので、以下まとまりなく書く。

Wikipedia英語版によると、動物園から逃げ出したジョージのどたばたを描いたこの作品のエピソードは、多くが実話に基づくものらしい。ただし施設から逃げ出して街中でいたずらをしまくったのは猿ではなく、1909年に独ハンブルクで生まれたダウン症の15歳の少年だったという。お腹が空いてレストランの台所で無銭飲食したり、落書きがきっかけで画家として認められたり、と山下清のような愉快な活躍(こっちの方が年代的には先だが)をやらかした彼の名は、しかしもう誰にもわからなくなってしまった。理由はWikipediaで読んで驚いてください。
原著の出版は1947年。作者らはモデルのその後を念頭に置いてこの作品をつくったのだろうか。

子供の頃、全巻(後述参照)が自宅にあって親しんでいたため懐かしさは大いに感じるものの、やはりこのシリーズも時代の価値観からは逃れられなかった作品なんだな、と今になって思う。
「女たちよ!男たちよ!子供たちよ! 」でだったか、伊丹十三が成人してから、自分の子供に与えようとかつて親しんだ「くまのプーさん」(翻訳者の石井桃子先生、安らかに)を読み直して、そこに植民地主義のにおいを感じ取って断罪するエピソードを読んだ覚えがある。この「ひとまねこざる」連作も同様で、今読むとどうしようもなく古さ、無神経さを感じさせる。
シリーズ第一作の冒頭、アフリカから無理やり船に乗せられて連れてこられたペットの猿が、人間の生活を真似ていろいろ失敗を犯して大騒ぎを起こし、それでも最後は庇護者である黄色い帽子のおじさんに助けてもらってめでたしめでたし、という各巻に共通する大枠は、どんなナイーブな読者であっても人種差別の正当化と響き合うものがあることを否定し得ないだろう。

擬人化された動物が主人公の童話と言えば「ぞうのババール」シリーズもあった。あっちはぞうの国から人間の国に来て人間の文明をいろいろ学んだあげくぞうの国に帰って王様になる話だったな、と思い出す。象の自主性を重んじている分、奴隷としての境遇に甘んじているジョージとはまるで違うね、さすがフランスの本だね、などとうっかり褒めそうになって岡田秀則さんの本当は恐ろしい「ぞうのババール」というサイトに行き当たる。
これは、露骨な植民地主義に貫かれた童話だったのである。Babarという名前も、子供が発音しやすいというだけではなく、barbare(野蛮)、つまり彼の生まれた森を指し示しているのではないか。ここで注意すべきは、「ぞうのババール」で描かれる世界が、旧来のヨーロッパ直接支配をとりあえず脱して、形式上は彼ら自身に統治されていることだろう。大きな森に、「素晴らしいヨーロッパ文明」を学んだ指導者が帰ってきて、親仏政権を樹立し、素朴な民衆に「豊かさ」と「幸せ」をもたらす。しかも、森と街は結構近い距離にあるように表現され、根拠のない一体感が演出される。それをジャン・ド・ブリュノフは1931年に書いた。だからより正確に言えば、これは植民地主義というより、やがて来る新植民地主義を予言した童話なのである。
うーむなるほど。そう読みましたか。やはりうっかり「植民地主義」とか口走ってはいかんな、と反省。差別の根はどこにでもあるのだ。

現在、「じょーじ」は原作者(既に物故)の手を離れて「おさるのジョージ」となって新シリーズが刊行されている。"New Adventures"として、キャラクターを借りて別のライターが書き下ろし、既に本国では24冊を数える。第二次大戦末期の米海軍がエセックス級正規空母を大量に就役させたのを脈絡なく思い出した。24という数字以外は本当に脈絡ないな。
本邦での翻訳も進んでおり、岩波書店のサイトによれば21冊が出ているらしい。しかしCG制作でしたか。なんとまあ。
タイトルを見るとなんか犬を飼ったりしてるらしいけど、猿が犬連れて歩いていいんだろうか。そりゃま旧シリーズでもこうさぎもらったりはしていましたが。

実際どんな感じなのか、一冊本屋で立ち読みしてみた。「おさるのジョージ スキーをする」だ。
冬のスポーツ大会に出かけたジョージは,雪山が楽しくてたまりません.きいろいぼうしのおじさんが目をはなしたすきに,競技用のそりにこっそり乗り込んで,またまた大騒動が始まります.
いや、これはひどい。もはや植民地とかどうとかでなく、ジョージが単にゲレンデの迷惑猿野郎でしかなくなっていることに慄然とする。このシリーズの本質はそこにあったのか、と目鱗。アメリカのお子様は要するに、自分がやりたくてもできない性質の悪いいたずらを代わりにやってくれる存在が好きなんだな。とここでまた脈絡なく映画ホーム・アローンシリーズを想起。観たのは「2」までだけど、子役の繰り出すあの手この手のトラップで悪役の泥棒コンビが七回死んでも足りないぐらい非道い目に遭わされていたのを思い出した。

そろそろ何を書いているのかわからなくなってきた。もうひとつだけ気づいたことを書こう。
オリジナルのレイ夫妻による絵本は、日本版は6冊セットだったのに対し、本国ではもう一冊Curious George Learns the Alphabetというのが出ていたと初めて知った。「ことばをならうひとまねこざる」か。英単語を学ぶという内容ゆえ、子供向けに翻訳するのが難しくシリーズから省かれたのだろう。このシリーズは著作権関係に大らかだった時代の産物だからか、「ひとまねこざる」の表紙絵は明らかに作者でなく誰かの(下手な)模写が使われていたりした。この本もアイデアだけいただき翻案して「あいうえお」をもとに作り変える……のはさすがに無理だったということか。
でも一冊だけ読んでないのは癪なので、どこかで見てみたい気がする。悪口もいっぱい書いたけど、子供時代を一緒に過ごした本はやはり大事だから。

追記:
やっぱり訳出されていた。1992年出版だから子供時代に知らなかったのも無理はない。
図書館で中身を見てみたが、アルファベットの大文字小文字と対応するものを列挙している内容なので、日本の幼い子供がひとりで読むには若干厳しい感じ。でも、あの懐かしい絵に再会できたのはよかったと思う。

追記(2009/09/24):
上述したWikipediaの内容が書き換えられ、ハンブルクの少年のエピソードは「出典不明」として削除されてしまったようだ。ということで以前の版から該当部分を引用しておく。信じるかどうかはあなた次第。
As stated in an interview, the book Curious George Takes a Job was inspired by a true story. A boy, whose name is not known today, was born in Hamburg in 1909 with Down's Syndrome. He was institutionalized by his parents, condemned to a life at the facility.
When the boy was 15, he escaped from the institution and fled into the city streets. Hungry and in search of food, he found the briefly unattended kitchen of a restaurant, where a cook found him playing with the food and eating it. The cook, intrigued, put him to work to clean dishes, and took him home that evening. Within the following days, the cook arranged with a friend to have the boy wash windows at an office building.
The boy's work went well at first. But in one office, he found colored paints. He used them to paint a mural on the wall of the office. The tenant returned to his office after a lunch break to find the boy busy painting, and he started to chase after him. The boy jumped out a third-story window, breaking some bones.
The story made local headlines. After several weeks of hospitalization, the boy was formally adopted by the cook, and he later became the star of an amateur movie. He was recognized in the coming years as a talented artist. Some of his artwork was sold by the renowned bookseller, A.S.W. Rosenbach.
Tragically, his identity, art, and other details of his life were lost in the ravages of World War II, and he is believed to have been put to death by the government of Nazi Germany.



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2008年04月05日

マリリンと二滴の香水

往年ほど付けている人は多くないのだろうが、それでもシャネルNo.5の名前はマリリン・モンローの有名なエピソードと共に未だに広く認知されていると思う。たとえばシャネル5番とマリリン・モンロー | HEAVEN SCENTというサイトでは背景も含めて次のように紹介されている。
映画界での華やかな成功とは裏腹にマリリンは体制と戦っていました.映画界やマスコミはマリリンを映画の役そのままに,『官能的な肉体を持つ頭の弱い女』に位置づけようとしていたのです.そんな中,インタビューで『寝ている時は何を着ているのか』という質問を受けて(着る=wearとかけて)『シャネルの5番を纏っています』という返答をしたといいます.この逸話が『マリリンは寝る時にシャネルの5番を纏っている』という伝説のような逸話となったのでしょう.他にも,部屋に居る時はどんなものを身につけているかという質問に応じて(onとかけて)『つけているのはラジオだけ』という答えを返したととか.こんな記者とのやりとりはマリリンの知性が光る結果となりました.
私もこれまで概略そういう話だと理解していて、おそらく我が国ではこのかたちで知っている人が大半だと思う。だが、どうやらこれは彼女が話したすべてではなかったらしい。通勤の徒然に読んでいた「マーク・ピーターセンの英語のツボ」でそれを知り、さらにマリリンのウィットに打ちのめされることになった。

以下は同書の引用。「wear」という単語の守備範囲の広さを説明したコラムで用例として出てくる。
1953年、ヌード写真の掲載をめぐるスキャンダルのときに行われた記者会見で、セックスシンボルのマリリン・モンローが英語のこの特徴をうまく使ったことがある。What do you wear to bed?(寝るときに何を着て寝るのですか?)というくだらない質問をされたら、彼女は "Two drops of Chanel No.5."(シャネル5番を2滴)と答えたのである。
これはもう降参するしかない。かの名言は二段オチだったのだ。答えを聞いた誰もが「一体どことどこなんだよー」と内心ツッコミを入れたであろう。
英語版WikipediaのChanel No. 5の項目にもこのやりとりは紹介されている。

マスコミ相手の応答としては「Chanel No.5」だけでも十分上等だし、よりエッチい想像をさせることになる表現を嫌った誰かが日本向けに「二滴」を敢えて省いて広めたのかもしれないが、マリリン・モンローの当意即妙ぶりはこのかたちの方がよりよく伝わったように思う。すげえキュート。今更ながら惚れたぜベイビー。
これでは伝説となるのも当然だ。生きていたら今年で82歳。どんな素敵なおばあちゃんだっただろう。
我が国のスターと言われているタレントの方々が、これくらい洒落た言葉をさらっと喋るようになる日は果たして来るのだろうか。みんな頑張ってね。

だいぶ暴走したが、「英語のツボ」はこれ以外にもなかなか面白楽しい話がいっぱい載っているので、語学に興味がなくとも十分読むに堪える。おすすめ。
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2008年03月30日

その数学が戦略を決める(イアン・エアーズ)

コンピューターとネットワーク化されたデータ共有による情報処理が一般化したら、あれ不思議専門家の出る幕がなくなりました、という本。原題「Super Crunchers」を山形浩生は綺麗に「絶対計算者」と訳しているが、crunchは物をばりぼりべりと噛み砕き咀嚼する擬態語であるからして「超バリボリ野郎」と下品に解釈した方が、現在起きていることのとんでもなさを表現するには向いていたかもしれない。まあ文春の品位がそれを許さなかったのだろうが。ともあれ、非常に刺激的な本だった。

統計学的には自明なことなのに、専門家が認めたがらなかった事実が次々紹介されていて読み手を飽きさせない。降雨量・気温とワインの質の相関式、野球の新人選手の可能性を評価する指標に始まり、巨大データベースがビジネスや公共サービス、医療、教育、犯罪防止やさらには映画制作などまで、様々な世界で意思決定のあり方をどう変えてきたかが描かれる。包茎手術とHIV感染率の相関、なんてのもあったり(これについては異論もあるらしい)。
たとえばクレジットカードでの購買記録、納税額の変化などを組み合わせれば、我々の消費行動など簡単にパターン化されてしまう。同じ属性を持つデータ群と照合することで将来の予測も簡単に可能だ。データの裏付けがあれば、業者は顧客に最適のタイミングでDMなどによるダイレクト営業をかけられるようになるだろう。回帰分析万歳。
自分がのんべんだらりと日々扱っているデータをこの視点から見直したらどうなるか、ということに興味を覚える。先に例示したように、データマイニングの応用範囲は意外なぐらい広い。

一方、この技術の先にあるのは、個人にとってはどうも明るい未来ではなさそうだ。
著者は光と影を併記することを怠らないが、どう考えても大量のデータにアクセスし分析し対象者本人自身も知らない消費性向などの内面に侵入できるのは企業や公権力の側であって、我々は圧倒的に無力だ。ハツカネズミである私たちが気づかないうちに、車を回す様子はつぶさに観察されているような感じ。何しろものによっては過去に遡ってデータ化可能なんだし。統計と優生学の関係は今更確認するまでもない。
サンプル化された無名のデータのひとつとして振る舞うことには何の抵抗もないが(いや、本当はちょっとだけある)、データを握った側がそれを個人に紐付して活用することはしないだろう、と思うほど私はナイーブではない。
米国ではクレジットの履歴に応じて個々人が異なった金利や価格を提示されているらしい。日本ではどうなのだろうか。我々が頼れるのは価格.comぐらいしかないのか。
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2008年03月25日

2010年南アフリカW杯が危ない!(木崎伸也)

出張のおともに読んだ新書。
タイトルから想像されるような中身ではなかった。売るためとは言えあざといタイトルをつけるものだ>角川書店

今更だがおさらい。在南アフリカ共和国日本国大使館のウェブサイト(と名乗っているけど本物だろうか)に、同国の犯罪事情の概略が載っている。
南アフリカ滞在中の注意事項
個人的には「金をやるから」と言われても行きたくない国ナンバーワンだ。
そういうところで世界的なスポーツの祭典をやるのってどうよ、という疑問は当然湧いてくるが、開催に至った経緯について、本書では4章でゼップ・ブラッターFIFA会長の世界制覇への野望が背景にあったことを説明してくれている。このへんは基礎知識としてためになった。

まあしかし、このライターは短期間ではあるが主催者側の立場もまじめに取材している。すると当然両論併記にならざるを得ないわけで、本書は数々の問題点をいちおう指摘しつつも「成功したらかつてないW杯になる」と持ち上げる、マッチポンプ的な印象を与える内容になってしまった。組織委員会から顎足付きで予選抽選会に招待されたことも正直に書いている。2ちゃんねるの古典的コピペヨハネスブルグのガイドラインのような内容を期待した人は大いに期待を裏切られるだろう。
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2008年03月20日

鼻(曽根圭介)

最近の本はすぐ絶版になるので、目に付いたらできるだけ買うようにしている。だがなかなか読む暇がなく、今のところは新刊書を数ヶ月〜一年遅れぐらいで追いかけている感じだ。下手したら読み終わる前に文庫入りしてたりして。
このブログは別に書評サイトじゃなくて、自分用備忘録のつもりで適当に感想を書いているだけだからどれだけ遅くなってもかまわないのだが、面白い本を長い間放置していたことに気づくと、なぜか罪悪感に駆られる。部屋の隅に打っちゃったまま正当な価値を認めないでいてすまなんだ、みたいな感じ。
この「鼻」もそうだ。至極面白いのだ。読まないでいて損をした。面白い本は自ら発光する仕組みでもあればいいのに。

日本ホラー小説大賞短編賞の受賞作「鼻」のほか長めの短篇二篇を収録。いずれも新人(だそうだ)の作品とは思えないユニークな世界を構築している。人間の価値が株価で表される世界の話「暴落」はかんべむさし風、馬鹿どもに翻弄される男の悲喜劇「受難」は戸梶圭太風とも読めるが、それらのスタイルの大元でもある筒井康隆の影響を現代の感覚で消化して独自の作品に仕立てていると思った。
もっとも、たとえば「暴落」の締めの一行が
「うー、あー」
で終わっているのには改善の余地があるかもしれないが。ここはもっと後味悪く凄惨な描写も可能だっただろう。

で、暗黒の近未来社会描写で始まる表題作「鼻」も面白かったのだが、巻末の大森望の気合入りまくりの解説もまた面白かった。
読むに値しない水田美意子の作品を無理やり出版させたときは少なからず失望したが、気に入った若い才能をがんがん後押しして売り込もうという大森氏の意欲にはやはりすごいものがある。それほど解釈にまぎれのある話でないにもかかわらず、作品の構造をネタバレを物ともせず懇切丁寧に読み解いてくれたりしているのだ。この作家は将来有望であるからして、俺の教えた正しい鑑賞方法に従って読んでくれ!という熱いメッセージを受け止めた。心配しすぎ。たぶん世間の多くの読者は正しく理解しているはずだから大丈夫だと思います。
まあデビューにもかかわっているのだから当然か。彼の真価を最初に認めたのは自分だ、との自負もあるから勢いづいているのだろう。確かにそれだけの素材だと思う。

ともあれ曽根圭介の乱歩賞受賞作「沈底魚」も読んでみることにしよう。この手の短篇もぜひ量産希望。今年で41歳らしいので決して早すぎるデビューではない。相当懐が深そうな作家なので、今後に大いに期待したい。
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2008年03月16日

きつねのはなし(森見登美彦)

京都を舞台にした怪談・奇譚集。直前に読んだ「有頂天家族」とは打って変わって暗欝な印象だった。と言っても執筆時期はこちらの方が前。デビュー第二作だろうか。

古道具屋「芳蓮堂」とそれを取り巻く怪異の話。表題作「きつねのはなし」がうまくまとまっていて一番面白い。交易を通じて次第に何かを奪われていく話、という骨組は原始的な恐怖を呼び起こす。「魔」はもっと整理すれば短篇ホラーの傑作になったと思うが、作者の主眼は京都の路地の描写など、ホラーとしては枝葉にあたる部分にあったのだろう。

「処女作には作家のすべてがある」とはよく言われるが、「太陽の塔」という小説は確かに二方向の行く手を示唆していたと思う。超単純に言えば馬鹿小説と悶々小説である。
躁方向に走れば「有頂天家族」「夜は短し歩けよ乙女」になり、鬱に浸ると「きつねのはなし」が生まれる。とは単純化のしすぎだろうが、もしこの「きつねのはなし」が出版当時もっと評判になっていたら、森見登美彦という作家の方向性はずいぶん変わっていたかもしれない。もっと純文学方面で活躍し、内面の闇黒を正面から描く作品を世に問うていた可能性もあったかも、と想像する。

得体の知れない大きな存在への畏れ(太陽の塔だったり琵琶湖疏水だったり)というテーマは、実は「有頂天家族」の底流にもうっすら感じられたりするので、無理やり二分割しなくてもいいのかもしれないが、うつむき加減な森見文学(と言えるほど読んでないけど)も私は好きだ。未読の「四畳半神話大系」もその路線なのだろうか。引き続き注目したい作家だ。
ラベル:怪談 森見登美彦
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2008年03月10日

Graphication最新号が面白かった

毎度おなじみ、富士ゼロックスの無料広報誌「GRAPHICATION」だが、今号の特集「食を考える」は読み応えがあった。

特に面白かったのは「食がつなぐもの」と題した結城登美雄と島村菜津の対談。結城氏が紹介していたエピソードには考えさせられた。
東北の村々を歩いていて興味を引かれるのは、なぜこの人たちは割が合わないのにずっとここで暮らしているんだろうということです。(中略)そこには当然、世の中のいまの価値基準となっている便利さとかお金などには代えられないよさが何かあるはずなんです。それが何かなかなかわからなかった。
 その疑問があるとき、九十近いじいちゃんに出会って氷解したんです。
その老人は酒を飲むと「百姓ぐらい馬鹿馬鹿しい仕事はない。こんなことやったって金にはならねえしな」と必ず愚痴る。あるとき結城さんが「そんなに割が合わねえならやめちゃえばいいじゃねえか」と突っ込むと、老人は絶句して隣の部屋に引っ込んでしまった。やがて野菜の種が入った茶袋を持って出てきた老人は、種を出しながらこう話した。
 この種を畑に蒔く。蒔くと気になる。だから朝起きたらまず見回りに行く。五日から一週間で芽が出る。出たら間引きせねばならない。間引きは難しい。この歳になっても、いいのを間引いた気がしてしょうがない。間引かれなかった芽には「ちゃんとしろよ」と声をかける。
そうやって毎朝その芽を見ていると、ある日「ポッと双葉が開く瞬間に出くわすんだよ」「あれは何とも言えないものだ。思わずあーっと声が出る感じがする」と言うわけです。「おれはあの『ポ』にだまされて九十まで百姓やったのかもしれないなあ」と。
日本における産業としての農業は、一貫性のない農政による規制と補助金で歪みに歪んでしまった。今更食糧自給率の低さにあわてたところで、疲弊した農村に新たな増産を担う力はほとんど残っていない。
食糧だけ自給したところで国家が成り立とうはずもない。効率を考えれば、より大規模な農業を展開できる他国の労働力を借りて安全な食糧生産を図り自由貿易を維持する方が遥かに現実的だろう。愛読する余丁町散人さんのブログの農業問題に関するエントリはいちいちもっともだと思う。

だが、このエピソードで紹介されていたような、双葉が芽吹く様を見たときの原初的な感動が生活の中からまったく失われていいともやはり思えない。土を耕し日の光と雨の助けで収穫を得るという営みが私たちの生活からまったく切り離されてはいけない、とこれは根拠も何もないが、本能に近いところでそう感じる。
小学一年生のときアサガオを育てた経験がある人は記憶を呼び戻してほしい。あれが農作業だとは思わないが、己が指で植えた種が芽を出したときに誰もが感じたであろう生命の不思議は、若者や子供の姿が消えたこの国の山村で哀しい農業を支える人々の思いとどこかで繋がっているに違いない。
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2008年03月07日

有頂天家族(森見登美彦)

童話にしても大人向け小説にしても、たぬきが出てくる話は総じて面白いものが多い気がする。化けるという行為自体が虚構世界と好相性であり、たぬきという動物もともとの可愛らしさもあって話がうまく転がりやすいからではなかろうか。
とここまでもっともらしく書いたものの、実はそれほど多くのたぬき文学タイトルが思い浮かばず(新美南吉の「手袋を買いに」ってきつねの話だったんだ。勘違いしてた)、童話はともかく現代日本の成人小説では案外井上ひさしの「腹鼓記」ぐらいかなあ、と心細くなってきた。だめじゃん俺。
もしかしたら昔観たアニメ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」の印象が強すぎたのかもしれない。
ともあれ、純正たぬき小説である本書「有頂天家族」があまりにも面白かったので、おそらく脳のどこかが「たぬき作品に駄作なし」と勝手に法則化してしまったのであろう。世のたぬきファンは必読と言っていい。

たぬきがだめなら四兄弟姉妹ものというカテゴライズはどうだ、と懲りずにまた考えてみた。こちらは北斗四兄弟ナルニア国物語と若草物語とあと何かあったかな?あ、舞城王太郎の奈津川サーガもあるじゃん、読んでないけど五木寛之にも四姉妹の登場する「四季」シリーズがあったねえ……と枚挙に暇がないぐらい出てくる。
「四」は多彩なキャラを書き分けるにはちょうどいい人数なのだろう。名作の鋳型だ。

というわけで本作はたぬきの四兄弟という設定の相乗効果(あるのか?)に加えて、天狗の舞う京都の夜を舞台にした森見ワールド全開バリバリなので、どう間違っても面白くならないわけがない。子だぬきの可愛さ長老だぬきの古狸ぶり天を舞う美女の艶姿などなどをちりばめ、リアリティくそくらえ的なオルタード京都の魅力はいよいよとどまるところを知らない。読者は安心して奇天烈な騒動に巻き込まれ振り回されていればよろしい。笑いあり涙あり(鍋の具にされてしまった父親をめぐるエピソードは、こういうのも何だが甚だ感動的である)のたぬきホームドラマを存分に堪能できよう。
この愛すべきキャラクターたちと一冊で別れるのは惜しいな、と思っていたら単行本巻末に続篇執筆中との報せが出ていた。人気シリーズ化間違いなし。映画もドラマもいけそうだ。フジテレビよ、「鹿男あをによし」の次はたぬ男でどうか。

ところで森見登美彦は筒井康隆のファンだったのだろうか。筒井の初期長篇「馬の首風雲録」はまさに気丈な母親と四人兄弟の物語だったな、と思い出した。あっちに登場するのは動物とは言っても犬型宇宙人だったが。

「馬の首」は筒井家の現実の四兄弟を下敷きにした作品だった。今はともかく、昔は日本でも四人兄弟は珍しくなかった、とふと思う。
遊び盛りの子供が四人もいては、核家族でなくても到底子供のコントロールは不可能だ。そういうドタバタした光景は、現代日本の家庭からはほとんど失われているのだろう。けなげに力を合わせて一家の危機を乗り切る物語は、たぬきに託すしかないのかもしれない。

追記:
こんな紹介文ではどういう小説だか全然わからんではないか。作者のブログこの門をくぐる者は一切の高望みを捨てよに要領よく(あたりまえだ)まとめられた(たぬ)物紹介が出ていたのでリンク。読むべし買うべし。
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2008年03月04日

世界は言葉でできてはいない

アフィリエイトリンクを二枚立て続けに貼っているのは無意味そうに見えて実はやはり意味はないのだが、今回は十年一日のごとく傑作を初出時に読み逃していた己の感度の悪さを蛸殴りたいという反省のみならず、この町田康「告白」の単行本が実は大変コストパフォーマンスにすぐれた商品であったことに今頃開眼したため以て他山の石とすべく斯様な仕儀と相成った。本当かよ。

何せ文庫の方は1,200円で850ページ(含解説)、縦に置けば自立し角で頭を叩けばしばらく立ち直れない痛打を与える質と量を誇る(「と」は余計)一冊である。この字数でこの値段であれば2,000円を切っていた単行本はほとんど生活応援価格と言ってよいのではなかろうか。その真価に気づかず数年間安穏と暮らしていたわが愚昧をひたすら恥ず。
実際、本作における町田康の文章は量が質に転化している好例だ。喋れば喋るほど相手に意思が伝わらなくなる自意識のドツボにハマった男の悲喜劇は大量の活字で薙ぎ倒すように描写するほかない。

そしてこれが新聞の朝刊に堂々連載されていたことに改めて驚く。読売新聞の読者がこの連載前後で増えたり減ったりしたとか聞かないので、きっと日本国民のリテラシーは盤石安定しているのか、あるいは新聞小説なぞ商品としての新聞の価値には景品の洗剤ほどの影響もないのかのどちらかだろうが、某大家のエロ小説のように物議を醸すこともなく恙無くこの異形の連載を貫徹させてくれた読売10,000,000読者の度量の広さには敬服するほかない。いや、本当にこの連載中だけでも読売取ってればよかったな。
初出時と同じ文章かどうかは確認していないが、劈頭からしてこうだ。
 安政四年、河内国(かわちのくに)石川郡赤阪村字水分(すいぶん)の百姓城戸(きど)平次の長男として出生した熊太郎は気弱で(どん)くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な()(らい)者と成り果てていた。
 父母の(ちょう)(あい)を一身に()けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
 あかんではないか。
もしこれがこのまま平和な朝の新聞に載っていたのなら、読者は後ろにのけ反って倒れなければならない。町田康おそるべし。読者は文庫本で六行目にして主観と客観が混濁した小説世界に抛り込まれ、章分け無し息継ぎなしの長旅を猛烈な速度で強いられる。

自意識は言葉で描写されることによって成り立つが、世界はもっと曖昧な、それこそ「空気」で築かれている。「空」でしかない無が世界の本質だ。哀れな主人公の熊太郎は、その無に対して言葉で立ち向かい、だが所詮自分の内側にしかない自意識であるところの言葉に自ら縛られて自滅の路を辿る。言葉を連ねれば連ねるほど逃げていく世界。熊太郎の運められた生の痛ましさは、根源的なものとして読む者を揺さぶる。
史実であるらしい農村での大量殺人事件「河内十人斬り」のどこまでをこの小説が再現しているのかはわからないが、男らしさ幻想が仕掛ける自意識の罠から逃れ得ない男、つまりほぼすべての男にとって熊太郎の悲劇は多かれ少なかれ我がことのように、つまり現実の延長として受け止められるだろう。過剰なフィードバックをかけたあげく発振して脳内アンプを飛ばしてしまった経験があるすべての人にとって熊太郎はまったく他人ではない。参ったよ本当に。

森見登美彦重点爆撃はひと休みしてしまったが、しかしこれもまた同じ山頂を目指す言葉なのであろう、と勝手に同じカテゴリにくくってしまおう。男の自意識が積もり積もった恥の山。嗚呼。
ともあれ本書の厚さと表紙のぶっきらぼうさに躊躇して手に取りかねているそこの少年。これはまさに君のための小説であり君のための長さだ。迷わず読め。
ラベル:町田康 文学 告白
posted by NA at 23:54| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする