2009年10月12日

困った映画「しんぼる」


「要らないからあげる」と知り合いから「しんぼる」のチケットが回ってきた。天才松本人志の映画に対してなんたる侮辱、と怒らなかったのは、前作「大日本人」を観ていたからだ。そして今作の風評(というかほとんど悪評)も聞いてはいた。
もっともただでなら行ってもいいか、と思ってチケットをもらったのが大間違いではあった。こういう困りものの作品を野放しにしていていいものだろうか。

人生の時間は限られている。93分を費やすましな選択肢は他にいくらでもあるはずだ。果たして劇場内には休日の夜にもかかわらず(休日の夜だから?)一桁しか観客がいなかった。我が県の民度にはかねて大いに疑問を抱いてはいるが、この映画については順当な反応だと思う。

「大日本人」を観ていなかったならばあるいはもう少し楽しめただろうか? 松本人志の興味はどうやら壮大な「間の悪さ」の現出にあるらしい、という前作に対して抱いた感想は間違っていなかったようだ。
二つの世界(メキシコのプロレスラー一家の物語と謎の白い部屋に閉じ込められた男の物語)が並行して描かれて終幕近くでクロスする、という、まあよくある手法ではあるが興味を繋ぐやり方としてはそれなりに有効な構成をこの映画は取る。だが、構図が明かされたときに待っているのは失笑だけだ。
ちなみに「大日本人」での特撮ヒーローの活躍は仮面レスラーに置き換えられ、前作のかわいそうな祖父の役回りは「しんぼる」ではルチャドールの小学生の息子に振り返られている、というしょうもない類似点を指摘するぐらいしか書くことがない。メキシコパートは真相が明らかになるまではそれなりに観られるシーンが作られていた(プロレスの試合場面はなかなかいい感じだったのだ)だけに、オチのつけ方がまったくどうにも納得できないのだが、所詮そういう映画ではないのだから仕方ない。咥えタバコで乱暴な運転をする修道女(ルチャドールの娘)はなんで物語に絡んで来ないのか、などと怒ってももうまったく本当にどうしようもないのだ。

前作の感想にも似たようなことを書いたが、松本人志が既存映画と違う感触を表現することを強く指向しているのはわかる。だが、それに意味があるかどうかはまた別の問題だ。少なくとも私は用意周到に「がっかり」を演出されて楽しめるほど人間ができてはいない。
白い小部屋での独り芝居として展開する松本パートがもう少し面白ければまた別の意味を見出すこともできただろうが、残念ながら監禁状態からの脱出などの描写に目新しさはなく、ひねりの少ない凡庸な進行に終始したと言わざるを得ない。
どちらかと言えば、終盤直前までモキュメンタリー形式を取っていた「大日本人」の方がまだ映画らしかったと思う。映画のふりをした何物かが二作続いたわけだが、さすがにこの路線での三作目はあり得ないだろう。吉本興業が何らかの理由で映画部門で赤字を量産したいか、松本人志の評判を地に落としたい理由でもあるのならば別だが。

人から貰った券で観てきてなお文句を言うとは私もずいぶん器が小さいが、繰り返す。人生の時間にはもっとましな使途があるはずだ。この映画のことは忘れていい。
posted by NA at 01:45| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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