2012年09月23日

夜の国のクーパー(伊坂幸太郎)

以下は自分のための読後感。レビューをお求めの方はamazonなり何なり、他のサイトでお探しください。

大好きな作家の作品であっても趣味に合わないことはある。わかってはいるのだが、それでもこの作品には大きな失望を覚えた。うまく楽しめなくて、なんだか伊坂さんに申し訳ない気がする。面識もない相手に変な言い方だが。

約400頁の作品の四分の三までは大いに興にのって読み進めていた。旧作や名作との類似点やオマージュ(「これはたぶんガ*****記だな」と冒頭場面で予測したら案の定だった)を見出しながら、いつもの伊坂風文章を満喫できていた。
残りの四分の一とは、つまり謎解きであり伏線の回収である。伊坂作品でそこを楽しめなくてどうするのだ、まったく俺としたことが。

ひとつには喋る猫、動く木などが登場するファンタジーの世界が前半であまりに巧みに構築されていたからかもしれない。それに比して、謎解き部分で示された作中世界の現実は必ずしも愉悦に満ちたものではなかった。伏線を回収する手つきも必ずしもスムーズではなかったと思う。

情況に対して発信する作家像は今回も健在で、ことさらに大声での主張はしないものの「帰る」という言葉に込められた複数の含意は十分伝わってきた。いつもながら物語に挟み込まれた数々の箴言・警句も健在だ。朝日夕刊で連載中の「ガソリン生活」もそうだが、人間たちの右往左往を動物・無生物の視点から重層化する文章は手慣れたものだ。

なのにどうして。なんなんだこの恋の終わりにも似た索漠感は。
よくわからない。昔だったらそのオフビートさをオフビートゆえに愛でていたのではなかったのか。
私にとってこの小説は、「夜の国のクーパー」という言葉から連想される静かで穏やかな謎と恐怖を孕んだものとして展開していた、くどいようだが四分の三までは。そしてそのあとですべてが台無しになった。
どんでん返しがはまったとかはまらないとかいう話ではない。ただ、残念なのだ。
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2009年09月26日

たまさか人形堂物語(津原泰水)

人形をめぐる六つの物語。
本題に入る前にこの表紙デザインはないだろう、と苦言を呈しておく。おそらく従来の津原読者以外に手に取らせようという出版社側の魂胆なのだろうけど、およそ内容を反映したものとは言い難い。

今は亡き講談社「Beth」の創刊号から廃刊号まで連載された「人形がたり」を改題改稿した連作長篇、らしい。すぐドラマに見立ててしまうのがわたくしの悪い癖なのであるが、深津絵里主演でワンクール行ける内容なのでフジテレビ関係者はぜひ鋭意検討されたい。もっとも男ふたりに女ひとりただし色恋沙汰に発展する気配まるでなし、という原作のトーンを維持したままのドラマ化は、日本のテレビの現状を考えるとあり得ないんだろうなあ。残念。何を勝手に残念がっておる。

津原さんの端正でありなおかつ同時代性を併せ持つ日本語のすばらしさについては今更書くまでもないだろう。強靱で明瞭な文体は本作でも当然健在だった。人の姿を取り人にあらざるものの魔性と魅力を最短距離で書ききった、そんな感じの作品集だ。というかこれで終わってしまうのが惜しい。各篇とももう少し長く読みたかったとも思う。綺麗にまとまっており続篇はなさそうなつくりなのでいよいよ残念極まる。
ラブドール(作中では「ラヴドール」と表記)を扱った「恋は恋」が女性誌に載ったというのは結構すごいことではなかろうか、と思ったりもした。人形に憧れる日本男児の思いを、同誌のターゲットと目された「キレイ系オタク」少女たち(ってどこにいるんだ?)は受け止め得たのかどうなのか。
掉尾を飾る「スリーピング・ビューティ」の趣向も心憎い。このエピソードで扱われる人形とは主人公自身だ。もとより小説内の人物はすべて作家に操られる人形ではあるのだが、彼ら彼女らに対する津原さんの人形愛が滲み出た一篇。やはり人形の物語には御伽話のような結末が相応しい。
ラベル:津原泰水
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2009年09月10日

捕手ほど素敵な商売はない(松下茂典)

捕手出身の名監督二人(森祇晶と野村克也)を主人公に、戦後のプロ野球史や戦術論、野球業界の裏話などを様々に語る趣向。読書情報誌での連載をたまたま読んだときは、紹介されていた個々のエピソードがとても面白く感じた。だが単行本になってみると、何だかまとまりがなくて読みづらさを覚えた。本を構成するのはむずかしいものだ、とつくづく思った。

それほど厚い本ではないが情報量は豊富で、当事者の発言もあるいは秘話に属するものが数多く含まれているのであろう。腹心だった森の西武監督就任を阻止しようとした広岡達朗の裏工作の話などは初耳で意外だった(プロ野球通には広く知られた話なのかもしれないが)。森・野村寄りのスタンスからの著作ゆえ、登場人物の白黒がはっきりしているのも本書の特徴ではある。

森と野村というキャラクターはそれぞれ屈折していて魅力的だが、どちらかひとりだけの話を一冊読むのはよほどの通でなければしんどそうではある。それゆえ共通項でくくって一冊の本にするという企画になったのだろう。しかし主人公をふたり立てたために叙述の視点移動が頻繁に起き、結果として先に書いたような散漫な印象をもたらしたことも事実だ。タイミングが微妙にずれている両者の選手時代の活躍を等分に描写しようとして年代を行ったり来たりするのは、あまりいい工夫ではなかったと思う。
クライマックスの日本シリーズ対決も、もっと紙幅を取って書き込んでほしかった。
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2009年05月09日

描く手の物語

こうの史代「この世界の片隅に」の下巻を読了して大きく溜息を吐く。最後まで読み終わって、長い連載の初頭(というか連載前の短篇読み切り)から作者が引いてきた線のありかがようやくわかった。物語としての価値もさりながら、漫画による漫画論としても出色の作品だと思った。(未完)
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2009年05月04日

伊藤計劃「The Indifference Engine」

今年のGWは暇なので本を読んでいる。暇でないGWもどうせ人と会うわけでもないので空いている時間には本を読むしかないわけだが、買い込んだまま未読で溜まっている本を消化できるのはとにかくよいことだ。

といいつつ新しい本も買った。うち一冊がこのアンソロジー「虚構機関」。2007年の日本SF短篇傑作撰集だが、目当ては一篇だけ、先に亡くなった伊藤計劃さんが世に残した数少ない作品のひとつ「The Indifference Engine」だった。

最悪よりもっと悪い状況を行進する子供十字軍。読後、西原理恵子の「うつくしい のはら」を思い出した。戦争の本質を独自の手法で見事に表現し得たクリエーターが同時代に存在する/したことの幸運を思わずにはいられない。
SFの枠組みで書かれているこの小説がすぐれたSFとして評価されることにはもちろん何の異存もないが、それでも「SF」の冠ゆえに一般の小説読者、とりわけ心打たれる読書体験を求めている人たちの目にこの作品が触れていないのであれば何とも不幸なことだと言わざるを得ない。それはSFの罪ではまったくないのだが、それにしても。

実際、この小説の中で描かれる暴力、そして先進諸国の杜撰な介入はおそらくアフリカやチベットで現在進行形の悲劇と相似形だ。高い純度で世界の陰画を描いた「虐殺器官」からさらにエッセンスだけを抽出したようなこの短篇では、痛ましさはより切実で直截に迫る。
いま現に起きている出来事の本質を、人間性の剥奪に関する残酷な寓話として定着させた伊藤計劃の小説技術の高さに改めて感じ入る。そして、この作家がもはや次作を書くことはないという事実の重みにもまた。

他の収録作についての感想は、また日を改めて(書かないかもしれないけど)。漠然と感じていた和製SFとの距離感を埋めるまでには残念ながら至らなかった。
ゲームデザイナー小島秀夫さんのブログで伊藤さんの顔写真を拝見する。いつの撮影かはわからないが、おそらく闘病中のものだろう。少年の面影が残る画像に、夭逝を惜しむ思いを新たにした。
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2009年04月28日

どこに行く「ヒメアノ〜ル」

ここしばらくの古谷作品は、主人公の設定もシチュエーションも似通っている。若かったり若くなかったりするワーキングプア男が分不相応な美人に惚れられ、並行して凄惨な暴力が描かれる。二巻まで出た「ヒメアノ〜ル」も今のところその展開を踏襲しているようだ。

もはやギャグ漫画の人ではない古谷実に、誰もが「稲中」での抱腹絶倒の再来を望んでいるのは不幸なことだ。彼が書こうとしているのは不幸と幸運が背中合わせに存在する統合失調的な世界、ジャンルはまるで違うけど後期マーラーやショスタコーヴィチの交響曲のようにけたたましく笑いながら横面を張ったり泣いたりしているような不条理なのだと思う。もっとも稲中にしてもキャラクターの常識とのずれが暴走する笑いを構成していたわけで、歯車の噛み合わない居心地の悪さや失調感というものは彼の創作に共通した主題なのかもしれない。

今回はヒロイン役が変態の殺人者に付け狙われているという設定がより闇の深さを感じさせる。ヒロインの視点からの書き込みが薄い分、厭な予感もまたひとしお。心ならずも犯罪に荷担する脇役も登場し、彼の動向も気になる。同工異曲かもしれないが、この先どうなるか興味は尽きない。
登場人物の軌跡が一点に集まってカタストロフを描くのか、はたまた交わることのないまま肩透かしを食わせるのか。雑誌連載や2ちゃんねる掲示板で展開されているであろうネタバレには目をつぶって、三巻以降に期待したい。できれば読んで驚けますように。
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2009年03月23日

伊藤計劃さん逝く


異色作にして大傑作だった長篇「虐殺器官」を書かれた伊藤計劃さんが亡くなられたという。佐藤哲也さんのサイトに書かれていた。

「虐殺器官」は描かれた内容の大きさ深さに戦慄しつつ引きつり笑いをして読むしかないという、「新人のデビュー作としては」とかの限定一切不要のとんでもない長篇だ。初読のときはもっぱらグロテスクな笑いの方に反応した感想文を書いてしまったが、作家が死と背中合わせの日常を生きていたことを知ると、また違う絵が透けて見える。劇中のひとつひとつの死の向こう側に作者は自分の遠くない運命を重ね合わせていたのだろう。それらは滑稽であり同時に痛ましい。


死について彼自身が生前遺した文章がすばらしい。すべての人のためにあらかじめ用意された弔辞。彼自身に手向ける言葉としても、これ以上のものはないだろう。
人が死んだとき、それを悼みとともに思い返すとき、ぼくらはどんな言葉を口にすればいいんだろう。ぼくはいままで、ずっとこの言葉を使ってきた。
ありがとうございました。
あなたの物語は、今の私の一部を確実に成しています、と。
あなたの言葉は、今の私の一部を確実に縁取っています、と。
かつてあなたの言葉が真実だと思った時期もあり、いまはその頃と考え方も変わってしまったけれど、しかしあなたの用意した道を迂回してここにたどり着けたことはやたり、幸福だったんです、と。
たぶん、これに神秘や神を付け足せば、宗教になるのだろう。
でもぼくは今のところ自分の死に怯える無神論者だから、天国も冥土も、故人に対する態度としては誠実じゃない。
だから、ありがとう、という。
あなたの物語を、ありがとう。
あなたの批評を、あなたの漫画を、
あなたの絵を、あなたのblogを。
ぼくは、ご冥福を、というよりは、「ありがとうございました」と送り出すのが、自分にはしっくりくるのだ。どんな死者でも。自分に「物語」を授けてくれた人に対して。
比類ない物語を世界に授けてくれた作家に、心からのお礼を言いたい。ありがとうございました。
ラベル:伊藤計劃 訃報
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2009年02月16日

十三番目の陪審員(芦辺拓)

出張時に購読。最近の和製ミステリとはどうにも相性が悪いのに懲りずに買ってしまった。芦辺拓は初めて読む作家だ。指定席に座って冒頭の文庫版への「はしがき」と、とんでもない大事故を描いた「プロローグ」を読んで「やべ、またつかんだ」と思った。きっと荒唐無稽な作品に違いないぞ、と。
食わず嫌いはよくない。約二時間半後、降車駅手前で四百頁あまりを読み終わった私は不覚にも感動を覚えていた。ミステリ史に残る大傑作であるとは言えないだろうが、いけるじゃん、これ。和物も捨てたものではない。先日の「スピードレーサー」に続いてまたもや悪くない誤算だった。

物語の舞台は陪審員制度が施行された日本。仕組まれた冤罪事件を巡る法廷ドラマなのだが、裁判に至る経緯も相当乱暴と言えば乱暴だし、陪審法廷でのやりとり、判決とどんでん返しの組み立ても、ちょっとどうよ、と言いたくならないでもない大胆な内容ではある。
だが、この作品を貫く作家の志に降参した。フィクションを通じてこれほどまでに熱く世直しのメッセージを語られるとは正直思っていなかったのだ(最初から社会派風の装いで語られていたのに)。論理の産物であるべき推理小説と、かくあるべき司法制度を描いたユートピア小説の両立がぎりぎりのところでなされている、そんな作品だった。

前のエントリでも書いたけど、私は自分が誰かを裁くという場に立ち会うのはできればごめんこうむりたいと思っている。どんな極悪人であれ、他人の運命を左右する立場になりたいとはまったく思わない。そういう意味では市民の司法参加を促す作者とは立ち位置が異なる。ただ、作品を通じて示された現在の司法制度への問題意識や弁護士の理想像などは大いに共感できるものだった。
この作家は少し前に「裁判員法廷」という作品も書いている。機会を見て読んでみようと思った。
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2008年12月15日

ひとつ目女(椎名誠)

椎名誠の異世界冒険譚が、実は異世界でなくて近未来の東アジアだった、というところに収まりそうなのは、やはり残念としか言いようがない。前に「砲艦銀鼠号」を読んで思ったことを一層強く感じた。

本作では現行の商品ブランドがそのまま登場し、現実の地名が舞台となっている。変わったのは背景だけでない。描かれている内容も以前のような冒険ではなく、曖昧な理由で逃避行を続ける男たちの煮え切らない物語だ。
作家のどのような心境の変化によるものかはわからないが、異態進化した魑魅魍魎たちが跋扈するあの魅力的なアドベンチャーワールドはもう戻ってこないのだろう。惜しいことである。
ラベル:椎名誠 SF
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2008年12月13日

最近読んだコミックなど

本屋通いの回数はずいぶん減ったが、気づくと机の周りにコミックの山ができていた。以下、必ずしも新刊ばかりではないけど印象に残ったものを。

まんが極道(2)(唐沢なをき) うーん。漫画家超残酷物語 のときには昇華されていた私的な恨みつらみが、このシリーズでは生に近いかたちで放出されているように思える。死んだり殺したり腐ったり狂ったりのバッドエンド(というのかな)が多く、笑えるけど後味が悪い。世間や編集者や親家族らと葛藤しながらギャグ漫画家であり続けることは大変なのだなあ、と長年の苦労をしのばざるをえない。
ところでアシスタントが全員女性(巻末のスタッフ名から判断しているため無保証)というのはちょっと意外ではあった。

ロボ道楽の逆襲(とり・みき) 比べてはいけないのかもしれないが、葛藤を経て達観の段に至るとこのような短篇集になるのだろう。余人の追随を許さぬスター・システムは貫禄すら感じさせ、あちこちに発表した作品をリミックスしてノンストップで読ませる手際も相変わらずうまい。偉大だ。
どうでもいいことだが、「伝道の書に捧げるマベビバラバラ」は、ここからまた「額縁」が始まるのかと勘違いしてしまった。パロディの毒に当てられてしまった感じ。

芸術新潮2008年11月号 特集の「手塚治虫を知るためのQ&A100」を読みたくて買った、という以前にこの表紙に惹かれた。漫画版スター・システムの元祖とも言うべき手塚のキャラクター勢ぞろい(折り込み付録もある)。懐かしさもあったが、お気に入りの人形に囲まれて眠る子供のような寂しさも同時に感じたのは勝手読みが過ぎようか。特集中には手塚が各キャラクターのギャラを査定したメモなどもあった。
手塚漫画で、人形やロボットに囲まれてひとり生きる男、という主題は一度ならず見かけたように思う。ほぼ半世紀働き詰めで死んでいった天才はやはり孤独ではなかったか。

HOTEL(Boichi) 版元が双葉社だったらA5判で出していただろうに、と残念に思う。ハードSFの読み手の少なさを反映したサイズ&価格なのだろうか。
韓国出身というBoichiは気宇壮大さにおいて星野之宣と手塚治虫のスタイル・精神を受け継いでおり、他方キャラクターの崩し方や「全てはマグロのためだった」のバカSF風味は現代漫画家としての融通無碍さも感じさせる。今後も期待したい作家だ。日本漫画は日本人だけのものではないのだ。
四十頁余の表題作「HOTEL-SINCE A.D.2079-」なども、ページ数がもっとあればもっと読み応えがある作品になっただろう。高い描写力とセンス・オブ・ワンダーという死後になりかかったキーワードを思い起こさせる構想力には敬服。オールカラー大判本でもよかったのになあ。もっとSFを!

世界の終わりと夜明け前(浅野いにお) 著者は27歳にしてすでにデビュー10年目という。それでこんなにタッチが完成しているんだからすごい。
Boichiとは対照的な何事もない(わけでもないか)日常を題材に淡々と物語を綴る、これもこれで現代漫画のひとつのあり方。収録作品の中では「日曜、午後、六時半。」が好みだった。青春群像もいいけど、やっぱり変化球がほしいところ。雑誌で拾い読みしていた意欲作「おやすみプンプン」も買わねばなあ。

きのう何食べた?(2)(よしながふみ) ゲイカップルのふつうの日常がこれほどまでに当たり前に描かれたものを読んだことはなかった。一組の人生のあり方として過剰に入れ込むでもなし突き放すでもなし、の絶妙なスタンスで主人公カップルを描いているのがよしながふみならではの真骨頂。
そして食生活の人生における比重を改めて見直す作品でもある。おいしい食べ物さえあれば困難な事態も全部解決!みたいな某長期連載漫画とはもっとも遠いところにある。人生の諸問題を解決するための料理ではないのだ。そのへんがまたよろしい。

さよなら絶望先生第15集(久米田康治) 途中何巻か買い忘れていたことに気づいた。まあいいか。どこから読んでもいい作品ではあるし。
最初の方の単行本を今読み返してみたら,時事ネタは半分以上意味がわからなくなっていた。元ネタ解説サイトも更新が止まっている模様。たぶん2ちゃんねるの漫画板で誰かが続けているとは思うけど。21世紀初頭の日本風俗史を語る上で欠かせない作品かもしれないので、篤志家の方々は引き続きがんばってください。

あー、あとオノナツメまとめ読みとかもしたんだったなあ。きりがないので今回はこのへんで。
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2008年12月11日

シフトする?自動車産業

カトラー:katolerのマーケティング言論「死んだふり?米国ビッグスリーが電気自動車で復活する日」を読んで、ホンダのF1撤退の報と重ね合わせた人は多かったのではなかろうか。すぐれて予見的な考察だった。
世界市場全体で3割減というかつて経験したことのない落ち込みという、現在進行している状況は単なる経済不況ではない。20世紀を支配した巨大な恐竜のような自動車産業が死に絶えつつあるプロセスを目撃していると考えるべきだ。もちろん、この世界から、ビッグ3やトヨタなど自動車メーカーが忽然と消えてしまうということではない。化石燃料を燃やして動力を得る「機械」としての自動車と、それを製造する産業としての20世紀型の自動車ビジネスが終焉を迎えるということだ。そうした歴史認識の下で今回の事態を見ていく必要がある。
水素を燃料とする燃料電池車が、これまでのところ次世代環境カーの本命と目されてきたが、果たしてそうだろうか。ガソリンを水素に代替えするという意味で、自動車メーカーが、現在の自動車ビジネスの延長上に考えやすかったというのが、水素カーが本命視された最大の理由だが、水素燃料を補給する水素ステーションの建設など、改めて社会インフラを整備しなくてはならず、実用化にはほど遠いことが明らかになってしまった。
それに対して、電気自動車こそ百年に一度のイノベーションとなる可能性が最も高いと考えている。電気自動車は、わかりやすく言えば、遊園地にある豆自動車やゴルフ場で動いているカートのことだ。プリウスのようにガソリンエンジンと電気モーターを複雑に切り変えて制御する高度な仕組みもいらなければ、水素を供給するスタンドもいらない。
自動車業界にとって、電気自動車の実用化は、魅力に映ると同時に、大きな脅威ともなる。というのも、ガソリン車から電気自動車にシフトすると、過去に蓄積された内燃エンジンの製造技術や高度なメカニックの制御技術の大部分は役に立たなくなるからだ。
本来、米国のビッグ3は、トヨタや日本の自動車メーカーと同様に燃料電池車(水素カー)を次世代の本命とし、現在の自動車産業のビジネスモデルを温存させたかったのだが、今回の経営危機でそのシナリオは崩れてしまった。代わって、技術的なハードルが低く、日本車に対しても競争力を発揮できる可能性のある電気自動車にシフトして、なりふり構わず失地回復に走るというのが、最優先の戦略になってしまった。
ビッグ3が電気自動車の実用化に踏み切ることになれば、世界の自動車業界、市場に決定的な影響をもたらすことになる。電気自動車は、モーターと電池と車輪から成るプラモデルのようなマシンなので、パソコンや家電と同じようにモジュール化とコモディティ化が一気に進行する。その結果、自動車産業では水平分業が進むことになり、垂直統合型のビジネスモデルで強みを保ってきた日本の自動車メーカーの優位性が失われていくことになるだろう。世界最大の自動車市場を抱える米国と世界最大の潜在市場を抱える中国が、電気自動車の普及という一点において利害の一致を見るようになったということを日本の自動車産業従事者は相当の危機感をもって見ておく必要がある。
最初から最後まで頷ける内容ばかりで、しまいには全文引用しかねないのでこれぐらいにしておこう。
業界の現状をレースにたとえれば大事故が起きてレッドフラッグが振られセ−フティーカーが出てきた頃合か。一度競争がリセットされようとしているのだろう。内燃機関の頂点を極めるべき存在であるF1レースの意義が急速に色褪せているのがわかる。
ホンダとしてももちろん経営難対策の意味合いもあったのだろうが、それ以上に脱・ガソリンエンジンの流れを逸早く感じ取って行動に移したという側面もあるに違いない。

カトラー氏も書いているように、電気自動車は交通インフラを一変させるだろう。個々の車両の運行状況をモニターして電子制御すれば事故は激減する(歩行者の飛び出しなどが原因の事故以外は根絶できよう)し渋滞もなくせる。有料道路で速度に応じて課金することも可能だ。高速道路自体不要になるかもしれない。
既に個人で駐車場をキープすることが難しくなっている東京23区からカーシェアリングなどを通じた電気自動車への全面的移行を開始(GPS制御などで運転可能エリアを限定することは可能だろう)し、都市圏から地方へと普及を進めていけば思ったよりも早く次世代交通システムへの移行は実現できるのではないか。

世界的には優位を保っている日本の自動車メーカーが今そうした変化を起こすことは難しいかもしれない。だが、新しい事業は余力のあるうちにこそ進めるべきである。二次補正だの解散するのしないので揉めている日本の今の政治にその先導役を期待するのは無理というものだろうか。道路族議員はもう要らない、交通についてのエキスパート政治家こそが求められている。

あとぜんぜん根拠なく言うけど、いずれソニーがこの分野に進出してくる可能性があるのではなかろうか。発熱回収問題ばかりが印象に残るが、これまでのリチウム電池事業で蓄積した制御ノウハウはきっと他分野で生きてくるはずだ。AIBOが自動車ブランドとしていつの日か復活する日が来たりはしないか、と想像する。
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2008年11月18日

あいうえおちゃん(森絵都、荒井良二)

ナンセンス絵本はいい。金融危機だとかリストラだとか何だとかで疲れている頭にはこういうのが効く。
言葉遊びの名手谷川俊太郎にこの類の著作は多いが、この「あいうえおちゃん」もなかなかである。文を書いた森絵都さんは直木賞作家らしいがこれまで未読だった。七五調の変形の4+4+5で「あ」から「わ」までにてきとうな言葉を充てていて、それはたとえば「き」ならば「きれいな きんぱつ きんたろう」というふうに乱反射ぎみのフレーズだったりするのだが、これに荒井良二描くところの脱力イラストがマッチして失笑必至、という構成だ。

aiueo.gif個人的に特に気に入ったのは「りこんの りゆうは りこんれき」。あるある、こういうの。苦笑いするしかない。
大人が読んでも面白いが、これはやはりひらがなを覚えたばかりの子供に与えるのがよろしかろう。最初は響きを楽しみ、いつの日か意味に気づいてはっとするのだ。遅効性の毒を楽しむところに読書体験の醍醐味があるのだと思う。手頃なクリスマスプレゼントにいいかもしれない。
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2008年11月14日

現代日本を舞台にしたスパイ小説は可能か

何か大上段に振りかぶった表題つけてますが羊頭狗肉なので気をつけるように。いつものことですが。

ここしばらく出張続きで、久しぶりにいろいろ本を読んでいた。iPhoneのバッテリーがあまり保たないため移動時間の娯楽にはやはり本が必要になる。地方の本屋の手書きPOPを愛でながら平積み本をさくっと拾って買うのも、また旅ならではの風情があってよろしい。
この「ジョーカー・ゲーム」もそうやって入手した本のひとつだ。帯にやたら各地の本屋の店員らの推薦文が載っているのは最近の流行なのだろうか。東京で売れているのかどうかは知らないが、本屋受けする本はさほど面白くないのでは、との予想に反して結構引き込まれて読んだ。

太平洋戦争前、日本陸軍内に極秘に創設されたスパイ養成組織(中野学校を髣髴させる、と思ったらやはり下敷きにしていたようだ)「D機関」を舞台とした連作短篇集。とにかくクールで異常に頭の切れる謎のリーダー結城中佐が、自ら育てた配下を手足のように操って敵を欺き目的を達成する、というスパイものの常道プロットをきちんと踏襲しており読者の期待を裏切らない。上質のエンタテインメント。
エーベルバッハ少佐に26人の部下がいるように結城中佐にも12人ほどの手下がいるらしいので、この連作はまだまだ続くとみた。乞続刊。
しかし、実際にこれだけ優れたインテリジェンスが戦前の日本軍にあればあんな馬鹿な戦争を起こしてあんな馬鹿な負け方はしなかったわけで、そのへんちょっと空しくもなる。続編があったとして、作中でどう折り合いをつけるんだかつけないんだか。

東西冷戦はジョン・ル・カレのスマイリーシリーズをはじめとする数多くの傑作スパイ小説を生んだが、翻ってこの時期のわが国を舞台にしたスパイ小説は質・量ともさほどないのでは、という印象がぬぐえない。いっぱいあったらごめん。
先日再読した、傑作として名高い結城昌治の「ゴメスの名はゴメス」も、現在の視点から評価するのはフェアでないかもしれないがスパイ小説というよりは異邦を舞台にしたハードボイルドの色合いを強く感じた。あ、景山民夫が中国に行かずに「虎口からの脱出」を書いた、というのは結城昌治へのオマージュかパクりだと思います。

さておき。
アメリカの属国と化してしまった戦後日本は、各国のスパイが跋扈する情報戦の場所貸しはできても、政府やら内調やら自衛隊やらが当事者としてプレイするのはどう考えても現実味乏しく興趣を著しく損なう。現代では「ジョーカー・ゲーム」に登場するような諜報戦はなかなか成り立ちにくいのではないか。
だが、とここで考え直す。実はそうでもないのかもしれない。というのも、日本の戦後六十数年はどうも物事概してうまくいき過ぎているような気がしてならないからだ。連合国に負けたのに国土が分割されることもなく、すぐに自治を回復したと思ったらたちまち急成長、繁栄のし過ぎだ。何か間違ってないか。何かの力が働いた結果ではないか。

となると当然陰謀論の出番だ。敗戦のその日から動き出した闇のエージェントたち。彼らは日米の政財界で様々な工作を繰り広げ、まず日本が米国の支配下に入ると見せかけて巧妙に国体を護持し続けることに成功した。押し付け憲法にいやいや従うふりをして再軍備のコストを省き、アメリカの犬であるように見せかけて力を蓄え続けたあげく、いまや主人を逆にコントロールするに至ったのである。じゃん。サブプライムローン破綻を契機とした百年に一度の世界的金融危機も実は裏で日本が糸を引いていたのであって、昨今の「日本買い」は戦後六十三年を迎えた日本の到達点なのであった。じゃんじゃん。
こういう前提であれば近現代を舞台にした和製エスピオナージュは可能かもしれない。自主独立を図る政治家を失脚させ、対米従属政策を推進するためにわが国のスパイたちが暗躍するのである。もちろん安保理常任理事国入りが失敗したのも国策なのだ。サッカーの日韓ワールドカップ共催もまた然り。世界に対しては常に貧乏くじを引いているように見せかけて、実質的に繁栄を勝ち取るよう日本の諜報部員らは日夜活躍しているのだ。偉大な町人国家の建設のために。

書いていて馬鹿馬鹿しくなってきたが、意図的かどうかはともかく外国から見たらこの方が結構実情に合っているような気がしないでもない。もともと目立ちたがり屋ではないのが日本人の気質だ。身の丈にあった国家運営をすべきだという集団的無意識が働いていても何ら不思議ではないと思う。
というような小説の前例が過去にあったかどうかは知らないが、ともあれ「ジョーカー・ゲーム」はいろいろと示唆的なのでみんな読むといいと思ったのだった。
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2008年11月04日

モダンタイムス(伊坂幸太郎)

「意欲作」という言葉はおおむね「失敗作」の婉曲表現であることが多いのだが、原稿用紙1200枚(という数え方に今やどれほどの意味があるのだろう?)の大作であるこの「モダンタイムス」もどちらかと言えば「傑作」よりは「意欲作」寄りの作品ということになるのだろう。不満を数え上げたら決して少なくはない。しかし、この長篇は魅力的だ。

伊坂幸太郎はあまりにも巧みな書き手なので、たぶん過去に試みた手法で傑作を書こうと思えば簡単にものすることができるはずだ。読者にしても多様な伏線が鮮やかに収束する「ラッシュライフ」や「重力ピエロ」の感動の再現を期待する向きは多かろう。だが、彼は組織と人間、巨大な社会システムと小さな一個人の生活を対比させるぎこちない物語を書くことを選んだ。その意気や佳し。

漫画週刊誌の連載ということで、毎回のストーリーにそれなりの起承転結を配置したのだろう。結果、総じて展開はめまぐるしく分厚い小説を読んだという重厚感には欠ける。荻原浩が先に朝日新聞に連載した「愛しの座敷わらし」にも似た印象を覚えたが、小説を読み慣れていない読者に配慮しすぎたのか、個々のシーンの書き込みが不足している感が否めない。媒体を気にせずにもっと自由に書いても読者はちゃんとついてきてくれるはずだ。
近未来が舞台だった「魔王」の約五十年先の話にしてはネット環境を巡る問題設定や描写は今とほとんどと変わらない。そもそも「魔王」の後日談がこのようなかたちで扱われていることに不満を覚える読者(おれだ)もいるだろう。凶暴な妻や理不尽な拷問男など、魅力的なキャラクターが数多く登場しつつも消化不足で終わってしまっている。まあ彼らはまた別の作品で活躍するのかもしれないが、しかし設定が五十年後ではなあ。などなど。
そして「魔王」同様、ラストにカタルシスはない。描かれているのはデススターに単機突入して核融合炉爆破していっちょ上がり、というわかりやすい「敵」ではないので当然かもしれないが。

といろいろ文句を書いては見たが、これらがたとえ瑕瑾であったとしても伊坂幸太郎が現代社会と真正面から勝負を挑んで創作を続けているというそのことの価値は決して減じない。大江健三郎や村上春樹を手本に、すぐれて現代的なエンタテイメント作家であり続けている伊坂幸太郎の活動には今後も目が離せない。「モダンタイムス」という題名は彼の創作姿勢をよく表すキーワードでもあると思う。

ところで全然関係ないが、ルパン三世「カリオストロの城」の時計塔内部での場面はあからさまに「モダン・タイムス」のイメージを借用していることに今更ながら気づく。人間性が機械に飲み込まれていく戯画を実写でやったチャップリンのすごさに改めて感服。
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2008年10月30日

「できそこないの男たち」(福岡伸一)は大変な名著なので今すぐ買うべきである

すごい本である。新書というフォーマット(もともとは光文社PR誌での連載)でここまで深い内容をあっさり語ってしまっていいものか、と思うが、むしろこの内容はこれぐらいあっさり語られなくてはいけないのかもしれない。たとえば天皇制(と明記されていないけど)についての要点がこれだけあっさり片付けられていいものだろうか。いや、いいのだ。という具合。確かな専門に根ざした視座があれば森羅万象はすべて解釈可能、という好例である。

愛読家のみならず、人間社会に興味があったり人間社会で生活したりしている人は必読。あと男はもう何が何でも必読。書かれていることはタイトル通りなのだが、タイトルからは想像できないぐらい深い本でもあるのだ。皆さんわかりましたか。
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2008年10月15日

何があったんだろう?

torinotameni.jpgユーゴ内戦をきっかけに編まれた一冊の詩集があった。絶版だったが、合唱曲になって広く親しまれたこともあって「復刊ドットコム」で再刊を望む投票が始まり、数年越しのファンの願いが実ってこの夏復刊の運びとなった。と思ったのも束の間、問題が起きて回収される羽目になったという。

以下は復刊ドットコムblog: 『鳥のために』のために(Googleキャッシュ)から引用。
山崎佳代子さんの『鳥のために』は、詩集版元として高名な書肆山田さんから1995年に刊行された詩集でした。絶版・品切で、しばらく入手できない状態にあったこの本への復刊リクエストが始まったのは2003年8月、ゆっくりと、しかし確実に票を集め、2005年の5月に100票が達成されました。本書は、旧ユーゴスラヴィア連邦の首都であったベオグラードに在住されていた著者が、うち続く民族紛争、内戦のさなか、異郷にあって、その悲しみを見続け、感受性のうちに凝らされた言葉を詩として紡いだ作品です。その後、さらに激動を続ける情勢の中、空爆下でも帰国を拒み詩作を続けた山崎佳代子さんの活動については、随筆『そこから青い闇がささやき』にも詳しいので、是非こちらもご覧になっていただければと思います。
さて、この『鳥のために』は復刊ドットコムで、一定数の予約が集まれば少部数でも復刊する『仮予約』企画で、復刊提案を行わせていただいた、詩集ジャンルとしては最初の作品となります。現代において、「現代詩」というジャンルが販売の上で難しいのは想像に難くないところですが、採算ラインをクリアするために設定された必要予約部数150部を、100部近くオーバーして復刊を実現できたのは、ファンの方たちの運動のたまものでした。特に『鳥のために』の詩に合唱曲として曲を書かれた作曲家、松下耕さんのサイトからの応援が大きかったものと思います。本書の復刊リクエストも、合唱曲としてこの作品を歌い、知っていた方たちからの多くの得票がありました。こうした色々な思いが集まって一つの作品の復刊が実現されていったのです。
「感受性のうちに凝らされた言葉」という表現はやや謎ではあるが、関心をそそるいい紹介文である。これは読むしかない、と思った。
読者の少ない現代詩は、新刊時点で買い逃したら古本で入手することは極めて困難だ。図書館になければ、思潮社が現代詩文庫にいつの日か収録してくれるのを待つほかない。
というわけで全国に生息数わずか数千人(推計値)の希少種である現代詩ファンの一人である私としては、世評の高い詩集のリバイバルを記念すべく一冊買おうともくろんでいた。九月には復刊のきっかけとなった合唱曲の演奏会も企画され(予定が合わずに行けなかったが)、詩人本人も来日しているという。盛り上がってるなあ。話題にされること自体希な現代詩の分野では久々にいい話だ。

……しかし、わずかな間に事態は暗転したらしい。復刊ドットコムのリクエスト投票ページに本を買いに行ったら、思いがけない掲示があった。

『鳥のために』 販売停止のお知らせ


復刊ドットコムにて発売を行っておりました詩集『鳥のために』につきまして、制作の過程において発行元ブッキングの手続きに重大な過誤があったことが判明いたしました。このためブッキングでは、復刊ドットコムを含め、個人、販売店様への同書籍の今後一切の販売を停止することといたしました。

また、著者の山崎様および元出版社である書肆山田様へご相談、協議の結果、既に販売した全冊を回収、購入者の方にはお支払いいただいた代金全額をご返金させていただくことといたしました。お買い求めいただいた皆様には別途ご連絡をさしあげますので、何卒、回収にご協力くださいますようお願い申しあげます。

本件にともない、著者の山崎様、書肆山田様、またご購入いただいた皆様に多大な御迷惑をおかけすることとなってしまいました。ブッキングより深く陳謝いたします。

何卒、ご理解、ご容赦いただき、今後ともご愛顧くださいますようお願い申し上げます。

2008年10月3日
復刊ドットコム
「重大な過誤」の中身は見当もつかないが、著者かオリジナルの版元にもかかわっていることなのだろうか。何にせよ復刊ビジネスはいろいろ難しいものらしいな、と思わせるステートメントではあった。
もしかしたら予想以上に引き合いが多かったのが徒となった、とか。いやいやまさかそんなことはなかろうが。

しかしこうなるとこの詩集を読めないのが残念でならない。合唱曲になっているのはごく一部だろうし。書肆山田で再版したりしないのかなあ。どなたか詳しい事情をご存じないでしょうか。
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2008年09月20日

セリヌンティウスの舟(石持浅海)

予想していたことだが、iPhone購入以降めっきり読書量が減った。通勤時間はブログやニュースサイトに費やされるようになり、結果として書籍や雑誌の購入費用が浮いたので、高い高いと揶揄される通信料もさほど気にはならない。こりゃ雑誌が潰れるわけだ。出版社も新聞社もメディアシフトはいよいよ最終段階に突入しつつあることを覚悟した方がよろしい。来年は業界激震の年とみた。

なので、たまに読んだ本が外れだと結構ダメージが大きい。前段とまるで違う話だな。いっぱい読んでいた頃はあきらめがつきやすかったが、今ではだめ本に費やした時間の比率が相対的に増大したため「時間と金返せ」感も比例して高まるのである。よくわからんがたぶんそういうことだ。

「セリヌンティウスの舟」は出張の折に機内読書用にと表紙の綺麗さ(浜辺に佇む五人の男女らしきシルエット)で手に取ったが、この文庫本の最大の価値はまさにこの表紙デザインであって、中身は単なる勝手読み推理大会であった。詳細は省くが、仲間のひとりだった女性の自殺っぷりが何だか変だと残された連中が一室に集まってあーだこーだ理屈をこねまくる予算の少ない二時間ドラマみたいな内容。会議の最中に本質から離れた議論で屁理屈をこくタイプを五人集めて座談させてみました、という印象だった。杉江松恋の解説にまんまとひっかかりました。

私は謎解きタイプのミステリには驚天動地の大嘘を期待しているのだが、裏表紙の解説で本書の美点として挙げられている「本格」の美しさというのは、障子の桟についた埃を見逃さない姑根性みたいなものなのだろうか。本当にもう自分は和製ミステリさんとは相性が悪すぎるようなのでもう会わない方がいいのではないかおつきあいしない方がいいのではないか、とまじめに五分ぐらい悩んだ。次からは悩まずに買わなくなるんだろうけど。出版社は覚悟(以下略
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2008年09月15日

銀齢の果て(筒井康隆)

文庫入りしたので購読。中学生の頃はハードカバーがほしくても手が出なかったので、書店で配っていた「これから出る本」を毎月二回欠かさず読んで筒井康隆作品の文庫入りを待ち焦がれていたなあ、と思い出す。いずれアルバイトをして金を稼ぐようになったら読みたい本は必ず単行本で買う、と自分に誓ったものだった。
前にも書いたが私にとって筒井康隆の新刊が宝物でなくなって久しい。本書もまた、そのことを改めて思い知らせてくれた。

政府の命によって殺し合いを強いられる一群の人々、という設定は高見広春「バトル・ロワイヤル」など過去にも例がある(本書中にも「皆さんにはこれから、殺しあいをしてもらいます」との台詞が出てくるが、これは一応先行作に仁義を切ったということだろう)が、それを老人同士にやらせたのが本作の趣向。だが、箱のような厚みで支えなしに立った「バトル・ロワイヤル」の紙数と異なり、主な舞台となる町内だけで59人の殺し合いを300ページに収めたのだから、どうしてもひとりひとりの描写は薄味になる。
そして山藤章二のイラストを邪魔に感じたのは初めてだ。人物の造形の弱さを補う意図があったのかもしれないが、登場人物らのコミカルで悲壮感もリアルさも感じさせない似顔絵は、文章に没入する妨げにしかならなかった。

もっとも現実感の欠如はページ不足やイラストばかりの責に帰するわけにはいかない。文章からしてもともとそういう書き方なのだ。荒唐無稽というのとも違う。おそらく、読者に現実さながらの老人の相互殺戮を想起させる物語を綴るというような営み自体に作者の方が飽きてしまったのだろう。言を費やさなくとも老人を大事にしない殺伐とした社会の戯画化というコンセプトだけ示せば事足りる、ということか。この後書かれた「巨船ベラス・レトラス」「ダンシング・ヴァニティ」も、アイデア先行で説明不足という印象は共通する。あるいはお年を召されて気が短くなり、丁寧に描写するのが面倒くさくなったのかもしれない。
本書の町内殺し合いの収束と後日談のくだりも、ひどく淡泊であっけにとられる。このようなかたちで収拾するしかなかったのだろうか、と思わされる。

つまらない本の話を書くのはつまらない。それでも筒井康隆の作品について何かを書きたくなるのは、過去の筒井作品があまりにもすばらしすぎたからだ。若い日のエネルギーが横溢した作品と比較してはフェアではないが、「東海道戦争」「トラブル」などの大量殺戮シーンが読者の目を瞠らせたことを思うと、名前のある死者の数こそ多いもののあまりにも薄味に過ぎる本作が同じ作者の手によるものだとは、何かの間違いとしか考えられない。

その一方で、筒井康隆が初期から一貫して無為の死にこだわり続けてきたことにもある種の感慨を覚える。「虚航船団」第二・三章はまさにその集大成だったが、上記の二短篇にしても「馬の首風雲録」にしても、この作家は常に虚無と向き合って傑作を物してきたのだ。少年時代の戦争体験が作風に大きくかかわっていることはおそらく作家本人のエッセイでも書かれていたと思うが(少なくとも「馬の首」のあとがきにはあったはずだ)、筒井文学の研究者にはぜひ扱ってもらいたいテーマだ。論文の題材を探しておられる文学方面の人はよろしく御検討の程を。
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2008年08月13日

フロスト気質(R.D.ウィングフィールド (著)、芹澤恵 (翻訳))

昨日買って通勤の帰りと寝るまでと今朝の行きと昼飯時間で上下巻完読。登場人物が寝ないで働いているんだから、読む方も寝る間を惜しんで勢いよく読むべきなのだ。いやあ面白かった。

このシリーズはやっていることは毎回同じと言えば同じだ。モジュラー型というもっともらしい呼称があるが、要するにイギリスの不景気な地方都市デントンで凶悪事件が次から次へと起こり(相互の関係はあったりなかったりする)、慢性的に人手が足りないデントン警察はてんてこ舞いの大騒ぎになる。
署長であるマレット警視(典型的ないけ好かない上司キャラ)からはとことん疎まれている存在のベテラン刑事ジャック・フロスト警部(だらしない中年やもめ)が心ならずも捜査を担当する羽目になるが、このフロスト警部がまた風貌同様とっちらかった性格で、捜査現場に行く途中で他の物を見つけたり別なことを思いついたりと落ち着きのないことこの上なく捜査方針の朝令暮改は当たり前、相方役の若い刑事も読者もあちらこちらに振り回され、未解決の事件群はもつれ合ったまま一向に解決しない……という展開だ。シリーズ四作目の本作も前三作とまったく同じ道を歩む。
だが、マンネリと感じさせないのはひとえに描写の的確さとスピード感の絶妙なバランスゆえだろう。通常あり得ないテンポ(小説なので当たり前だが)で次々起きる事件事故は大物あり小物ありでバラエティに富んでおりシチュエーションも様々。それらが見事な吸引力で物語世界に読者を取り込んでしまう。原文にどう書いてあるのか知らないが事件現場や同僚とのやりとりで「ちんぽこ」その他卑語を連発する不謹慎きわまりないフロストの口調(今回は好評に応えてか「ちんぽこ」大増量感強し)も大きな魅力だ。

シリーズの中では、ラスト数行でジグソーパズルの最後のピースがぴたりとはまる第二作「フロスト日和」が随一の出来栄えだと思うが、四作中最長の分量で警察側のキャラも増量された本作も読み応えは十分だ。
もつれた糸がほどけるのがやや早めで、また着地にちょっと難があった(これで公判を維持できるのか?)のが若干惜しまれるものの、久しぶりにミステリらしいミステリを読んだ、という充足感でいっぱい。上下巻の値段以上の価値は十分ある。遅い夏休みの読書には最適、徹夜して読まれたし。
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2008年08月03日

赤塚不二夫さん死去

長く臥せっておられたので亡くなったという事実そのものに驚きはなかったが、それゆえむしろ訃報に接したときの喪失感の今更ながらの大きさに驚いている。戦後漫画のイノベーターとして、赤塚さんは手塚・石ノ森に比肩する存在であり、あるいはさらに大きな仕事をしていたかもしれない、と改めて思った。記事はasahi.comのasahi.com(朝日新聞社):赤塚不二夫さん死去 「おそ松くん」「天才バカボン」から引用。もう少しタイトルの付け様がなかったのか、と思うが。
 「シェー!」「これでいいのだ!」「ニャロメ!」など数々の流行語を生み、「おそ松くん」「天才バカボン」などで笑いのブームを巻き起こした漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名赤塚藤雄)さんが2日、肺炎で死去した。72歳だった。葬儀の日取りは未定。喪主は長女りえ子さん。
 中国東北部(旧満州)生まれ。新潟県内の中学を卒業後に上京、化学薬品工場の工員をしながら漫画を描き、56年に貸本漫画「嵐をこえて」でデビュー。石ノ森章太郎ら多くの漫画家が住んだアパート「トキワ荘」で本格的な創作活動を始めた。(中略)67年、前衛的笑いの集大成「天才バカボン」と“反体制ネコ”ニャロメが登場する「もーれつア太郎」が連載開始。多くの作品がテレビアニメ化され、一大ブームを巻き起こした。02年に脳内出血で倒れて以降は、東京都内の病院で、意識が戻らないまま闘病生活を続けていた。(後略)
「反体制ネコ」のあたりがいかにも朝日らしいが、ギャグ漫画の革命児としての赤塚さんの大きさにもぜひ触れてほしかったと思う。

赤塚漫画の全盛期を同時代に体験したわけではないが、執筆姿勢も含めた破天荒ぶりはかの「武居記者」が書いた本に活写されている。赤塚不二夫以降、日本のギャグ漫画は「面白ければ何でもあり」の混沌に身を投じ、そして新しいギャグ表現に魅入られた漫画家は皆ある種の地獄を彷徨う羽目になる。主要な発表舞台となった週刊漫画雑誌という期日的にも表現的にも縛りの多い刊行形態が過負荷の原因であることは間違いないが、パンドラの函を最初に開けた赤塚不二夫の功績/責任が大きいことは言うまでもない。無論これは褒めているのだ。

幼い頃、貧乏だった我が家では漫画雑誌を買うことなど夢のまた夢で、私は新聞漫画と学習漫画を除くと小学校の途中までほとんど漫画無菌状態で育った。それを見かねたのかどうか、ある日叔父が持ってきてくれた「赤塚不二夫1000ページ」(和田誠・編で「話の特集」から出ていたアンソロジー)のコピーで、初めてギャグ漫画をまとめて読む機会を得た。
仰天した。えらいものを読んでしまった、と思った。何の予備知識もないところからいきなり頂点を読まされる身にもなってほしい。
とりわけ忘れられないのは「もーれつア太郎」の整形手術のエピソードだった。面白さがどこまで伝わるかこころもとないが、詳しい注釈抜きで書いてみよう。

結婚願望の強い「ココロのボス」(ギャングの頭領。タヌキの化け物のようなキャラ)が、女性にもてたい一心で町内の「福笑い病院」(院長はおそろしく破壊された顔かたち)で整形手術を受けることに。しかし院長はほかの女性(これもひどい面相)とデートに出かけるところで、八百屋のア太郎と雇い人のデコッ八に「きみらにまかせるニャーよ」と適当なことを言って消えてしまう。ほくそえむア太郎とデコッ八。
「高倉健みたいなかおになりたいのココロ!!」と手術室に躍る足取りで入ってきたココロのボスを、医者に化けた二人は鍛冶屋の要領でトンテンカーンとさらにひどい顔に改造する。激昂したボスと手下に捕まったア太郎とデコッ八も、仕返しにでたらめな顔に「シリツ」されてしまう。こうなると元の顔に直せるのは福笑い先生しかいない。
だが、福笑い先生はよせばいいのにデートで女性の顔をからかってあっさり振られる。傷心で帰ってきた先生を迎えた一堂は舞台の求愛シーンよろしく手を差し伸べて懇願するが……。いや、これはもう下手な説明を続けるよりも絵で見て貰った方がいいだろう(デジカメ複写補正につき画像が荒いがご容赦を)。akatsuka.jpg

小学生だった私はこの「わひゃーっ!!」にただ呆然とした。なんでこんなすごい場面を思いつけるのだろう。関係ない子分までまとめて顔面破壊されているではないか。なんなんだこれは。
今にして思えば、これは人体毀損漫画の走りだったのかもしれない。

もちろん赤塚不二夫のギャグ表現追究はこんなものでは済まなかった。
スターシステムの中でキャラクターは当初の設定から離れ作品の垣根も越えて様々な世界で遊んだ。「1000ページ」収録の「ア太郎」では、デコッ八と少女ロボットの悲恋を描いたSF仕立てのエピソードなんて泣かせたなあ。連載を重ねるごとに加速し暴走したグロテスク・ナンセンスはそれまでの漫画の約束事を破壊しまくり、「右手を怪我した」などと称してへろへろの線で描写(さらに左手も骨折したとかで「足で描いた」漫画になる)するなどメタ漫画もあっさりこなし、仕舞には筆名すら放棄して「山田一郎」にしてしまうなど誌面をはみ出してあらゆる実験を試みた。
杉浦茂もまたサイケデリックな傑作漫画の数々を生んだが、赤塚の場合複数のメジャー漫画週刊誌上でこれだけ野放図な表現を繰り広げたことが後に続く漫画家の大きな刺激になったことは間違いないだろう。たとえになっているかわからないが、ビートルズがポップスの分野を楽器編成や楽曲構成の桎梏から解き放ったのと同じことを漫画の世界でおこなったのが赤塚不二夫だったのではないか、と思う。

ろくに漫画を読み込んでもいない素人がやけに熱苦しく語ってしまって気恥ずかしい。だが、赤塚ギャグの斬新さと残したものの大きさはまだまだ過小評価されているように思えてならない。赤塚不二夫と彼の意志を受け継いだギャグ漫画の冒険者たちが正当な報いを得られることを願ってやまない。

追記(08/07):
告別式でのタモリによる弔辞が実に感動的だった。歴史に残る名弔辞と言っていい。巨星を送る代表として彼を起用した関係者の配慮に感謝したい。
各紙のウェブサイトで紹介されていたが、もっとも忠実に発言を拾ったと思われる産経版を引用して残しておく。数字は漢数字に書き直した。いつまで見られるかわからないが、YouTube動画も貼っておこう。⇒ノーカット版がアップロードされたのでそちらに差し替え。
 八月の二日に、あなたの訃報に接しました。六年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。
 十代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
 終わって私のとこにやってきたあなたは「君は面白い。お笑いの世界に入れ。八月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ」と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては「このやろう逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち「これでいいのだ」と。
 いま、二人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ」と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。
 平成二十年八月七日、森田一義。
追記(08/20):
横澤彪さんのコラムで裏話が出ていた。白紙を広げてもっともらしく読むふりをしていた、というのは本当だったらしい。それであの内容なのだから、もう本当に何といっていいのかわからない。すごすぎる。⇒タモリに聞いた 「赤塚弔辞」白紙のワケ: 横澤彪のチャンネルGメン69 :J-CAST テレビウォッチ
 「いいとも」の技術スタッフのお通夜が先日あった。そこでタモリに久しぶりに会った。
 タモリは、「シェー」などのギャグで知られる漫画家の赤塚不二夫さんの葬儀で弔辞を読み、その内容が良かったとか、実は手にした紙は白紙で「勧進帳」だったのでは、と話題になっていた。そこで聞いてみた。
 すると、やはり白紙を手にした勧進帳だったのだそうだ。タモリによると、紙に書いていこうと思っていたが、前の日に酒を飲んで帰ったら面倒くさくなった。「赤塚さんならギャグでいこう」と白紙の紙を読む勧進帳でやることにしたそうだ。
 弔辞は約八分にも及んだ。「赤塚先生」と呼び、そのマンガ作品との出会いから上京後に始まったつきあいを振り返った。そして「私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません」「しかしいまお礼を言わさしていただきます」「私もあなたの数多くの作品のひとつです」などと話した。とても真面目で思いのこもった内容だった。
 弔辞のニュースはテレビや新聞でも報じられ、中には文字起こしした全文掲載をしたスポーツ紙もあった。これをつまりもせずに話したのはすごいことだ。しかも何も見ずに。「しゃべる」ということに関して、頭の構造が普通の人とは違うのだろう。
 ところで、勧進帳のどこが「ギャグ」で「落ち」なのか。タモリは言った。「オレのマネージャーの名前がトガシ」。
 「勧進帳」は、山伏姿の義経一行を関所から逃げのびさせるため、弁慶が「本物」と思わせるよう白紙の勧進帳を読み上げるなどして危機を脱する話だ。このとき関所の通過を許すのが富樫(トガシ)左衛門だ。
 なるほど。

  弁慶も シェーと驚く すごいワザ
あと、弔辞の文字起こしについて、「重苦しい陰の世界から解放され」は「重苦しい意味の世界から解放され」ではないか、との指摘がなされていた。⇒ex.www.さとなお.com(さなメモ): 故人にだけ通じる密室芸
確かにその方がナンセンス漫画の巨匠に捧げる言葉としてはふさわしいと思う。ということで引用も修正しておく。
posted by NA at 02:19| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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