2007年09月29日

裸者と裸者(打海文三)

自室救出計画で崩落した本の山を解体していくうちに発掘した作品。上下巻を買ったまま数年放置していたんだから救われない。
ページ数はあったものの一気に読めてしまった。救いのない展開に、頭の中が大いにささくれ立った。

世評の高かった「ハルビン・カフェ」よりはこちらの方を好ましく感じたのは、ひとえに読みやすさのためだろう。内乱状態の近未来日本を舞台にしたドラマという共通項はあるものの、多様なキャラクターや勢力が入れ替わり立ち代わりぐちゃぐちゃに入り乱れて陰謀策略の限りを尽くす「ハルビン・カフェ」に比べると、視点が固定されているため混乱が少ない。
「裸者」も登場人物はやたらに多いが、ふたりの主人公(片方は双子だから三人ということになるのかもしれないが、事実上同一人格として扱われている)がそれぞれ上下巻の主役を務めるという構成が、キャラクターへの感情移入を容易にしてリーダビリティの向上に大きく寄与している。

内戦に陥った日本における少年らの物語と言うと佐藤亜紀「戦争の法」を思い出すが、佐藤作品が大人と子供の境界線で戦争に巻き込まれた少年らが戦士として成熟していく過程を巡る悲喜劇であるのに対し、打海作品はどうやら「成長」を巡る物語ではない(既に出ている続刊「愚者と愚者」はそういう話になっているのかもしれないが)ようで、趣は大きく異なる。
未成年の少年少女である主人公をあらかじめ圧倒的に多くのものを奪われた孤児として設定したため、教養小説の必須成分とも言える「成長の過程で代償に何かを失う」という要素は希薄だ。彼らはほぼ最初から完成した戦士として現れ、自分と世界の関係について疑うことを知らない。それゆえ逡巡することなくポジティブに殺しや略奪に手を染め奔放な性を享受する。

古川日出男の陽性な乱暴さともまた違う、荒涼感漂う世界の造形がこの作家の持ち味なのだろう。決して好きにはなれないが気にはなる、そんな感じだ。続刊は早くも12月に文庫化されるらしい。買うかどうかは部屋の片付き具合次第。

追記。下巻で戦闘の舞台となっている多摩地区について土地勘があるのが、地名の頻出にもかかわらず読み進められた一因だろう(挿入された地図の駅名表示に間違いがあることにも気づいた)。舞城王太郎が描く調布とはまた違った多摩川沿いの景色。個人的にはもっと「らしさ」が出ていてほしかったんだけど。
もしかしたら多摩ニュータウンに展開するソープ「クリスタル」の街道沿いの大看板が作者の妄想を刺激したのだろうか。
タグ:打海文三
posted by NA at 23:45| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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