2008年04月23日

久々に東混を聴く

表題に芸がないね。とにかく東京混声合唱団の演奏を聴くのは何年ぶりだろうか。第38回サントリー音楽賞受賞記念コンサートを聴きにサントリーホールへ赴く。
おお、そういえばヘンツェのオペラ「ルプパ」を同じサントリーホールで聴いて以来ではないか、と着いてから思い出す。もっともあんときゃ合唱役で八人しか出演していませんでしたが。単独の演奏会ではいつ以来だろう。八月のまつりの「原爆小景」を紀尾井ホールで聴いたのは何年前だったか。
などと回想に浸っていたのは、仕事が延びて最初のステージのマリー・シェーファーのシアターピース「自然の声」に間に合わなかったからだ。音とモニター映像からするとそれなりに調的でそれなりにゲンダイっぽい感じ。まあ聴かなくて後悔するタイプの曲じゃなさそう、と早々に興味を失う。

西村朗にやられた。昨年初演された、混声合唱と独奏二十絃箏のための「先帝御入水」。平家物語の壇ノ浦合戦における安徳天皇の入水(巻第十一「先帝身投」)を題材に、広い音域にわたって心かきむしる音色を奏でる「独奏」二十絃箏(吉村七重好演)と、朗読を交え呻きや嘆きに満ちた合唱による音響を融合させた作品だ。尼が数え年八歳の幼帝に「波の底にも都のさぶらうぞ」と言い聞かせる有名な一節が、引き裂かれるような音楽によって新たな悲哀と共に再現される。
まったく何という音楽だろう。こんなに人を不安定にさせるなんて。
光市母子殺害事件差し戻し審判決の日に子供の死を扱った音楽を聴いたのも何かの縁だろうか。私が普段の精神状態でなかったことは間違いない。生と死の意味にセンシティブになっていた耳にこの音楽は剥き出しの悲しみと未整理の当惑をぶつけてきた。東混以外の合唱団に歌われる機会はまずない曲だろうから、たぶんこの曲にきょう出会えたのはよかったのだ、と思うことにする。

二十絃箏という楽器自体はまだ作られてから40年経っていない、いわば現代の楽器らしい。⇒二十絃箏・二十五絃箏
その表現力たるや大変なもので、たぶんピックアップつけてノイズミュージックに使った例もあるのでは、と思えるほど楽音から雑音まで幅広い表現力を披露していた。ゆめゆめ邦楽を軽んじてはいけない。

インターミッションの後で演奏された、私の中では剛腕ピアニストとして評価の高い(勝手だね)野平一郎の「混声合唱のための幻想編曲集 日本のうた」はちょっと肩透かし。わらべ唄に唱歌にソングに浄瑠璃という題材でそれぞれ料理の仕方も違って、でもだから何なの?という印象しか残らなかった。「ずいずいずっころばし」を頑張って歌わなくてもいいじゃん。「卯の花」の口三味線は楽しく、最後に粋な柝の音がチョーンと入る。野平さんのサービス精神ということか。

トリを飾った柴田南雄「追分節考」は、東混十八番のレパートリーなのでひたすら楽しく鑑賞。ずいぶんと久しぶりだ。柴田南雄のシアターピースは「宇宙について」「萬歳流し」「修二會讃」「人間と死」などなど、学生時代に結構いろいろ聴いていたことを思い出す。もちろん指揮者はこの日同様田中信昭だった(この日の前半2ステージは松原千振)。
いい声で馬子歌を朗唱しながら客席を遊弋する男声陣の位置が近すぎて、舞台上の女声のヴォーカリーズがほとんど聞こえない瞬間があったが、それもまたシアターピースならではの楽しみであろう。この曲をよくこだまする山間で大人数で演奏できたら楽しかろうなあ(移動は大変だけど)、と空想する。

アンコールは武満徹の「さくら」と学校公演の定番と思しき「汽車ポッポ」だった。これまた実演は久しぶり。「さくら」は岩城宏之のディスクよりずいぶん速い感じで、膨張する武満トーンをもっとゆっくり聴かせろ、という気にさせられるが、これが信昭流なのだろう。速すぎて少人数ゆえの声の薄さが露呈する瞬間があったのがちょっと残念。

むかしの東混は、音程は正確なのかもしれないが声楽的に変な声を張り上げるテノールの人とかがいたりして、上手ではあるが決して聞き惚れることはない団体だった。素人が生意気言ってすみません。
何年ぶりになるのかわからないが今回の演奏会では、ステージ上のメンバーがだいぶ若返っている(当然だろうけど)こともあってか、かつてとは大きく異なりまとまりのよいアンサンブルになったのではなかろうか、という印象を持った。豊かな和声や表情の大幅な変化の付け方などはよくある大編成馬鹿うま市民合唱団に一歩譲るものの(でもそういう団体は今でも健在なんでしょうか)、合唱団としての総合性能は昔日よりも向上していると感じた。もっと難度の高い曲をやればまた違うのだろうか。
田中信昭は老けてなかった。というか私が学生だった頃も既にいい感じの爺さんだったはずなのに、そこで老化が止まってしまったとしか思えない。がくがくとした不自然な振り方も含めて往年のままだったように思う。

東混は創立五十二年になるそうな。長く続けるだけでえらいわけではもちろんないが、ちゃんと実質の伴った活動を続けての半世紀なのだからこれは素直に賞賛できる。
声という楽器はやはり特別だ、と西村作品を聴いてしみじみ思った。単なる「音」から意味を持った「言葉」の間を自在に行き来して様々なレベルで聴き手の情感を揺さぶることができる、ある意味万能の表現力を活用できる素材なのだ。
合唱人口は減る一方だが、どうか東混と東混に新作を提供する作曲家たちの前途に光がありますように。
posted by NA at 02:53| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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