2008年12月28日

二台のピアノと打楽器のための協奏曲(バルトーク)

遅ればせながら購入。ドイツグラモフォンのブーレーズ指揮によるバルトークコレクションはこれで最後だという。主要作品は網羅し、その上「村の情景」「カンタータ・プロファーナ」などなかなか実演に触れにくい作品もいろいろ取り上げてくれていたのでありがたかったが、さすがに全作品はやらんよなあ。まだオーケストラ伴奏歌曲などで面白いのが残ってはいたので残念ではあるが。

というわけでこのディスクの目玉はやはり「二台のピアノの打楽器のためのソナタ」の協奏曲版。以前都響定期で聴いたときにも生演奏よりも録音の方が効果を出しやすそうな曲だな、と思ったが、案に違わず録音のメリットを最大限生かして鳴るべき音は全部きっちり拾いまくり作曲者の工夫を余さず聴かせるいつものブーレーズ流で実演以上の体験をさせてくれた、というのが感想。というか存外面白い曲ではないか、これは。

ピアノと打楽器はそれぞれやたらでかい音が出るので、奏者が四人も集まろうものならばそれだけで大騒音源である。か弱いオーケストラでは到底太刀打ちできないのだが、そこはやはりアンサンブル演奏ではこの人を措いてないであろうピエール=ロラン・エマールを筆頭にかっちり合わせるソリスト四人を大御所が完全に統率している。むしろ管弦楽の方がゲスト奏者として振る舞っているかのようにも思える。
珠玉の作品である「ソナタ」に余計な音を付け加えたとして一段下に見られがちな「協奏曲」だが、その付け加えられた管弦楽の面白さが浮き立ってくる、そんな演奏になっている。忍び足で一歩ずつ前に進み、そっと開いた扉から突然空間が飽和するほどの光線が溢れ出るかのような前奏に、オペラ「青髭公の城」の一場面が二重写しになるのを感じた。弦の常軌を逸したグリッサンドやスフォルツァンドに重ねられた木管のハーモニー、クライマックスでここぞと咆哮する金管群など、単色のデッサンのところどころに唐突に原色を重ね塗りしたようないい意味での違和感(しかし元の絵は損なわれていない)が味である。繰り返しになるが、独奏四人を含めた全体のアンサンブルの見事さは筆舌に尽くしがたい。
これから「ソナタ」を聴くときに物足りなくならないかが心配になるぐらい鮮やかな演奏だった。

カップリングは若い日に書いた「ヴァイオリン協奏曲第一番」と最晩年の「ヴィオラ協奏曲」の遺作二曲。
前者はそもそも作品として未熟で、とりわけ音によるさまざまなほのめかしが盛り込まれた二楽章の意味はもはや誰にもわからない。独奏のギドン・クレーメルは熱演ではあるが、かつて五嶋みどりの可憐な演奏にノックアウトされた私としては、一楽章の寄る辺なきポリフォニー(後年の入念に構築されたフーガとはまるで違う世界)はもっと不安定でよかったのではないか、と思ったりもした。ブーレーズはよく整理して演奏していたが、それ以上の意味をこの作品に与えるほどの内容ではなかったと思う。

対してヴィオラ協奏曲はすばらしかった。曲の冒頭がどこかを判別するのも困難なドラフトから別の作曲家が纏め上げたという成り立ちの作品だけあって、バルトークらしくないところやオーケストレーションが希薄に過ぎるところが頻出する問題作を、よくここまでうまくメイクアップしたな、という印象を受けた。あるいはブーレーズ本人が加筆したのだろうか。散漫な一楽章、ピアノ協奏曲第三番に似すぎている二楽章、短すぎる三楽章のいずれもが、かつてない角度から掘り下げられ新たな光を放っている。独奏のユーリ・バシュメット(しかし毎度のことながらディスク一枚にすごい面子だね)は渋い好演。低音の魅力は言うに及ばず、広い音域にわたる高速アルペジオもヴァイオリンさながらに軽々とこなしていた。晩年のバルトークが目指した音楽の一端が六十余年を経てようやく実現されたような気がする。
最後の作品の決定版的演奏。ブーレーズがシリーズの締めくくりでこの曲を取り上げたのには、そんな意味もあるのかもしれない。
posted by NA at 01:17| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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