2009年11月29日

持てる者が奪われるドラマを観たい

九日間にわたった、政府の行政刷新会議による事業仕分けが終わった。もとより人間のやることに無駄がないはずがない。不断の洗い出しは当然行われるべきで、そのことに異を唱えるつもりはない。また個々の仕分け判断の当否については既に様々な議論が繰り広げられており、特に付言できるような内容も思いつかない。ただ、それ以上に興味を持ったのは「事業仕分け」そのものに対する一般の関心の高さだ。残酷な期待の強さとでも言おうか。

従来密室で行われていた予算策定のプロセスを公開の場に移したアイデアは画期的だった。そしてマスコミによる報道のみならずtwitterやUstreamによるダダ漏れが可能になったことが新たな報道スタイルをつくりネットユーザーの関心を惹きつけたのは間違いない。
だが何よりも大きかったのは、「事業仕分け」が決して十分ではないにしても表題に書いたような一般国民の願望を叶えたからではなかったか、と私は思う。

少なくとも郵政政局以来、日本の市民感情=世論の最大の原動力は嫉妬ではなかったか。既得権益を享受している人・グループの存在を明らかにすれば、有権者の怒りはそこに集中する。全体におけるバランスやその結果何が起きるかなどの影響が顧慮されることはない。そんなむずかしいことを言われても怒れないからだ。
持てる者への嫉妬の感情は無論新しいものではないが、以前はそれを無分別にあらわにすることへの躊躇もまた併存していた。いつかは自分もまた持てる者になれるかもしれないから、という希望が歯止めをかけていたのだと思う。成長が自明の前提だった時代が終わり格差の固定化が露呈した頃から、日本人は内面の嫉妬を押さえ込むことをやめた。

夏の終わりの総選挙では自民党は既得権益の側に立つ政党とみなされ、ゆえに惨敗させられた。そして事業仕分けでは、説明に奔走した官僚が実際どこまでの権限を握っていたかはわからないが、彼らは既得権益を代弁する側とみなされ公開処刑よろしく持っていたとされたものを奪われるゲームの主人公となった。
さて、奪われるドラマの次の主人公は誰だろう。総選挙で辛うじて生き延びた自民党長老らあたりが似つかわしい気がする。生存者を新たな災厄が見舞う第二幕。官僚らは彼らの口利きや工作の記録を山ほどファイルしているに違いない。いかに彼らが人脈や金脈を駆使して私腹を利していたか、来年の参院選の前あたりを狙ってひとりまたひとりと暴き立てる戦略を民主党が講じていてもおかしくはないだろう。走り出した革命はギロチンにまで行き着かねばならない。やり場のない怒りは世界のすべてがなくなるまで燃え尽くさなくてはならない。我々の文化大革命は始まったばかりだ。
posted by NA at 11:04| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 報道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする