まあ、小説は自由でいいよね、というか何というか。超常現象なんでもオッケー、何せベトナム人が主人公で宇宙人も関係してるし、というすげえいい加減なお話。創作の道を志して壁に当たっている人に読ませてあげたらいいかもしれない、と思った。これがありなら何でも大丈夫、と。あまりの内容に怒り出すかもしれないが。
主人公男女の会話の軽妙さはそこそこ面白いので、物語のでたらめさに目をつぶれる人はそこだけ読めばいいのではなかろうか。
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自分を消すのが好きという人の方が翻訳家には向いていると思います。という言葉も、上記のような感想を抱いた後で読むとまた別な印象を映す。
普通、文庫本のこの部分には解説というのがつく。名のある作家や文芸評論家がこの作品と作者がどんなに素晴らしいか、通りすがりの読者にレクチャーしてくれるありがたい「おまけ」である。中には、解説を読んで購入するかどうかを決めるという読書家もいるらしい。なんということだ。彼女の本ならば解説を書いた人間の方に箔がつくというものなのに。
だのに、本書には残念なことに解説がない。書いてくれる人がいなかったのである。仕方ないから、著者自ら解説をいたします。
第21回三島由紀夫賞・山本周五郎賞(新潮文芸振興会)の選考会が15日、東京都内のホテルで開かれ、三島賞は田中慎弥さん(35)の「切れた鎖」(新潮社)、山本賞は今野敏さん(52)の「果断知名度では一歩も二歩も直木賞に劣る山本周五郎賞ではあるが、過去の受賞作品を見てみると、それなりに印象に残る作品がきっちり取っている感じ。現在の選考委員も真っ当な顔ぶれなので、この人たちに選ばれたことは大いに喜んでいいと思う。ってたぶん喜んでおられるでしょうが。
隠蔽捜査2」(新潮社)と伊坂幸太郎さん(36)の「ゴールデンスランバー」(新潮社)に決まった。
新作小説と新作映画がコラボ!共作ものは「絆」がキーワードなのかな。オリジナルの楽曲も山下敦弘監督の映画も見聞きしたことはないが、相変わらずのマイペースな活動振りがうかがわれて何より。
熱狂的人気を誇る2人が場所やキャラクターをリンクさせた奇跡のコラボレーション作品集
Theピーズの名曲『実験4号』に捧げる、青春と友情と感動の物語!
祝 2008年本屋大賞受賞
舞台は今から100年後、温暖化のため火星移住計画の進んだ地球――。
火星へ消えたギタリストの帰りを待つバンドメンバーの絆の物語(伊坂幸太郎『後藤を待ちながら』)と、火星へ旅立つ親友を見送る小学生たちの最後の2日間(山下敦弘『It's a small world』)が、いま爽やかに交錯する!
これは、露骨な植民地主義に貫かれた童話だったのである。Babarという名前も、子供が発音しやすいというだけではなく、barbare(野蛮)、つまり彼の生まれた森を指し示しているのではないか。ここで注意すべきは、「ぞうのババール」で描かれる世界が、旧来のヨーロッパ直接支配をとりあえず脱して、形式上は彼ら自身に統治されていることだろう。大きな森に、「素晴らしいヨーロッパ文明」を学んだ指導者が帰ってきて、親仏政権を樹立し、素朴な民衆に「豊かさ」と「幸せ」をもたらす。しかも、森と街は結構近い距離にあるように表現され、根拠のない一体感が演出される。それをジャン・ド・ブリュノフは1931年に書いた。だからより正確に言えば、これは植民地主義というより、やがて来る新植民地主義を予言した童話なのである。うーむなるほど。そう読みましたか。やはりうっかり「植民地主義」とか口走ってはいかんな、と反省。差別の根はどこにでもあるのだ。
冬のスポーツ大会に出かけたジョージは,雪山が楽しくてたまりません.きいろいぼうしのおじさんが目をはなしたすきに,競技用のそりにこっそり乗り込んで,またまた大騒動が始まります.いや、これはひどい。もはや植民地とかどうとかでなく、ジョージが単にゲレンデの迷惑猿野郎でしかなくなっていることに慄然とする。このシリーズの本質はそこにあったのか、と目鱗。アメリカのお子様は要するに、自分がやりたくてもできない性質の悪いいたずらを代わりにやってくれる存在が好きなんだな。とここでまた脈絡なく映画ホーム・アローン
As stated in an interview, the book Curious George Takes a Job was inspired by a true story. A boy, whose name is not known today, was born in Hamburg in 1909 with Down's Syndrome. He was institutionalized by his parents, condemned to a life at the facility.
When the boy was 15, he escaped from the institution and fled into the city streets. Hungry and in search of food, he found the briefly unattended kitchen of a restaurant, where a cook found him playing with the food and eating it. The cook, intrigued, put him to work to clean dishes, and took him home that evening. Within the following days, the cook arranged with a friend to have the boy wash windows at an office building.
The boy's work went well at first. But in one office, he found colored paints. He used them to paint a mural on the wall of the office. The tenant returned to his office after a lunch break to find the boy busy painting, and he started to chase after him. The boy jumped out a third-story window, breaking some bones.
The story made local headlines. After several weeks of hospitalization, the boy was formally adopted by the cook, and he later became the star of an amateur movie. He was recognized in the coming years as a talented artist. Some of his artwork was sold by the renowned bookseller, A.S.W. Rosenbach.
Tragically, his identity, art, and other details of his life were lost in the ravages of World War II, and he is believed to have been put to death by the government of Nazi Germany.
映画界での華やかな成功とは裏腹にマリリンは体制と戦っていました.映画界やマスコミはマリリンを映画の役そのままに,『官能的な肉体を持つ頭の弱い女』に位置づけようとしていたのです.そんな中,インタビューで『寝ている時は何を着ているのか』という質問を受けて(着る=wearとかけて)『シャネルの5番を纏っています』という返答をしたといいます.この逸話が『マリリンは寝る時にシャネルの5番を纏っている』という伝説のような逸話となったのでしょう.他にも,部屋に居る時はどんなものを身につけているかという質問に応じて(onとかけて)『つけているのはラジオだけ』という答えを返したととか.こんな記者とのやりとりはマリリンの知性が光る結果となりました.私もこれまで概略そういう話だと理解していて、おそらく我が国ではこのかたちで知っている人が大半だと思う。だが、どうやらこれは彼女が話したすべてではなかったらしい。通勤の徒然に読んでいた「マーク・ピーターセンの英語のツボ」でそれを知り、さらにマリリンのウィットに打ちのめされることになった。
1953年、ヌード写真の掲載をめぐるスキャンダルのときに行われた記者会見で、セックスシンボルのマリリン・モンローが英語のこの特徴をうまく使ったことがある。What do you wear to bed?(寝るときに何を着て寝るのですか?)というくだらない質問をされたら、彼女は "Two drops of Chanel No.5."(シャネル5番を2滴)と答えたのである。これはもう降参するしかない。かの名言は二段オチだったのだ。答えを聞いた誰もが「一体どことどこなんだよー」と内心ツッコミを入れたであろう。
「うー、あー」で終わっているのには改善の余地があるかもしれないが。ここはもっと後味悪く凄惨な描写も可能だっただろう。
東北の村々を歩いていて興味を引かれるのは、なぜこの人たちは割が合わないのにずっとここで暮らしているんだろうということです。(中略)そこには当然、世の中のいまの価値基準となっている便利さとかお金などには代えられないよさが何かあるはずなんです。それが何かなかなかわからなかった。その老人は酒を飲むと「百姓ぐらい馬鹿馬鹿しい仕事はない。こんなことやったって金にはならねえしな」と必ず愚痴る。あるとき結城さんが「そんなに割が合わねえならやめちゃえばいいじゃねえか」と突っ込むと、老人は絶句して隣の部屋に引っ込んでしまった。やがて野菜の種が入った茶袋を持って出てきた老人は、種を出しながらこう話した。
その疑問があるとき、九十近いじいちゃんに出会って氷解したんです。
そうやって毎朝その芽を見ていると、ある日「ポッと双葉が開く瞬間に出くわすんだよ」「あれは何とも言えないものだ。思わずあーっと声が出る感じがする」と言うわけです。「おれはあの『ポ』にだまされて九十まで百姓やったのかもしれないなあ」と。日本における産業としての農業は、一貫性のない農政による規制と補助金で歪みに歪んでしまった。今更食糧自給率の低さにあわてたところで、疲弊した農村に新たな増産を担う力はほとんど残っていない。
安政四年、もしこれがこのまま平和な朝の新聞に載っていたのなら、読者は後ろにのけ反って倒れなければならない。町田康おそるべし。読者は文庫本で六行目にして主観と客観が混濁した小説世界に抛り込まれ、章分け無し息継ぎなしの長旅を猛烈な速度で強いられる。河内国 石川郡赤阪村字水分 の百姓城戸 平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍 くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無 頼 者と成り果てていた。
父母の寵 愛 を一身に享 けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
あかんではないか。
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