2008年11月04日

モダンタイムス(伊坂幸太郎)

「意欲作」という言葉はおおむね「失敗作」の婉曲表現であることが多いのだが、原稿用紙1200枚(という数え方に今やどれほどの意味があるのだろう?)の大作であるこの「モダンタイムス」もどちらかと言えば「傑作」よりは「意欲作」寄りの作品ということになるのだろう。不満を数え上げたら決して少なくはない。しかし、この長篇は魅力的だ。

伊坂幸太郎はあまりにも巧みな書き手なので、たぶん過去に試みた手法で傑作を書こうと思えば簡単にものすることができるはずだ。読者にしても多様な伏線が鮮やかに収束する「ラッシュライフ」や「重力ピエロ」の感動の再現を期待する向きは多かろう。だが、彼は組織と人間、巨大な社会システムと小さな一個人の生活を対比させるぎこちない物語を書くことを選んだ。その意気や佳し。

漫画週刊誌の連載ということで、毎回のストーリーにそれなりの起承転結を配置したのだろう。結果、総じて展開はめまぐるしく分厚い小説を読んだという重厚感には欠ける。荻原浩が先に朝日新聞に連載した「愛しの座敷わらし」にも似た印象を覚えたが、小説を読み慣れていない読者に配慮しすぎたのか、個々のシーンの書き込みが不足している感が否めない。媒体を気にせずにもっと自由に書いても読者はちゃんとついてきてくれるはずだ。
近未来が舞台だった「魔王」の約五十年先の話にしてはネット環境を巡る問題設定や描写は今とほとんどと変わらない。そもそも「魔王」の後日談がこのようなかたちで扱われていることに不満を覚える読者(おれだ)もいるだろう。凶暴な妻や理不尽な拷問男など、魅力的なキャラクターが数多く登場しつつも消化不足で終わってしまっている。まあ彼らはまた別の作品で活躍するのかもしれないが、しかし設定が五十年後ではなあ。などなど。
そして「魔王」同様、ラストにカタルシスはない。描かれているのはデススターに単機突入して核融合炉爆破していっちょ上がり、というわかりやすい「敵」ではないので当然かもしれないが。

といろいろ文句を書いては見たが、これらがたとえ瑕瑾であったとしても伊坂幸太郎が現代社会と真正面から勝負を挑んで創作を続けているというそのことの価値は決して減じない。大江健三郎や村上春樹を手本に、すぐれて現代的なエンタテイメント作家であり続けている伊坂幸太郎の活動には今後も目が離せない。「モダンタイムス」という題名は彼の創作姿勢をよく表すキーワードでもあると思う。

ところで全然関係ないが、ルパン三世「カリオストロの城」の時計塔内部での場面はあからさまに「モダン・タイムス」のイメージを借用していることに今更ながら気づく。人間性が機械に飲み込まれていく戯画を実写でやったチャップリンのすごさに改めて感服。
posted by NA at 03:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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