2008年08月28日

今の新聞ってすごく無駄じゃない?

別に中身の記事の話ではない。ま無駄な記事も散見、というよりはもっと多い頻度で見られますが。
あれだけの内容の情報を印刷して配布するのにあれだけの紙やらエネルギーやらを使っちゃっていいのか、というところにふと疑問を覚えたのだ。我ながら突然ですが。

もちろん新聞業界側もそのへんは先刻承知百も承知で、古新聞回収システムを数十年前から営々と築き上げて「だから無駄じゃないよ」と抗弁できる準備はしてきたのだろう。しかし一日二回の大量高速印刷に必要なエネルギー、配達のためのトラック輸送やバイクの燃費の高騰も含めて考えると、ニュースペーパーであるところの新聞の印刷・配達はやっぱり総じてエコロジカルではない、と思う。全国の新聞を合計すると2007年10月現在で日に52,028,671部(「新聞の発行部数と世帯数の推移」、新聞協会経営業務部調べ)出ているそうだが、これほど大量の紙を消費していて「民主主義を維持するための当然のコスト」といつまでも言っていられるとは思えない。
そろそろ潮時ではなかろうか。

紙文化全般を否定するつもりはない。情報密度が高くて再読に値するものは今世紀も引き続き紙でもお世話になりたい。だが、新聞や雑誌のように保存性の低い情報を載せる媒体として紙を使い続けるのは、たぶんそう遠くない時点で採算に合わなくなるのではなかろうか。パルプの原料となる樹木を計画的に植林して資源の再生産に勤しんでいるからいいのだ、といういいわけもいずれ通じなくなると思う。

紙ゆえの可搬性の高さ、広い面積を使った一覧性が新聞の取り柄であることは認める。だが、それらももはや絶対的なアドバンテージではなくなってきている。携帯端末でニュースはおろか小説すらも読んでしまう世代がまもなく社会の中枢を占めるようになる。電車の中で紙を広げる習慣がいずれマナー違反と見なされる日も遠くないかもしれない。

新聞各社はこれまで、いい印刷物を作るためにそれこそ二十四時間鎬を削って争ってきたことだろう。その努力が無駄だったとは言わないが、おそらくそこで価値の転倒も起きているのではないか。つまり、人に情報を伝えるための手段であるはずの活字印刷それ自体が目的化しているような。
新聞社の本質はコミュニケーション企業であって印刷業ではない。それに気づいて脱・紙を最初に果たした新聞社が、おそらく次代のメディアの覇者になるのではなかろうか。覇権を握るのは新聞社でなくて通信社はたまたテレビ局かもしれないが。

……ということを、ネットをぶらぶらしていていきなり脈絡なく思ったので書いておく。毎日新聞はネットを敵視している場合じゃないと思うんだけどなあ。
タグ: 新聞
posted by NA at 02:24| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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