2008年09月15日

銀齢の果て(筒井康隆)

文庫入りしたので購読。中学生の頃はハードカバーがほしくても手が出なかったので、書店で配っていた「これから出る本」を毎月二回欠かさず読んで筒井康隆作品の文庫入りを待ち焦がれていたなあ、と思い出す。いずれアルバイトをして金を稼ぐようになったら読みたい本は必ず単行本で買う、と自分に誓ったものだった。
前にも書いたが私にとって筒井康隆の新刊が宝物でなくなって久しい。本書もまた、そのことを改めて思い知らせてくれた。

政府の命によって殺し合いを強いられる一群の人々、という設定は高見広春「バトル・ロワイヤル」など過去にも例がある(本書中にも「皆さんにはこれから、殺しあいをしてもらいます」との台詞が出てくるが、これは一応先行作に仁義を切ったということだろう)が、それを老人同士にやらせたのが本作の趣向。だが、箱のような厚みで支えなしに立った「バトル・ロワイヤル」の紙数と異なり、主な舞台となる町内だけで59人の殺し合いを300ページに収めたのだから、どうしてもひとりひとりの描写は薄味になる。
そして山藤章二のイラストを邪魔に感じたのは初めてだ。人物の造形の弱さを補う意図があったのかもしれないが、登場人物らのコミカルで悲壮感もリアルさも感じさせない似顔絵は、文章に没入する妨げにしかならなかった。

もっとも現実感の欠如はページ不足やイラストばかりの責に帰するわけにはいかない。文章からしてもともとそういう書き方なのだ。荒唐無稽というのとも違う。おそらく、読者に現実さながらの老人の相互殺戮を想起させる物語を綴るというような営み自体に作者の方が飽きてしまったのだろう。言を費やさなくとも老人を大事にしない殺伐とした社会の戯画化というコンセプトだけ示せば事足りる、ということか。この後書かれた「巨船ベラス・レトラス」「ダンシング・ヴァニティ」も、アイデア先行で説明不足という印象は共通する。あるいはお年を召されて気が短くなり、丁寧に描写するのが面倒くさくなったのかもしれない。
本書の町内殺し合いの収束と後日談のくだりも、ひどく淡泊であっけにとられる。このようなかたちで収拾するしかなかったのだろうか、と思わされる。

つまらない本の話を書くのはつまらない。それでも筒井康隆の作品について何かを書きたくなるのは、過去の筒井作品があまりにもすばらしすぎたからだ。若い日のエネルギーが横溢した作品と比較してはフェアではないが、「東海道戦争」「トラブル」などの大量殺戮シーンが読者の目を瞠らせたことを思うと、名前のある死者の数こそ多いもののあまりにも薄味に過ぎる本作が同じ作者の手によるものだとは、何かの間違いとしか考えられない。

その一方で、筒井康隆が初期から一貫して無為の死にこだわり続けてきたことにもある種の感慨を覚える。「虚航船団」第二・三章はまさにその集大成だったが、上記の二短篇にしても「馬の首風雲録」にしても、この作家は常に虚無と向き合って傑作を物してきたのだ。少年時代の戦争体験が作風に大きくかかわっていることはおそらく作家本人のエッセイでも書かれていたと思うが(少なくとも「馬の首」のあとがきにはあったはずだ)、筒井文学の研究者にはぜひ扱ってもらいたいテーマだ。論文の題材を探しておられる文学方面の人はよろしく御検討の程を。
posted by NA at 03:07| 東京 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
きょうめちは銀齢も先行すればよかった?
Posted by BlogPetのめち at 2008年09月20日 13:29
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/106572110
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック