2010年05月18日

「カールじいさんの空飛ぶ家」は主役ではなかったという話

DVD鑑賞。およそ主人公は皆異形の存在だったピクサー(「Mr.インクレディブル」は超人一家だったし)がふつうの人間を中心に据えたドラマを描くとどうなるのか、という興味は、実はあまりなかった。キャラが怪物でも魚でも極上の人情劇に仕立ててしまえるのだから、どうせうまいに決まってるじゃん。
いやいやそうではありませんでした。うまくなかったわけではなく、想像を遥かに超える泣かせ場面をよりによって冒頭に持ってくるという反則技。これはいけません。これはいけません。いきなりクライマックスですよもう。少年少女の出会い、結婚、そして別れ。シンプルに誰もがわかるエピソードを連ねて、その上感動させる。これはずるいです。これはずるいです。しかし参った。だからしょうがない。開始10分経たないところで感動は早くも頂点に達する。

そう、この映画は冒頭で終わっていると言っていい。家が空を飛ぶであろうこと、妻との約束が果たされるであろうことは、すべて冒頭のエピソードで確定してしまっているからだ。ピクサーが映画を作る以上、バッドエンドはあり得ない。果たしてまだ冒険が始まってもいない段階から、どうドラマを盛り上げるのだろう。

未見の方のためと自分の手抜きのために詳しくは書かないが、驚くべきことにこのドラマはここから別の話になるのである。もちろん伏線らしきものは数本貼ってあってちゃんと後で回収されるが、それは物語の首尾を最低限一貫させる程度のはたらきしかなく、老齢に達した主人公カールは否応なしに新しいストーリーの中を進み始めるのだ。単なるプロローグと言うにはあまりにも冒頭のラブストーリーはよくできすぎていた。本編の方が軽くとも、このまま進むしかなかったのだろう。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番第一楽章みたいなものだろうか。オケとピアノの前奏が豪華すぎてメインテーマと勘違いしてしまうのだが、曲全体の位置付けとしてはただの序でしかないという理不尽。カットするのももったいないので、バランス度外視で残した、というところではないか。

冒険映画の常としてこの映画にも悪役が登場するのだが、いかにも座りの悪い悪役である。正直、悪役を演じさせるにはかなり無理があるキャラクターだ。どう考えても彼(男性ね)の長年の苦労とその目指した成果が「悪」の名の下に断罪されてはいかんのではないか、せっかくの努力が最後にはあれかよ、と思わざるを得ない。子供の気まぐれがそんなに貴いか、とか、大人目線からはいろいろ注文をつけたくなる。それぐらい釈然としない。
しかしそれもこれも、大事な部分が終わったあとの話なのでまあ仕方ないか、と思わせるだけの説得力が、くどいようだが一番頭のところにあるのだ。

ピクサーはそんなに意地悪ではないので老人たちがふつうに冒険を貫徹させて日常に帰るところまでをちゃんと描くが、家がガス風船の力で地上から飛翔するところからはすべて死を間近にした老人の幻覚だった、ととれる含みを残しても面白かったかもしれない。原題「UP」の示す内容とはまさしく昇天そのものであって、ほんとうは「空飛ぶ家」の映画ではなかったのだ。
空飛ぶ家の空中旅行は始まってすぐに終わる。家が飛んだらどんなに楽しいでしょう、ということに長い描写を費やすこともなく、カールはあっという間に旅の目的地までたどり着いてしまう。「サツキとメイの家」は見世物になったが、カールじいさんの家はたぶん無理だ。

作画より何よりシナリオ作りに大変な力を注ぐという触れ込みのピクサー映画だが、それでもこのような重心の狂った映画ができるというのは(悪い意味でなくて)何だか楽しい。というか悪くない。ハリウッドの組織力で非の打ち所のない映画を目指すよりも、作家性に寄り添って魅力的な偏りで人を惹きつける映画を作ってほしいと思う。手本は宮崎駿。この調子で頑張れピクサー。
posted by NA at 01:39| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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