2010年08月13日

最高のキーボード・アルバム「i」と最低の男の思い出


初めて聴いたのは高校のときだったろうか。「とにかくすっげえうるさいアルバムがあってさあ」と洋楽通の友人が押し付けるように貸してくれたのが、パトリック・モラーツの「i」(Story of i)だった。

パトリック・モラーツ(モラツと呼ばれることもあったような)については一時期イエスのキーボーディストだった人という最低限度の認識しかなく、だいたいプログレッシブロック自体あまり好きではなかったので、彼が参加した「リレイヤー」自体も当然ながら聴いていない。1980年代中頃は音楽好きの間でもプログレなんて言ったら笑われる、そんな時期だった。

レコードジャケットとスリーブの字の多さに辟易して、借りてから実際に聴くまでには若干日にちがあいた。ようやく針を落としたのは、そろそろ返そうかな、と思った頃だったと思う。
驚いた。リオ・デ・ジャネイロのパーカッショングループをフィーチャーしたサウンドは前評判通りのうるささだったが、喧騒の中を縫って紡ぎだされた音数の多いミニムーグのソロの軽快さ、五線を自在にまたぐベンドホイールの巧みなコントロール、そして調性はもちろんテンポと拍子の不断の変化を交えながら超ノリのいい楽曲の見事な構成。多種多様なキーボードサウンドをごちゃ混ぜにするわ、現実音ノイズをエフェクト処理するわ、子供と大人の合唱は使うわ、リード旋律を多重録音しまくるわでぱっと聞きにはおもちゃ箱をぶちまけたような騒ぎだが、その実は整然とした構造の中でのドラマだったのだ。筋の通った狂気とでも言おうか。

巷にはラテンのリズムを取り入れたフュージョンが流行っていたが、この音の前にはすべてが色あせた。もはやプログレお得意の変拍子はただの跛行リズムでしかなかった。「i」においては、旋律が変拍子を希求し変拍子が美しい螺旋のような旋律を呼び込むのだ。これを奇跡と言わずして何と呼ぶ。
多少鍵盤を弾いていた者としては悔しくもあった。今からどう努力したところで、モラーツの指使いとベンドホイール扱いにはかないっこない。演奏者としてのおのれの非才に早々に見切りをつけてDTMの方に向かっていったのは、あきらかにこのアルバムのせいだ。
もちろんうまい鍵盤奏者は星の数ほどいる。でも、私が好きで創りたい種類の音楽を私が想像する以上にうまく創り弾いている人が現にこの世界にいる、ということを正面から認めざるを得なかったのはこのときが初めてだった。今思えばプロの音楽家になることを諦めた瞬間だったのだろう。

返却先延ばしを繰り返したが、残念ながらレコードは返さなければならなくなった。46分テープ(マクセルのは多少長めに録れた)に落として泣く泣く返した。同じレコードはどこの店に行っても見当たらなかった。店頭にあるときに買っておかないと手に入らないレコードは多かった。昔はそれが当たり前だった。テープは繰り返し聴けば聴くほど劣化する。でも繰り返し聴いた。何人にもダビングして配った。パトリック・モラーツには一銭の収益にもならなかったが、熱心に布教活動した。

会社員になってからようやくCD化された「i」を買った。発売予定を知ったとき、どれほどうれしかったことか筆舌には尽くしがたい。
付き合っていた娘のアパートに持って行って無理やり聴かせた。いかにすごいアルバムであるか熱弁を振るったが、彼女はテクノポップが好きだったのであまり趣味には合わないようだったが、それでも「ちゃんと聴いてみる」と預かってくれた。
私は多忙だった。仕事が終わった深夜に彼女のアパートまで車を飛ばして、セックスして仮眠をしたらまた仕事に出て行って、の毎日だった。彼女にしてみれば「i」を聴くよりももっと大事なことがあったに違いない。ある日、パソコン通信のメールで「もう来ないで」と絶縁を告げられた。夜遅く来て帰るだけのあんたっていったい何や。もういらない。
私は馬鹿だったので、急いで彼女の家に向かった。深夜のドアホンに応えて出てきた彼女に、貸したままの大事なCDを返してくれるよう頼んだ。こわばった顔で緑色のCDケースを持って出てきた彼女は、深夜なのに大きな音でドアを閉めたのでずいぶん近所迷惑だと思った。
傷でも付けられていないか心配になって帰路カーステレオでかけた「i」は、そんなに愉快ではなかった。

多少後ろめたさもあったのか、奥の方にしまい込んであった「i」のディスクをこの夏久しぶりに見つけた。若い頃と同じ興奮は帰ってこなかったが、それでも魅力的なアルバムであることは再認識した。
昔の彼女と一緒に家庭を築いて一緒にこのアルバムを聴いている光景を想像してみたが、脳裏に全然現実味のある映像は結ばれなかった。しでかした迷惑が大きすぎると、人は反省する気をなくすものらしい。

ものの本だかサイトだかで「i」は6,70年代にありがちなドラッグ体験を反映した音楽であると知った。自分で使ったことがあるわけではないが、類似の芸術作品と照らし合わせても、あの高揚(とりわけレコードではB面後半のメドレー)は確かにドラッグの影響を濃厚に感じさせる。音楽の毒で間接的に私も正気を麻痺させられていたのかもしれない。いや、もともと私はひとでなし因子を多分に持っているのだろう。音楽のせいにしてはいけない。

オートリバース機能つきラジカセからiPhoneにデバイスは変わったが、むさくるしい風体のモラーツの奏でる天駆けるメロディーの奔放さは変わらない。少なくともCDは失わずに済んだのだからよかったではないか。
ディスクは再発に次ぐ再発でいつでもどこでも入手できるようになり、さらには音楽自体デジタル化によってどのようなかたちでも保ち得るようになったのではあるが。

音楽に対する切実さが最近なくなったな、と思う。今聴かねば、今買わねば永遠に失われ損なわれてしまうという畏れの感情がなくなって久しい。
親しい誰かと逢う、という行為もいずれ切実さを失っていくのだろう。いや、もう既にあらかた失われているのかもしれない。
一人称単数「i」の物語はこの先、どのようなかたちに変わっていくのだろうか。
posted by NA at 03:19| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする